3
「う〜ん」
朝方寝て、起きたのは昼の2時だった。
彼女は今日も学校。そういえば、彼女は専門学校だから、もう卒業のはず。就職活動とかうまくいってないみたいだけど……。デザインで食べていくってのは難しいんだろうな。
それにしても、彼女と僕の関係は相変わらず進展していない。なにかきっかけになる出来事でもあればいいんだけど……。
…………。
もうすぐクリスマスか……。
ふふふふ……。
と、不適な笑みを浮かべる僕。
そうだ!
クリスマスってものがこの世にはあるじゃーん。
さんきゅーキリスト!
この時ばかりは感謝の気持ちでいっぱいだぜ。
予算はっと……。
あまりないなぁ。バイト増やすか?
今やってるバイトはコンビニのバイト。でも週に2回しか入れてないから、そんなに収入があるわけじゃない。せっかくの給料も友達におごってばかりで、懐には残らないし……。でも、クリスマスまであと2ヶ月。今から貯めればけっこうな事ができる。2ヶ月も前から準備するなんて僕もけっこう策士だな。問題はなにをするかだ。プレゼントもちゃんとしたの贈りたいし……。
そういえば去年はクリスマスってどんなだっけ? まだつき合ってなかったんだよな。お互いまだ友達みたいで……。あの時期はあの時期で楽しかったな。今は、なんか行き詰まりを感じてるなぁ。やっぱ男ってだめだな。エッチできないだけで、倦怠期なんて……。
でもつき合うってどんな事なんだろう? 彼女にとって僕は他の連中と、どう違うのだろう? 僕は胸を張って「大野美麗」の彼氏と言えるのだろうか?
こんな悩みをもんもんと一人で考えてる自分が嫌になる。かといってこんな悩みを彼女にうち明けることはできないし……。
あぁぁぁぁぁぁぁ!
一人でいると暗くなるからダメだ! 出かけよう!
急いで支度して大学に向かった。
クリスマスといって、まず思い出すのは中3のクリスマスだ。
結局、中2、中3とずっと「藤原さつき」が好きで、告白もできないまま時だけが流れていた。
受験もせまってきたクリスマスに考えるのは、みんなで集まって遊ぶことで、僕らも、もちろん遊ぶ計画を練っていた。
中1の時からずっと一緒に遊ぶメンバーは変わらなかった。
リーダー的な存在の美樹に、僕に、さつき、それから数人。男3人、女3人の微妙な仲だった。
男女で長い間仲が良ければ、その中でつき合い出す奴がいるのが当然の成り行きで、僕とさつき以外はつき合っていた。その後ろめたさからか、単に面白がってか、周りは僕とさつきをくっつけたがった。僕にしてみれば願ったりかなったり状態のはずだったが、さつきとの間にはこのころ気まずい雰囲気が流れていた。
彼女は中2の間、部活の先輩だった高梨とつき合っていた。だけど、先輩に卒業と同時にふられて、かなり荒れてしまった。自暴自棄になり、僕より数段よかった成績もどんどん落ちていった。学校もさぼりがちになり、先生や親に反抗するようにもなった。
その間、僕にできたことは、彼女を心配し、見守ることぐらいだった。たまに話を聞いてあげたり……。彼女の支えになっている自分がものすごく嬉しかった。彼女のためならなんでもしてあげたかった。
11月の半ば、彼女は家出した。昼間は僕の部屋にかくまっていたのだが、なにせお互いの親同士も仲がよかった。このまま僕の部屋にいても見つかるのは時間の問題だと思って、僕らは夜の街に出た。
「どこいこうか?」
白い息と同時に僕の口から言葉がもれた。外はかなり寒く、とにかく暖かいところに行きたかった。暖かくて、それでいて、人の目の届かないところ――。
「いづるってなんだか頼もしくなったね」
