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必ずといっていいほど、朝が来る。
それは誰が決めた物でもなく、朝はいつでも僕を包む。
やわらかな光と、あたたかな空気に、まどろみが漂う。
ゆっくりと浮かぶように、沈むように、意識がはっきりしてくる。
今日は、いつもよりすっきりした朝だった。低血圧気味な僕にしてはめずらしい。気分もなんだか清々しい。
カーテンの向こう側から染み込んでくる光に、今日はいい天気、と爽やかな気持ちになる。
すーすー……と隣から寝息が聞こえてくる。彼女の寝顔は僕を幸せにしてくれる。
なにもかもが、清々しい朝の風景だ。
ただ、なんとなく身体の下の方が落ち着かない。徐々に目が覚めるにつけて、身体の感覚もはっきりしてくる。
トランクスの中が濡れている感じなのだ。明らかに汗とは違う感じ。
……。
「なんかやばい夢見たみたい……」
誰に言うのでもなく、つい口から言葉が漏れた。
隣の彼女が眠そうに、「んー?」とつぶやく。どうやら、今の呟きに目が覚めたらしい。
僕は彼女をまたいで、急いでトイレにかけこむ。途中、積み上げられた雑誌につまずきそうになりつつ……。
何年ぶりかの、あれだった。
トイレの中で、下着の中を見ると情けなさがこみ上げてくる。とりあえず、拭ける分だけ拭いて、トイレから出る。
そして、彼女に見られないようにそっと引き出しからトランクスを取り出して風呂場に入る。
冷たいシャワーをあびる。
シャーーシャーー……。
はじめて、これを体験したのは中学2年の時。当時、初恋をしていた僕は、その彼女を夢の中で汚したのだった。
純情すぎるほど、純情だった僕は、その日、自己嫌悪に押しつぶされるように、足取り重く学校へ向かった。
その日の朝の景色は驚くほど、はっきり覚えている。まるで、周りの人たちみんなが僕の恥ずかしい事実を知っていて、僕を見つめているような気さえしていた。
学校に行く途中。
「おっはよー。どーしたの浮かない顔して」
誰かに話しかけられた。近所に住んでる同級生だった。その同級生が他の誰かだったら、どんなに救われただろう……。話しかけてきた彼女は、まさに初恋の彼女だったのだ。
ちょっぴりはすのかかった声と、ショートカットが似合う彼女は、男まさりとゆーかなんとゆーか……。まぁ、明るい子だった。僕はどちらかとゆーと暗い性格だったので、彼女の明るさがまぶしくみえた。
学校に着くまで、他愛もない会話をした。昨日のテレビの内容、お互い好きな歌手の情報、彼女の嫌いな同級生の話。
夢の中での彼女を思いだし、顔が赤くなった。僕は、彼女の顔をまともに見れなかった。
教室に付くと、彼女は僕の席までついてきて……。
「ほんとに今日元気ないわねぇ」
と僕を頭から足の先まで見回した。身も凍るような思いだった。
「あ、わかった! 宿題やってないんでしょう? いいよ写す? 今日の宿題ってそんなに重要だったっけ?」
彼女が僕に数学のノートを渡そうとつきだしていた。
「あ……ありがとう」
ぎこちなく答え、ノートを受け取った。
宿題はもちろんやってなかった。って、いばって言える事じゃないんだけど。僕は勉強が大嫌いだったし、まめな性格でもなかった。いつも彼女のお世話になっていたのだ。
にしてもだ……。
その日は、彼女の明るさが本当につらかった。
「もぉ! たまにはちゃんと宿題ぐらいやってこよーね」
「うるさいなぁ。親みたいなこといってんじゃねぇよ」
「ふん! いっちょまえな事言う前に人並みな事はやろー……ぜ!」
言いながら僕のおでこをはじいた。
幼なじみ……いや腐れ縁? いい加減、お姉さんぶるのはやめてほしかった。僕がこんな大人しくなったのも、彼女のせいだと常々思っていたのだ。
……ああ、早く自分を認めさせたい……。彼女に恋心を抱いてしまった僕は、この関係に苛立ちと焦りを感じていた。
……このまま告白しても絶対にふられる……。
それは解りきった答えなのだ。僕はこの悩みに何度、眠れぬ夜を過ごしたことだろう。
それに加え、その頃では悩みがもう一つ。彼女が、部活の先輩とつき合ってるとか何とか……。
眠れぬ夜は僕を離してはくれなかった。
