運命のヒロイン? さっさと失せろ!!!
朝日が昇り、また地獄の一日が始まった。
従者なんて者は、この物置同然の部屋にはやってこない。
湿気を含んでくたびれた服をクローゼットから引っ張り出し、精一杯の注意を払いながら、冷え切った指先でボタンを一つ一つ嵌めていく。
朝食の席に着いた時、服に皺一つあれば「見苦しい」と容赦なく拳が飛んでくるからだ。その時、床に食事の皿が落ちれば四つ這いになり犬のように食べさせられる。
砕けた皿の破片が口内をズタズタに切り裂いてもお構いなし。
もし、それを回避できたとしても、別の理不尽で地獄を見ることにはなるのだけれど。
僕の惨めな姿を嘲笑い踏み躙るのが、バルベリーニ侯爵家での朝の日課だった。
没落し吸収された家の嫡子である僕に、この家で人権はない。まあ、元の家でも僕は平民との間に作られた子供として、疎まれてはいたけれど。
温情をかけたように見せかけ引き取られた家畜同然の扱い。正直、ここまでの地獄に堕ちるなんて誰が想像しただろう。
処刑台に向かうような気持ちで廊下に出ると、曲がり角でばったりシルヴィアに出くわした。
バルベリーニ侯爵の娘であり、気性が荒く傲慢で我儘な少女。
『薄汚い野良犬みたい。こんな奴と同じ空気を吸うなんて嫌よ。ましてや弟になるなんて。早く死ねばいいのに』
バルベリーニ侯爵家に連れてこられたその日、彼女は絶望に染まる僕を嫌悪の眼差しで見ながら顔を顰めたのを思い出す。
数日前から、彼女は高熱を出して自室に隔離されていたはずだった。会うことを想定していなかったせいで、ヒュッと息が凍りつき身体が強張る。
本来ならすぐさま廊下の端に寄り、頭を下げなくてはいけないのに。彼女の真紅の瞳と交わった瞬間、殴られると身構えギュッと目を瞑った。
——けれど、来るはずの痛みは襲ってこなかった。
恐る恐る目を開けると、何故かシルヴィアは悲しそうに唇を結んでいた。次の瞬間、少しだけ首を傾げ、信じられないほど柔らかく微笑む。
「ゲイル。おはよう」
そこに僕の知る苛烈なシルヴィアの面影なんて微塵もなかった。唖然とした僕の襟にそっと手を伸ばしたシルヴィアは、耳元に顔を寄せそっと囁く。
「……襟が曲がってるわ」
シルヴィアは僕の襟を直すと、他に乱れはないかと注意深く視線を巡らせてから一つ頷き去っていく。
その日を境に、シルヴィアは『シルヴィア』じゃなくなった。
食器の音を立てたと、侯爵は床に僕の朝食を投げ捨てた。四つ這いになり、食べるよう命令された僕の前でシルヴィアが息を呑む。
何度も僕と自分の家族の顔を見比べ、慌てて声を上げた。
「お父様っっ! 私ただでさえまだ食欲が戻らないのに、こんな汚い光景は見たくありませんわ!!」
普段なら「早く食え」と笑いながら頭を踏まれることもあったのに。シルヴィアは妙な言いがかりをつけて、僕を食堂から追い出したのだ。
「さっさと出て行って!」と食堂の出口を指差すその真紅の瞳には、ただひたすらに困惑と焦燥が滲んでいる。
変わったのはそれだけじゃない。
使用人に混じり床を磨く僕に悲しげな視線を向けたり、侯爵夫人の振り上げた手をさりげなく遮ったり。
極め付けは、豚小屋に届けられたパンだった。
空腹に耐えかね、残飯を漁りに豚小屋に入った僕をシルヴィアが待ち構えていたのだ。
「残飯なんて、もう食べなくていいわ」
シルヴィアらしくない口調でそっと差し出されたパン。まだ温かいパンの熱がじわりと指先に移り、冷え切った身体に染み渡る。
その時、傷とアザだらけの僕の手を見たシルヴィアは、痛々しそうに顔を顰めた。壊れ物を扱うように上から包まれた綺麗な手。
次の瞬間、シルヴィアはその真紅の瞳からボロボロと涙をこぼした。
「ゲイルなら大丈夫って分かってる。分かっているけど……やっぱり見てられないわよ。なんで、こんな小さな子に酷いことができるの……」
年齢は二つしか違わないのに、すごく大人びた物言いでシルヴィアは「ごめんなさい」と僕に謝り続けた。
何故、今目の前の彼女に謝られているのか僕には分からなかった。
本物のシルヴィアは——
家畜同然で引き取られた義理の弟の襟を直すような人間じゃない。惨めな人間を憐れむような人間じゃない。
シルヴィアは熱を出したのを機に、シルヴィアじゃなくなっていた。目の前の少女は、見た目は全く同じシルヴィアだけど、『違う誰か』だ。
「大丈夫よ。ゲイルはね、将来王子様の右腕になって王宮魔術師になるの。ちゃんと貴方がこの屋敷を出て行ける年齢になるまで支えるから安心して。食事は私が運ぶ。服も私が準備する。この屋敷はゲイルの敵ばかりだけど、ちゃんと貴方は生き残るから。ゲイルはどんな逆境にも負けない強い人なの」
涙に濡れながら告げられた未来の予言。
シルヴィアはまるでその光景を見たことがあるかのように僕に語った。
ギュッと抱きしめられた身体。
僕よりも背丈があるその身体から、温もりと小さな鼓動が伝わってくる。
「運営……許すまじ……」
耳元で漏らされた彼女の小さな呟きが、僕の耳に不自然な痕を残した。
♦︎ ♦︎ ♦︎
その日から、シルヴィアは僕のことを命懸けとも言える必死さで守り始めた。