さつきが手袋をはめた手で僕のすそをつかんでいた。寒さのためなのか、不安のためなのか、少しふるえているようだった。
冗談ぽく、笑いながら。
「さつきが弱くなりすぎ」
と、返事をする。
男一人にふられたってだけで、こんなに弱くなっちまって……。彼女がどれだけ先輩のことを好きで、どれだけふられて悲しかったか、僕には痛いほど、そうほんとに痛いほど解っていた。解っていながら、僕にできたことは、心配する事だけで、彼女が弱くなって行くのを見ていることしかできなかった。もちろん告白なんて、できるはずもなかった。そんな事をしたら彼女はまた一人相談者を失うことになる。
今回の家出も僕は彼女を説得しきれずに、こうやって協力してしまっている。単に彼女を甘やかしてるだけなのかもしれない。それでも僕は、家に帰れ、とは言えなかった。
しばらく、目的もなく歩いていたら唐突に彼女がつぶやいた。
「ね――私、少しお金もってきたし……ホテル行こうか?」
大学に着いて、友達をさがす。今は4限だから細野は法学の授業に出てるはず。
とりあえず、その教室に向かう。
細野は一番後ろの席に座って居眠りしている。
隣に座ると、細野は気がついて、
「よ、めずらしーじゃん」
と挨拶してくる。
「おでこに跡ついてんぞ」
居眠りしてたせいで、細野のおでこは赤くなっている。
「んー」と、細野はおでこをさすりながら「あぁあ、これなかなか直らないんだよなぁ。若いときはすぐ直ったんだけど、俺も年だよなぁ」とぼやく。
「まだまだ二十歳だろーが」
「もう二十歳だよ。これから細胞の数は減っていくばかり……」
細野はまだおでこを気にしてる。
「じじむせー」
僕は一応つっこんでおく。自分自身、最近不摂生のせいもあって、体力の衰えを痛感していた。「もう」二十歳なんだ。次の正月には成人式も待っている。体ばかりが大人になっていき、精神的な部分は中学から何も進歩してない。難しい数式は解けるようになっても、自分の悩みを解決する手段はいっこうに見つけられない。
「ところで、作曲は進んでるか?」
細野特有の話題転換の早さ。自分の年について、もんもんと考えてた自分が馬鹿らしくなる。
「そーゆーおまえはちゃんと作ってるのかよ?」
「あぁん? 俺はちゃあーんと授業に出たりと忙しいの! そーゆー暇はありませーん」
細野が、今度は背もたれに寄りかかりながら答える。
「あそ……」
「おまえは暇そーにしてんだから、一番先に作れよな」
暇はあっても才能はない。そー簡単にはできねーよ、たく……。
教壇では、教授が法の精神だかなんだかをトクトクと語っている。
「なぁ、こんなのさぼって遊びにいこーぜ」
細野に提案してみる。
「あぁ、それもいいかもな。行くか」
「どこ行く?」
とは言ったものの、近くに遊べる場所といえばゲーセンぐらいなのだが……。
「もち、ゲーセン!」
細野がウィンクしながら答える。男のウィンクは勘弁してくれ。
中3の11月。あの日、僕とさつきは――。
「ね! 聞いてるの?」
僕が唖然としてると、彼女が聞いてきた。
「ホテルって――普通の?」
とぼけたふりして、聞き返した。
「もー! そんなとこ行ったら、お金もったいないよー」
彼女が、僕の目をまっすぐ見て言った。
僕はしどろもどろになって、
「そ、そーだよな……」
などと言ってしまった。何もかもが、幻覚、幻聴のように感じた。目の前にいる人間がほんとにさつきなのか……。それさえも解らなくなった。
「あはははは……別に何もしないよ」
彼女が笑った。きっと彼女も自分で自分が解らなくなってるのかな?
