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新しい日々  作者: あきら
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「別れましょう」

 美麗がぽつりとこぼす。彼女の涙がポロポロこぼれ落ちる。

 僕は混乱した頭で、どうしてこうなったのか、順序を追って整理しようとした。


 確か、今日の昼頃、美麗の上司が来たんだよな。今思えばこの時に気づくべきだったのだ。彼は美麗を呼び捨てにしていた。寝ぼけていた僕はそんなことには気づかなかった。彼を引き留めて話をするべきだった。

 ……何を話せるのか?

 そんなことは解らないけど、そうするべきだったと理由なき後悔にとらわれる。

 夕方美麗が帰ってきた。

 僕は彼からもらった名刺を渡し、

「上司さんがわざわざ来てくれたけど?」

 と伝えた。

 名刺には「山藤デザイン事務所・山藤亮・Toru Yamafuji」と書いてあった。

 美麗はこの名刺を見たとたん、青ざめた顔で、

「ねぇ! この人なんか言ってった? いづる、なんか言われた?」

 と物凄い勢いで叫んだ。

 僕は、

「ん? 別に……」

 と答え、興奮ぎみな美麗を落ち着かせるために座らせた。

「ただ、来たことを伝えて欲しいって……あと美麗の上司って言って、すぐ帰ったよ」

 小さい子をなだめるように、優しい声で言った。

「会社でなにかあったの?」

 美麗の髪をゆっくり撫でながら聞いてみた。

 しかし、彼女は唇を、ぎゅっ、と噛んだまま黙っていた。下唇が痛そうなほど白くなり、ふるふると震えていた。

「ねぇ? なにがそんなに美麗を苦しめてるの?」

 今までは、他人に深く踏み込むことは嫌いだったから、相手が話したくないことはそれ以上追求しなかった。

 でも、ここまで痛々しい姿を見たら、どうしてもその理由が知りたくなった。僕にできることを自分で探して何かをしてあげたかった。

 美麗は黙ったまま、今度は涙がにじみだした。嗚咽をこらえて、全身がふるえだした。

 僕は彼女を抱きしめて、

「大丈夫だよ、話してよ」

 と囁いた。

「……わた、わたしがいづると出会った日、彼にふられたの」

 うつむいたまま、僕の胸のあたりで、震える声で何かをしゃべりだした彼女。

 僕にはまだ、彼女が何を言いたいのか理解できないでいた。

「……彼は私のことを愛してくれてなかった。

 だ、だから私は彼にその日つっかかったの。

 これ以上こんな関係続けられないって……。

 彼は何の感情を含めずに、そうか、って言っただけだった。

 そしてこれが最後だって言って私を抱いたの。

 終わった後で私は彼を置いてさっさと部屋を出て、

 自分の身体の全てを洗い流すつもりでお酒をあびるように飲んだの。

 そしてあなたに出会った」

 そういって、美麗は顔を上げ、僕の顔を見つめた。

「よく覚えてるよ」

 僕は彼女の震える肩をつかんで、また引き寄せた。

「あなたとつき合いだして、彼のことを忘れられると思ってた。

 でも、私から彼に会いに行ってしまったの。

 あなたは私に安らぎを与えてくれた。

 でも彼といると、私はとても不安になるの。

 彼の目が何を見てるのか?

 私に少しでも興味を持っていてくれているのか?

 とか……。

 それはたまらなく切なくて、でも、私はそんな感情が中毒みたいになっていて……。

 気がつくとまた彼と肉体関係を続けてしまっていた。

 いづるに対しての罪悪感もあったけど、それすらも私は快感に変えていってしまった」

 僕は美麗を抱きしめたまま、ゆっくりと話す彼女の言葉に耳を傾けていた。

「彼から、自分の事務所に就職しないか?