「もぉ! なにぼっとしてんのよ! 早くしないと一時間目始まっちゃうよ!」
彼女のきつーいお言葉に僕は我に返った。
彼女の顔を見上げ、文句を言おうとした……けど……。
んー? やっぱ、急にきれいになったよなぁ。女の子になってる。
どこがどう変わったかって、上手く説明できないけど、ちょっとした仕草や、視線や言葉尻になんとなく女の子を感じさせる。
「なに? 顔になにか付いてる?」
僕の視線に気付いたみたい。
「かたつむり」
「……」
「…………」
「ばぁっかっ!」
彼女は僕の席から離れ自分の席に戻った。
「とにっ……」
僕はぶつぶつ文句を言いながら、それでもしっかりと数学の宿題は写すのだった。
冷たいシャワーはやがて暖かくなってゆき、そして熱くなる。
「あっちぃ」
あわてて、温度調節をしようと手を伸ばす。
「ふぅー」
深いため息をつく。
彼女は今、どこでなにをしてるのかな。
思い出が波のようによせてはかえし、時間の感覚が曖昧になる。再びシャワーを冷たくして、頭から浴びる。
僕が風呂場から出る頃には、寝ていた彼女も起き上がってコーヒーを煎れている。
そして僕は濡れた髪のまま彼女にキスをする。
「ん、つめたぁーい」
ふくれっつらも可愛い。
「目が覚めたろ?」
いたずらっぽく言ってみる。
「……コーヒー飲む?」
「ああ、今日は砂糖無しでお願い」
「はーい!」
やけに元気な返事だな。
「今日は?」
何気なく彼女に今日の予定を聞いてみる。
「ん? 学校? 行くよぉ」
彼女は、今デザイン系の専門学校に通っている。詳しいことは聞いてないけど……。
僕はといえば、一応大学生なのだが一日中暇そうにしてたりする。
「はーい、どーぞ。冷めないうちに召し上がれぇ」
やけにニコニコ顔で僕にコーヒーを渡す。
今日、何かいいことでもあるのかな?
「……」
う……。こ、これは……。
「あっっっっっっまぁぁい」
砂糖漬けのようなコーヒー。
「へへへ」
こ、このアマ!
「てっめぇ!」
僕が殴りかかるような勢いで言うと、あっけらかんと、
「へへぇんだ。さっきのお返し。ほんとに冷たかったんだぞぉ」
と言い返してくる。
今度、氷漬けにしてやる。
「あ、そうだ。いづる、今日も暇なの? ちょっと頼みたいことがあるんだけど……」
いづるは僕の名前。
如月射鶴。2月に鶴を射るって変な名前だと思うが、まぁあの親の考える事はよくわからない。
「どーせ、いつも暇ですよ!」
「まま、たかがコーヒーでいじけない、いじけない」
「で何?」
彼女が僕に頼み事するのはめずらしい。だから内心僕は喜んでいた。もうちょっと僕に甘えてくれると、かわいげが数段アップするのに……。まぁ、確かに僕は頼りにできる存在ではないんだろうけど……。その点、中学時代からなにも成長してないと言える。
「今日ね、お昼頃に荷物が届くの。で、受け取ってお金払っておいてほしーの」
んー……。今日こそはちゃんと学校に行こうと思ってたのに……。でも、久しぶりの彼女の「お願い」だ。聞いてあげようではないか。でも、そうそう素直に引き受けてたまるかっての。
「えー」
「いいじゃない。コーヒーのお礼だと思って……」
「コーヒーのお礼って、このコーヒーでかぁ?」
彼女に甘ったるいコーヒーをすすめる。
「ん……うわっ、ほんとあまーい。えへへ、ごみん。だからお・ね・が・い」
楽しそうに笑う。
「ま、しょうがないなぁ」
もう、この一言が言いたくて言いたくて……。世の中の男の大半が、この言葉を言いたがってるに違いない。
いやいやながら(の振りをして)、僕は彼女からお金とはんこをうけとった。
「お願いね」
「何が送られてくるの?」
率直な疑問だ。
「ふふ、ひ・み・つ」
なんだ? なんだ? よけいに気になるじゃないか……。
僕がもんもんとしてる間、彼女は手早く身支度を整えて、数十分後には別人、っといやいや、お綺麗になられて……。
「それじゃ、留守番お願いね」
などと言って出ていってしまう。
一人取り残された僕は彼女の部屋で、暇をつぶすことにする。
彼女の部屋。そう、ここは彼女の部屋で僕は2ヶ月前に転がり込んだ。僕の部屋はちゃんと近所にある。一人暮らしの孤独に負けて彼女と、まぁ言ってみれば同棲を始めた。同棲って言うと、なんか照れるけど。
しかし、しかしだ!