「そ、そーだよな……」
再び、同じセリフを繰り返した。
少し歩いたところに、目的の場所があった。
「あったあったぁ!」
彼女が無邪気に言った。俺のこと、男って解ってるのかな? そんな疑問も彼女の顔を見てるとかき消えてしまった。
さつきが部屋を決め、さつきが鍵をうけとり、さつきが先に歩いて、部屋に入った。
「おまえ慣れてんなー」
ちゃかしてみた。
「そんなこと言わないの!」
彼女の顔が少し赤くなった。
部屋は、僕が想像していたよりも地味だった。ベットも普通だった。
「ねぇ、お酒もあるよー」
彼女が冷蔵庫を物色していた。僕は部屋の隅で立ちつくしているだけだった。
ぷしゅ……。
「えへへ。ね、のも」
彼女が僕に缶ビールを手渡した。
「ほら、ここ座って」
うながされるままに、一緒にベットに腰掛けた。
「なぁ、家でなにがあったんだ?」
僕が現実に戻るために――、彼女に現実を促してみた。
「ん? 別になにも。ただ今までつもりつもったものが爆発したーってだけ」
「そんなに親のこと嫌い?」
「だーいっきらい!」
それから、お互いの親のグチを言い合った。その間、慣れないお酒もたくさん飲んだ。どれだけ時間が経っただろうか? 僕は本題を切り出してみた。
「まだ先輩のことふっきれないの?」
「ん? 先輩? 高梨先輩のこと?」
「そうそう」
「そーんなの、とっくにふっきってるわよー」
あっけらかんと彼女が言った。すでに酔っていたから、ほんのり頬が赤かった。
「なら、なんでそんなに変わっちゃったんだ?」
「あれはきっかけだったのかな……。今までまっすぐ前から見てるだけの物事が斜めから見えるようになったの。私っていったい何のために生きてるんだろーとかね」
ぼーっと、遠くを見ながら言う彼女は僕なんかよりずっと大人に見えた。
「無邪気に楽しんでいただけの今までの私ってなんだか馬鹿みたい」
「そんなことないよ。前の明るいさつきのこと好きだったもん」
酒の勢いで、なんだかすごいことを言ってしまった気がしたけど、頭がぼーっとして、わけがわからなかった。
「じゃー、今の私は? 今の私はかわいくないモンね。何にでも反抗して、大人ぶって――ほんとさいてー」
「さつきは自分のこと嫌いなの?」
「だいっきらい! 親よりも、先生よりも自分が一番嫌い!」
「じゃあ、好きになるようにがんばったら? 好きな自分のイメージってあるんでしょ?」
「うーん、どーなんだろ? わかんなーい」
「真面目に考えてる?」
「かんがえてなーい」
「こんのぉ!」
ふざけて彼女の額を軽く叩いてみた。そして、お互いふざけあってバタバタあばれた。
しばらく、そうやって子供のようにはしゃいでいた。
「なんか懐かしいね。こうやっていづるとふざけあうのも」
「そうだな」
「あー、汗かいちゃった。私シャワーあびるね」
「え、お、おい、ちょっと待てって」
「ん? ――――あー! いづるって変なこと考えてるー? えっちなんだーあははは……」
ほんと酔ってやがるな。そーゆー場所なんだから、考えてしまうのもしかたないだろ!
お酒も入って、理性は弱くなっていた。この時の僕は、自分の野性を押さえつけていられる自信はなかった。
――どーなっちゃうんだろう……これから――。
シャワーの音は妄想をかき立てるばかり。すでに、僕の男の部分は自分の制御から逸脱していた。
――今の内に元気を搾り取っておいた方がいいのかな?
そんな考えまでもが頭をめぐった。いっそ寝てしまえたら……。
「あー気持ちよかった。いづるもあびる?」
考えてる間に彼女は出てきてしまった。
「お、俺はいいよ……」
ぷしゅ……。
また、彼女がビールを飲み出した。
「お、おい、飲み過ぎだろ?」
「いいの! まだまだ飲めるもん!」
僕はどうするべきなのか?
それすらも思いつからなかった。
僕はこうやって見てるだけ?
流されるだけ?
いつもそうだった。これからも?
最近、ゲーセンでは音楽系のゲームが流行っていた。音楽好きな僕らがこれにはまらない訳がない!