 って言われて、私は迷ったけど、流されてしまった。

 彼の近くにいたいって……、彼の目を少しでも私に向けさせたくて。

 今までデザインに熱中して来たのも、きっと同じ理由ね」

 気がつくと僕も震えだしていた。

「誤解しないで欲しいのは、私はちゃんといづるの事も好きだったの。

 あなたといると、疲れてすさんだ心が癒されていったわ。

 そして同時にあなたを包み込んでいたいって思った。

 愛情ってほんとはこういう感情だったのかって初めて気づかされたの。

 何度も何度も、もうこれ以上あの人には関わらないでいようって思ったんだけど……」

 僕の中で判断力とか感情といったものが消えていった。

 ただ今は話を聞こうと思った。

「本能の部分で彼と離れられない自分が、とってもとっても汚く感じたの。

 あなたに全てを解放しようって思ったけど、

 私は汚れているからって引け目を感じてできなかった。

 あなたもそれを求めていないようだったし……。

 だからこそ、どんどんあなたに安定を求めて彼に不安定を求めて……。

 悪い方へ、悪い方へとどんどん墜ちていったの……」

 すでに彼女は嗚咽をこらえることができずに、話の途中途中で、ううぅ、と漏らしていた。

「あなたは最近、夢中になれるものができた。

 でも、私が求めていた安らぎはどんどん削られていった。

 彼に会う時間がどんどん増えていって……。

 私はいづるが一生懸命になにかをやってるのを嬉しいって思う。

 だけどその反面でとても寂しかった。

 私は自分勝手でわがままでずるいね……」

 僕は深いため息をついた。他には何もできることがなかった。だからため息をついた。

 彼女が再び顔を上げて僕の顔を覗いた。

「ごめんね。もっと早く言うべきだったのにね……」

 そう言って僕の顔に手を伸ばした。僕の頬をなぞり、

「泣かないで、私はあなたの涙には値しない」

 と言った。この言葉で初めて自分が泣いていると自覚した。

「私はずっと、あなたに言おう言おうと思っていたの。でも、あの優しい時間を失うのが怖かった。そして、まだあなたに言わなければいけないことがあるの……」

 彼女は僕の涙をぬぐうように指で顔をなぞり続けていた。僕はほとんど何も考えられない頭で、美麗は自分の涙のほうを先にぬぐえばいいのに……と思った。

 彼女の顔は暗くなり始めた部屋の中で、薄明かりにぼんやりと浮かんでいる。

 涙でぐちゃぐちゃの彼女がいつもより綺麗に見えた。

「私、妊娠したの。もう3ヶ月……」

 視界がゆがみ、頭のなかで変な音ががんがん響いていた。

 ……なに? なんて言ったんだ?

「彼に言うのは怖かった。

 絶対おろせって言われると思ってたから。

 でもね、彼に伝えたとき、すごく真剣で、すごく優しい声で、生んでくれって言ったの。

 私も意外だったけど、彼の方もすごく自分に驚いていたみたい。

 それまで家庭なんて考えたことない様な人なんだけど、

 自分の中でこんなに渇望していたとは思わなかった……って言ったの。

 それで、私の存在が知らない間に大きくなっていた……って……。

 結婚してくれって言ってくれたの」

「あいつは君を愛してない」

 無意識の僕がそう言っていた。

「私、とても嬉しかった。彼はちゃんと私を認めてくれていたんだって……」

「なんて答えたの?」

「まだ答えてない……あなたとちゃんと話してからだと思って……」

「僕より、あいつのほうが好きなの?」

「そんなのどっちって言えない。どっちも、とも言えない……」

「ねぇ、きっと幸せにはなれないよ。オレがその子供もちゃんと育てるよ。だから離れないで……。二人で一緒に育てよう?」

「あなたは、もっと幸せになれるわ。私なんかよりもっと素敵な人に会えるわ。私はあなたにふさわしくないもの」

「ひどいよ……」

「別れましょう」

 泣いたままの彼女。僕がこれまでの出来事を整理している間も、静かに泣き続けていた。

 外で車が通る音、隣の部屋で流れているテレビの音。別世界の音に聞こえる。

「ねぇ、私を抱いて……それで軽蔑して、嫌いになって……」

 何も考えられないまま僕は美麗をきつく抱きしめた。

 そして……。




 3月の中頃、美麗から電話が来た。

 あの日以来全く声も聞いてなかった。

 一ヶ月ぐらいたったのだろうか?