2ヶ月、同棲して、同じベットで寝てるとゆーのに、なんとゆーか……。
ぶっちゃけた話、エッチがないのだ。キスまでなら日常茶飯事なのに……。
問題はどこにあるかといえば、特になし。問題が見つからないのが、問題なのかな?
お互い好き……だと思う。
しかも、僕には健康な欲求もある。今朝みたいに、健康すぎる時もあるが……。いやいや、今朝のは本当に数年ぶりで、いつもちゃんと自分で……。
え、えっと、そうじゃなくて……。
とにかく!
お互い好きなのに、一歩前に出ることができないのだ。僕が意気地なしなのかもしれないし、彼女が潔癖すぎるかもしれない。原因は色々あって、そのどれでもない気もする。
もう最近では、そんな関係がとても清々しくて、けっこう気にいってる。
プラトニックでもいいんじゃないか、と……。
でも、男である僕の身体はそれに反抗してくる。
あぁ、早速その反抗の跡を洗濯しなければ……。
脱衣所の隅の方に隠しておいたトランクスを持って、風呂場に入る。洗面器に投げ入れて、お湯を出す。
ざーざーざー……。
……あめ……。
雨が降っていた。
中二の夏休み、あの日せっかくプールに行く約束が雨で台無しになった。僕と、初恋の彼女と、友達数人で遊びに行く約束をしていた。
朝から降っていたが、中止の連絡もないし、途中で晴れるかもしれないと思って、約束の集合場所に向かった。
来ていたのは一人だけ、初恋の彼女。
「よう」
僕が話しかけると彼女は、
「もぉ、来ないと思ったわよ」
と微笑みながら言った。なんとなく、彼女が僕だけを待っていた気がして嬉しくなった。
「他のやつらはぁ?」
「来ないみたいね」
「まぁ、この雨じゃしょうがないよなぁ」
空を見上げた。うっそうと分厚そうな雲がひろがっていた。落ちてくる雨がそれをうっすらとぼかしていた。
「ふふ…私たちってけっこう変よね?」
彼女も空を見上げていた。
「んん? なんで?」
「だって、こんなに雨が降ってたら普通中止だと思うじゃない?」
彼女はどうして、ここまで来たのだろう?
「そうだよな、普通。でも晴れるかもしれないじゃん?」
「あれ? 天気予報みてないの?」
「見てないよ」
言ったとたん、彼女が大笑いしだした。
「一日中降り続くって言ってたわよ」
「えぇ!?」
そっか、これからは天気予報は見ることにしよう。
彼女は笑い続けていた。
「なんだよ? そんなに笑うことかぁ?」
「あはは……。実はね、言っちゃいけないって言われてるんだけどね。ふふ……」
なんか不気味なほど笑ってるよぉ。
「いづるがここに来るか、賭をしてたの。今朝、美樹から電話が来てね」
美樹…彼女の親友でもあり、僕らグループの仕切り屋的存在。ろくでもない事を考え出すのが得意な彼女らしいと言えば彼女らしいか……。
「そっか、それで俺の所には中止の連絡がなかった訳だ」
「ごめんねぇ」
いいながら、まだ笑ってやがる。
憎たらしいほど笑ってる。けど、やっぱ憎たらしいほど笑顔が可愛かった。手で口を隠そうともしないで、のどの奥まで見えそうな笑い方。全然女の子っぽくないのに、彼女の唇の動き方や、のどの奥の生々しさに微妙な色気を感じた。
「私は、いづるは天気予報見ないから絶対来る、って美樹に言ったら本当にその通りなんだもん」
「ふ、悪かったな、思った通りの男で!」
「ううん、ありがとう。これで千円、もうかったわ」
おもいっきり、にっこりと笑った。
ほんとに、憎たらしい。
「ねぇ、せっかく家から出てきたんだから、どっか行かない? 千円のお礼に何かおごるよ」
「そっか、じゃあステーキでも食わせてもらうかな」
「それじゃ、私の損じゃない!」
こつん、とおでこを軽くはじかれた。