「お! なんか新しいの出てるぞ」
細野が嬉しそうに言う。
「んじゃ、早速やってみるか?」
「おう」
すでに行列ができている。そこに並んでる間、僕らは他愛もない話をするのだが、この時間がけっこう好き。細野といると退屈しない。細野は僕といると退屈しないんだそうだ。そういう関係ってなかなかないと思う。だから、僕はこの関係を誇りにさえ感じていた。
「そーいえば、おまえの彼女――大野さんだっけ? この間、街で見かけたぞ」
細野が急に思いだしたように言う。
「へぇ、どこで?」
何気なく聞いてみる。
「んー。駅前で、男の人見送ってた。いづるかなぁっと思ったけど、なんか見るからにおじさーんって奴だった」
ちくん……。
また悪い虫がうずきはじめる。嫉妬、独占欲、ねたみ、憎しみ。彼女にだって、彼女の生活がある。男友達や、学校の先生、元彼だっている。その全てを僕は否定したがる。いいかげん、こんな性格は直さなければ、と思うのだが、なかなかそうもいかない。恋愛って楽しいことよりも、面倒くさいことの方が多いのかもしれない。
「あれだけ綺麗な彼女だと、彼氏するのも大変だよな」
細野が他人事のように言う。
「そーゆーおまえだって、みかちゃんとはどーなったんだよ?」
「え? あぁ、まぁまぁかな。おまえみたいに同棲なんてできないけど……。うまくいってるよ」
細野の彼女のみかちゃんは、他のバンドのボーカルだった。やけに色っぽくて同い年とは思えないほどいい女。僕が苦手なタイプでもある。一年、口説きまくってやっと彼女にできた。僕はその過程を聞き続けてきたので、なんとなく二人のなりゆきは気になっていた。
「うまくいってるって、具体的には?」
自分達がうまくいってないと感じているから、ちょっとつっこんだ質問をしてみる。
「具体的……っていってもなぁ。別に何も……。適度に喧嘩もしてるし」
そう言いながら、細野は幸せそうな顔をする。
「エッチとかは?」
僕らの間に遠慮という言葉はない。思ったことはすぐに口から出てしまう。
「おまえねー。そんなこと他に奴にも聞いてるのか?」
「いや? そんな質問するのは初めて」
細野はうつむきながら、ぼそぼそと話し出した。
「そりゃ、つきあって2ヶ月たったからな。まぁそれなりにってやつだ。でも最近、彼女も忙しいらしくて、なかなか、な」
「そーなのか……。今度、おまえとみかちゃん歩いてるとこ見たら想像しちゃいそう」
「おまえなぁ! そーゆーのなんか、根暗って感じだぞ」
照れながら、つっついてくる。
「どーせね」
「そーゆーおまえの方はどーなんだ? 同棲してんだろ? 毎日おさかんってやつ?」
細野が反撃してきた。僕は――何も言えるはずもない。
「うーん、別にぃ」
というのが精一杯だ。
「なんだよー。俺に言わせておいて、おまえは言わないのか? ずるいなぁ」
「ま、そのうち話すよ」
はぐらかしてみる。
「まぁ、いいか。それより……」
細野が話題を変えてくる。こういう時は、彼の話題転換がとてもありがたい。
さつきが酔いつぶれるまで、僕は理性と野性の狭間で戦っていた。
「ねぇねぇ、さっきからいづる、ずーっと聞いてるだけじゃん。なんかいづるのことも話してよ!」
酔っぱらいと化した彼女は、からみ上戸だった。
「俺のこと? 別に何もないしなぁ」
「いづるって自分の恋愛のこと話さないよね。今までそんな話聞いたことないし」
話せるわけないだろ! と心の中で叫んだ。
「俺の話聞いても退屈だろー?」
「そんなことないよ。よし! 今夜はおねーさんが相談にのってあげましょう! 今までのお礼に」
「いいって、別に……。相談することなんてないしさ」
「えー、うっそだー。青春まっただ中の若者が恋愛の悩みもないなんて、そんなのつまんなーい!」
別に誰かを楽しませるために恋愛する訳じゃないんだから……。とは言ってもこの分じゃ、何かを話さないと納得しないんだろうな。諦めてぽつぽつ話だした。相手が解らない程度に……。
「俺の好きな人は――いっつも一生懸命でさ、何にでも全力でぶつかってっちゃうんだ。時にはそれで悩んだりもしてるけど、だいたいは自分で解決しちゃう」
「へー。そんな人周りにいたかな? 美樹?」
「違うよぉ。あいつは一生懸命ってゆー言葉からかけ離れてるじゃん」
「そーだねー。あははは」
彼女はビールをその辺にこぼしながら笑った。
「その人は僕なんかよりほんとは強くて、そこに憧れる」
「なんか、いづるって強さに弱いよね」
「ん?」
「そんなことよりも、誰なの? その人の名前教えてよ!」
言えるわけないだろ!