 あれから僕は死んでるように生きていた。

 僕の部屋は半年ぶりに生活の匂いを取り戻していた。

 電話の内容は、引っ越しの準備が終わったから、残っていた僕の荷物を持って帰ってくれとのことだった。

 僕ははっきり言って、もう会いたくなかったが、それでもけじめをつけないと、と思い承諾した。

 彼女の部屋に向かうと、彼女がアパートの前に立っていて、

「段ボールにあなたの荷物がまとめてあるから……部屋の鍵はあいてるわ」

 と言った。

 一人で部屋に入る。

 すでに何もなく、真ん中に、ぽつん、と小さな段ボールが置いてあるだけだった。

 何もないせいで、余計に思い出だけが次から次へと思い出される。

 色んな会話が言霊となって部屋中に満ちていた。


 ――ただーいま!

 ――おかえりー。


 ――ん……つめたぁーい。

 ――目が覚めたろ?

 ――はーい、どーぞ。冷めないうちに召し上がれぇ。

 ――あっっっっっっまぁぁい。

 ――へへぇんだ。さっきのお返し。ほんとに冷たかったんだぞぉ。


 ――うわ! めちゃくちゃ、なにしてんだよ?

 ――なにって? ストレス発散だよぉ。

 ――スケッチブックびりびりに破くのって、そんなに楽しい?

 ――めっちゃくちゃ楽しいよー。いづるもやってごらんよぉ。


 ――どーしたの? さっきから何か考えてたみたいだけど。

 ――作曲? すごいじゃない! できたら真っ先に聞かせてね。

 ――なんか、いづるって文化的活動してると妙にはまるのよねー。

 ――そうやって、何かに真剣になってるところ久しぶりに見た。

 ――だから、なんとなく嬉しくって。


 ――もう出てく!

 ――勝手にすればぁ?

 ――止めたって、出ていくからな!

 ――だから勝手にすればいいでしょ!

 ――出ていくったら出ていくんだからな!

 ――謝りたいなら謝ったらどうなのぉ?


 ――なによぉ? いきなり笑い出してぇ。

 ――なんとなく、みれーと出会ったときの事思い出してたら。

 ――そんなの思い出すんじゃないわよぉ!

 ――いつまでも、そんなこと覚えてないで、もっとましな事に頭つかいなさい!


 ――ちょ…ちょっといきなりなんなのよー。

 ――ささ、パーティールームまでご案内します。

 ――なーに気取っちゃってんのよ。私の部屋なのよー。


 ――今日いづるがご飯当番だったじゃなーい!

 ――だから忙しかったんだって。

 ――私だって忙しいときでもちゃんと作ってるのにぃ。

 ――たまには宅配ピザってのもいいっしょ?

 ――もー、今度またやったら承知しないからね!


 僕はその真ん中に立ちただただ聴いていた。

 一番、大きな声で話しかけてきたのは、あの日、ごめんねごめんねごめんねと泣きながら言い続けた彼女の言葉だった。

 彼女の身体の感覚と共にその言葉は脳裏の一番奥に刻まれた。

 僕はそのままそこにうずくまって座った。

 見慣れた窓から見える風景が徐々に赤くなっていくのを見ていた。

 あまりにも長い時間いたせいか、美麗が部屋に入ってきた。

 無言で背中合わせで座る。お互い体重をかけあう。背中のぬくもりに思わず涙が出た。

 思えば僕らはいつも背中合わせだったのだろうか?