彼女と二人きりで街を歩くのは、けっこう多かった。小さな頃から一緒だったから趣味も同じだし、遊びに誘うのも誘われるのも多かった。
軽くデパートなどを歩いたりしたのだが、彼女といると飽きなかった。彼女は色んな物に興味をもって、色々やらかしてくれた。電化製品の展示物をいじって壊したり、売り物の椅子に思いっきり腰掛けて、背もたれをおっぽったり。さんざん騒ぎまくっては店員さんに怒られて……。楽しくて、でも疲れた。
今日もほとんど、いつもと同じだった。
でも、ふいに彼女が、
「ねぇ、いづるはプレゼントとか何もらったら嬉しい?」
と僕に聞いた。聞いた時の彼女の顔は僕の幼なじみの彼女ではなく、僕が恋してる女の子の彼女だった。
彼女が部活の先輩とつき合っているという噂が頭をよぎった。
なんとなく、嫌な気配はしてたのだ。
彼女はずっと、何かを言おうとして、でも言えない素振りを何度も見せていた。
「誰かにプレゼントでもするの?」
聞かずにはいられなかった。
「え、えっとね。部活の先輩に高梨さんっているでしょ?」
「そんなの知らないよ。俺は違う部だもん」
彼女は陸上部、僕は吹奏楽部。でも高梨は知っていた。僕から見ても背が高くて、かっこいい男だ。
「その……ね。明後日、先輩の誕生日なんだ。先輩、もう部活やめてるし、なかなか会えないし」
僕は、彼女のその一言一言、動作の一つ一つが本当の意味で憎らしくなってきた。
「その先輩のこと好きなんだ?」
「うん」
真っ赤な顔で、それでも精一杯頷いた彼女。
やっぱり可愛いと不覚にも思ってしまった。
「つきあってるの?」
でも、そう聞いたとたん、彼女はうつむいてしまった。
「つきあってないのか?」
などと聞いてしまう自分が嫌になった。ほんの少しの可能性にすがりついていた。
うつむいたまま、彼女は耳まで赤くなった。こんな彼女を見るのは初めてだった。
「あのね、別に内緒にしたかった訳じゃないんだ。なんとなく照れくさくって……」
と、顔を上げて言い放った。つまり、噂は本当だったのだ。僕がこの時どれだけショックを受けていたか彼女は知らなかっただろう。
「そっか、お前がねぇ。男とつきあえるとは思ってなかった。って高梨って人女の人だったりして」
と、少し冗談めかして言うのが精一杯だった。
「もお!」
今度はちょっと強めに、彼女の照れ隠しの分だけ強めに、おでこをこずかれた。
「いってぇ。高梨にもこういう事すんのかよぉ?」
「ちゃんと先輩付けなさい! 年上なんだから」
いつもの彼女に戻ってた。僕の幼なじみで、お姉さんぶる彼女。
結局、高梨「先輩」には、僕が選んだ星の砂が入ったブルーの小瓶を買った。
「これ、キザすぎない? 先輩には合わないよ」
などど言ってたくせに、自分の分に赤い小瓶も買ってたのを僕は見逃さなかった。
色んな思い出がよぎる。
やっぱ今朝の夢のせいかなぁ。えっちぃな夢だったのは覚えてる、とゆーより目の前のトランクスがそう語ってる。でも、相手が誰だったかとか、どんな人だったかは覚えてない。どーせ、今お出かけ中の彼女とだろう。僕の心の中では、やっぱプラトニックでは割り切れない部分があるらしい。夢は深層心理の現れってゆーしなぁ。
うんうん、やっぱこのままでいいわけないよ。健康な男女が同じ屋根の下で暮らして、何もないってのは不健康だ。きっと、そのうち変な精神病にかかってしまうに違いない。などと自分に言い聞かせてみる。もちろん、その後に無性に寂しくなったのは言うまでもない。こればっかりは、僕だけでうんうん考えていても進まない問題なのだ。
考えるのはもうやめよう。
今日の昼飯のことでも考えよう! 今日は何食べようかなぁ♪
昨日の昼はカップラーメン! おとといはカップ焼きそば。その前は冷凍ピザ。その前はインスタントの日本そば。その前は同じくうどん。