「いーやーだ! そーゆーおまえは今好きな人いるのかよ?」
「え? 私の好きな人はぁ――」
ぼーっとした目で僕を見つめてきた。それだけで僕は幸せになれた。
「やっぱ言わない!」
そう言いつつ、さつきはベッドに、どさっ、と倒れ込む。
「言いかけてやめんなよぉ」
ちょっとむかついたので、脇をくすぐってみる。
「先にそっちが言いなさいよー」
まくらを投げつけてくる。
「さつきが言わないんだったら、いーわない!」
投げ返す。
「じゃあ、いづるが言ったら、私も言う。だからいえってばー」
今度は、まくらを押しつけてくる。
「なんかずっるいなぁ」
こんな何気ない会話のやりとりの中で段々彼女に睡魔が襲ってきたようだ。
「んー、私、そろそろねるぅー」
そのまま、ベッドの上で目を閉じてしまった。
――そこ占拠されたら俺はどこで寝るんだよ――。
ちっちっちっちっちっちっちっちっちっちっち…………。
時間が静かに流れていく。腕時計を耳にあて、それを確かめる。
さつきの寝顔を眺めていた。お酒のせいで、赤くなった頬や、思ったよりも長かったまつげ、半開きですでに寝息をたてている唇、ぷっくりとした耳たぶ。その全てが宝物のように思える。
ちっちっちっちっちっちっちっちっちっちっち…………。
ちっちっちっちっちっちっちっちっちっちっち…………。
ちっちっちっちっちっちっちっちっちっちっち…………。
ちっちっちっちっちっちっちっちっちっちっち…………。
その音と、自分の心臓の音が重なって聞こえた。徐々に心臓の音がそのリズムより早くなり、不協和音のような複雑なリズムになっていった。
ふいにさつきの唇に触れてみたくなった。
どっどっどっどっどっどっどっどっどっどっど…………。
心臓の音がうるさい。自分を落ち着かせるために深呼吸してみた。
――さわるぐらいなら……いいよな――。
そっと指を伸ばした。
あともうすこし……あともうすこし……。
自分の指がふるえているのが、他人の指のように見えた。指先がマヒしてきた。
――これじゃ、触っても感触わからないな――。
ついに、それは、目的の場所にたどり着いた。それは、思ったよりも良い感触ではなかった。寝息のためか、すこし乾いてぱさぱさしていた。
「んー……」
彼女が寝返りをうった。僕の指は再び空中に投げ出された。
どどどどどどどどどどどどどどどどどどど…………。
すでに心拍は限界まで上がっていた。200メートル全力で走った後みたいだった。
「んん……」
再びさつきが寝返りをうち、顔がこっちを向いた。
「すーすーすーすー」
寝息が枕元のシーツを少しだけ揺らした。
そして、僕は彼女にキスをしたいという願望を押さえられなくなっていた。
ゆっくり、ゆっくり顔を近づけた。
どどどどどどどどどどどどどどどどどどど…………。
相変わらず心臓の音はうるさかった。この音でさつきが目を覚ましてしまうんじゃないか? そんな不安がまた心拍数を上げていった。
息を殺して、少しずつ、少しずつ近づけていった。
彼女の顔が徐々にアップになっていった。まつげが一瞬ぴくっと動いた。
――おきてるんじゃないか?
疑問と不安、それらに感情はとらわれて、期待や欲望はすっかり隅っこに追いやられていた。
――あと少し――。
しかし……。
「ぷふぁー」
息が続かなかった。慌てて彼女から離れ、息継ぎをした。
――今の息継ぎの音で目が覚めたかな?
さつきを見る。
「すーすーすーすー」
さっきとなんら変わらない彼女がそこにいた。
そして、僕は懲りることなく再度挑戦するのだった。
また、徐々に……徐々に……。
近づく彼女の顔があまりにもかわいく見え、罪悪感が少しわいたので、あと少しという所で、僕は目を閉じた。
そして、彼女の唇に僕の唇があたった。
指で触ったときより、生々しく、かつ、柔らかく感じられた。
彼女の鼻息が僕の顔にかかった。
――くすぐったい。
どどどどどどどどどどどどどどどどどどど…………。
心臓はもはや人のものとは思えないほど高鳴っていた。しかしこの時の僕の耳にはいっさいの音が聞こえなかった。時計の音も、自分の心臓の音も、彼女の寝息も、そして彼女の心臓の音も……。
どのくらいの時間、そうしていただろうか……。
ゆっくりと離れ、ゆっくり目を開けた。
どどどどどどどどどどどど、どどっっ!
不意に心臓が一泊飛び越してなった。心臓が止まる――そんな感じさえもした。
彼女と目が合った。彼女は目を覚ましていた。
その数瞬後、僕の目の前がまっしろになり、頭全体に衝撃が走った。
それが、さつきに叩かれたためと知るのに、また数瞬必要だった。