 僕は過去の方向を見続けて、彼女は僕ではなく別の方向を見ていた。そしてお互い背中のぬくもりに癒されていた。

 ふいに彼女が、

「ねぇ、あの楽譜は私がもらっていっていい?」

 と言った。

「楽譜?」

「いづるが作曲したやつ」

「あぁ、いいよ。元々みれーのために作ったようなもんだし」

「この時計どうしようか?」

 クリスマスに彼女にプレゼントした時計。

 カチャリと音がした。彼女が腕から時計をはずしたのだろう。

 背中越しに彼女から受け取り、そして……。

 床にたたきつけた。

 彼女が、はっ、と息を吸い込むのが背中を通して感じられた。

 時計のガラスが割れ、針が止まったそれを拾い上げ、

「この時間で止めておこ」

 と、僕は呟いた。

「そうね」

 と言って僕から時計を受け取る。

 部屋が暗くなっても僕らは静かに座っていた。

 しばらくそうしていたが、

「おなか、冷やすよ。それじゃ、さよなら」

 と僕は立ち上がり、段ボールを持って、彼女の顔を見ることなく、その場を去った。




 例年より遅く桜が咲いた。見るもの全てが色づいて見える春。

 ――別れるなら春がいいね。

 ――別れた後もさ、それを思い出す暇もないぐらい新しい毎日が押し寄せてくるの。

 さつきの言葉が今は解る気がした。

 僕は何も考えなくてもいいように、以前よりバンドにのめり込んだ。

 新しい季節は確かに僕を退屈にはさせてくれなかった。毎日毎日が怒濤のように押し寄せて、それを一つ一つこなして行くことで手一杯だった。

「なぁ、最近、いづる、元気なのか元気じゃないのかわかんないな」

 細野や、他のバンドのメンバーは心配してくれたが、僕は思ったより元気だった。

 でも、自分の部屋で、ふいに悲しくなったり、寂しくなったりした。

 そんなときは、深夜でもなんでも、手当たり次第に電話したりした。


 ある大学帰りのこと、メンバーとぶらぶら歩いていたら突然誰かが後ろから走ってきて、追い抜きざま僕のおでこを、こつん、とたたいた。

 この懐かしい感触は、さつき?

 顔を見るより早く、誰か解った。

「おひさ!」

 にっこりした顔でさつきが言った。

「なにしてんだよ? こんなとこで?」

「おー、このかわいい子誰だよ?」

 堀川が言う。

「なぁーんだ。いづるも隅におけないなー」

 内浦が言う。

「で……誰なんだ?」

 細野が言う。

「いづるの幼なじみでーす。いつもいづるがお世話になってます」

 人なつっこくさつきが答える。

「だから、こんなとこで何やってるんだよ? って聞いてんだろーが! このぷーたろー」

「へへへ、暇だから遊びに来てあげたのに、それは冷たいんじゃないの?」

 他のメンバーに冷やかされたが、二人一緒に帰った。

「ねぇねぇ、これ返すね」

 さつきがそう言って、僕に手渡そうとした物は……。

「これって、あの第二ボタン? なんでまだお前が持ってんだよ?」

「この間、みれっちに会ってね。いづると別れたって聞いたから、返してもらったの」

「んで、なんで俺に返すんだよ?」

「大学卒業するときにまた改めてもらおうと思ってね」

「まぁた変なこと考えだすのな……お前って」

 にしても、この街でさつきに会うなんて、すごく違和感だ。

「んで、何しに来たんだよ? これ返すためだけなのか?」

「もう5月でしょ? いづるが五月病になってないか見に来てあげたんだよ――」

 ぴょん、と僕の正面に回って「――でもいづるの場合は万年五月病かー」と言って笑う。

「ばーか」

 と言って、僕も笑った。

「これからは、ちょくちょく遊びに来るね」

「あのなぁ。俺は女と一緒になんかする気力なんて、当分ないからな」

「ねー。私が、思い出す暇もないぐらい、忙しくしてあげるよ。あと5年ぐらいは待ってあげるからさ」

 これじゃ五月病にはならなくても、さつき病になるな、と心の中で呟いた。


 新しい日々は、容赦なく僕を現在から未来へと引っ張っていく。


                         「新しい日々」   完


最後まで読んで下さった方。

ありがとうございました。

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