…………。
最近、ろくな物食べてないな。ちょっと買い物に出かけてくるか。洗濯もおーわりっと。一人パンツを洗うと自分が10代に戻ったような気がする。
世の中には、某薬に頼らないと元気もでない人もいるのに、僕のは元気にならなくてもいい時でも元気だからなぁ。その点では僕は恵まれてるのか? などとくだらない事を考えて、明るい思考を取り戻す。
そう言えば、あのプレゼントに関して後日談が……。
一週間後、延期になったプールに行ったときのことだ。先週が嘘のように晴れわたった空と、燦然と輝く太陽。夏を絵に描いたような暑い日だった。
たまたま、彼女と二人きりになったとき、
「んで、プレゼントは渡せたのか?」
と聞いてみた。
「ん? 渡したよ。すごくうけてた」
彼女はプールサイドに座って、泳いでる子供を眺めている。
「うけた? なぁんだ、喜ばれなかったの?」
「うん。すごく笑ってた。でも喜んでたよ。部屋の机の上に飾っとくって」
あれから、高梨先輩の話をよくするようになった。彼女にしてみれば、僕は最高の相談役だったに違いない。
「で、お前も自分の机の上に飾ってあるんだろ?」
「何で知ってるのぉ? 実は見てたな?」
彼女が足で僕に水をかけてきた。僕はかけかえしながら、
「けっこう、恥ずかしい奴だなお前も。ロマンチックに浸りすぎなんじゃねぇの?」
と、ひやかしてみた。
「うるさい! 恋は女の子を変えるのだ」
まっすぐ前を向いてそう答える彼女は、水着を着ているせいもあって、すごく女の子している。
しばらく、水のかけ合いをして、再び泳ぎ始める。
「あの星の砂って実は色々な形があるんだね。中には星になりきれなかった砂もいて、なんだか自分みたいで愛着わいてくる」
泳ぎながら彼女が僕に言うでもなく呟いた。彼女は彼女で、女らしくない自分にコンプレックスを抱いていたのだ。こんな時、優しい言葉の一つでも言えたら僕の人生、もうちょっと楽しくなっているに違いない。でてきた言葉が、
「お前、熱でもあるんじゃないの?」
だったから自分の幼さに腹が立ってくる。
「私は先輩にお熱なの♪」
と言いながら僕の頭をどついてきた。……こんなんだから星になれないのだ……と思った。
「ただーいまっと。」
誰もいない部屋に戻って来る。ようやく冬の兆しを見せてきた気候に、部屋は少し寒くなっている。
買ってきた材料は、特売してた鶏のささみと卵と野菜をいくつか……。野菜は高くてびっくりだ。
鶏を平らにして、切れ目をいれて、小麦粉をまぶして……。用意しておいた油にいれる。揚げてから、切って、その後フライパンで卵とじにする。そのまま丼にのっけて食べる。
一人暮らしを一年以上続ければ、嫌でも料理のバリエーションが増えていく。この唐揚げ親子丼もそう。
けっこういけるね。などと自己満足に浸ってると、
ぴんぽーん。
と、ベルが鳴る。
彼女に頼まれた郵便物だろうと思ってドアを開けると、やはり郵便屋さんが立っていた。
彼は満面の笑みを浮かべていたが、僕の顔を見るなり渋い顔になる。
んで、お金を渡して、はんこを押して……。はい、ばいばいっと。
宛先には「大野美麗様」と書かれている。もちろん彼女の名前だ。
郵便屋さんは、この宛先を見て、美人が出てくるのを期待していたのだろうと思うと、あの満面の笑みが滑稽に思えてくる。でも、そのすぐ後でジリジリとした嫉妬みたいなものがわいてきて困惑した。
彼女は、何が送られて来るか秘密、と言っていたが、そう言われれば言われただけ僕はこの中身が気になってしょうがない。
差出人はっと、
「藤原さつき」
僕は、その文字を見て、そして何度も見直して、しばらく玄関に立ちつくしていた。
その名前は、初恋の彼女の名前だった。