血の繋がらない弟とテーブルを囲みたくないと、朝食の席から僕を逃した。
退屈だから遊んでやると、僕を侯爵夫妻から引き離した。
見苦しさに耐えられない、と新しい服を渡された。
僕のお腹が鳴る前に、まだ温かさの残る食事を袋に入れてこっそりと手渡した。
僕が夢中で頬張る横で、シルヴィアのお腹がぐうと鳴る。
自分の食事を削って確保してくれたことに気がついて、結局は二人分け合って食べた。
二人きりになった途端、お互い人差し指を唇に当てこっそり笑い合うささやかな時間。
誕生日を祝ってくれたのも、誰かに贈り物を渡したいと思ったのも、僕の人生においてシルヴィアが初めてだった。
彼女が僕を見るその瞳は、こちらの胸が締め付けられるほどいつも慈愛に満ちている。
与えられたことのない無償の愛。自身の犠牲を厭わないその愛が痛みを伴うほど僕の胸を焼いた。湧き上がるこの激しい感情に名前がつけられない。
悪意に塗れたバルベリーニ侯爵家で、僕はシルヴィアだけが生きる意味であり、世界の全てだった。
「大丈夫。十歳になったら、ゲイルはこの家から逃げ出すのよ。魔術師に拾ってもらえるわ。才能を開花させて、貴族の通う学園に入って、王宮魔術師の試験に合格して……誰からも尊敬される人になるから」
侯爵に痛めつけられた日には、壊れそうな細腕で抱き締めながら、希望を刻み込むように何度も何度もシルヴィアは僕に予言を言い聞かせた。
いつしか僕は——
この白銀色の髪を「綺麗」と褒めてくれるシルヴィアの黄金の髪こそが世界で一番美しいと思うようになった。
この青い目を「海みたい」と慈しんでくれるシルヴィアの瞳の方が炉の中の炎のように温かで愛おしいと思うようになった。
シルヴィアの言う通りの未来が訪れるなら。
王宮魔術師になれば、今度は僕がシルヴィアを守れるだろうか。
毎日見ていた悪夢は消え失せ、魔術師になった僕がシルヴィアに手を差し出すところを夢に見ながら眠りにつく。
でも……シルヴィアの中にいる『彼女』は一体何者なのだろう。
そんな疑問が出てくるのは当然のことだった。
執事程度の綺麗な服を着て、殆どの時間をシルヴィアの側で過ごすようになったある日、その疑問は突然解けた。
シルヴィアが侯爵邸にある図書室で独り言を呟いているのを聞いてしまったのだ。
「うう、このゲームの悪役がチート系だったら良かったのに。どうしてテンプレのような能無し悪役令嬢なのよぉ……魔力だって高くない。特別なスキルもなし。ただ性格の悪い悪役なんて……」
どうやら、シルヴィアの中にいる人間は、ここではない違う世界から来たらしい。
シルヴィアは自分自身の辿る未来を知っていた。
——シルヴィアはいずれ王子から婚約破棄を突きつけられ、無様に晒し上げらた末に処刑される身。
「まだ子供だもの……私と王子の婚約は回避できないわよね。私が嫉妬に狂って行う悪事はともかく、バルベリーニ家の犯した罪はどうしようもない。婚約破棄の理由なんていくらでも作れちゃうわ」
予言を呟くシルヴィアの声。その一言一句を聞き漏らさぬよう息を殺し、必死に耳をそば立て頭に焼き付けた。
どう足掻いても、シルヴィアはその断罪から逃れられない運命らしい。
「でもゲイルは『攻略対象』だから大丈夫。シナリオではヒロインが連座から守ってくれるはず」
「ヒロイン……?」
聞けば、僕は『ヒロイン』という見ず知らずの女性に捧げられる生贄のような運命が待ち構えているそうだ。
攻略対象ってなんだよ。
ヒロインって何者なんだよ。
いくつもの疑問に唇を噛んだ瞬間、覗き見る僕の視線の先で広げられた世界地図。いくつもの資料を見比べた末、シルヴィアはトンとその端の端を指差した。
「よし、ゲイルがこの家を出たら国外に逃げ出そう。全く知らない世界で悠々自適なスローライフを送るのよ!」
「……は?」
「ゲイルがヒロインと結ばれても、せめて姉弟として手紙のやり取りくらいは許されたらいいな……」
最後にそんな言葉を漏らしたシルヴィア——
その声が何度も何度も何度も僕の耳にリフレインする。
目の前が、血の海に溺れたように真っ赤に染まった。
熱くなった心臓はそのまま業火に焼かれ、暗い暗い闇が蝕んでいく。
「僕を……捨てる気?」
口から漏れた自分の言葉に、胸を蝕む闇が加速した。
嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
シルヴィアと離れるなんて。
そんな苦痛に満ちた未来なら、僕はいらない。
『ヒロイン』になんて愛されたくない。
これから先もずっと地獄の底にいる運命だとしても、シルヴィアがいれば——
僕はそれでいい。
シルヴィアしかいらないんだ。
シルヴィアが僕に向ける感情と、僕が彼女に向けている感情の違いに初めて気がついた瞬間だった。
シルヴィアは、心の底から僕がヒロインと恋に落ちることが幸せだと思っているらしい。
僕を慈しむあの赤い瞳が、急激に価値を失っていく。
シルヴィアは僕を愛してくれているけど、僕が欲しいのはそういう形の愛じゃない。
慈しんで欲しいわけじゃない。
守ってほしいわけじゃない。
そばに居て欲しい。共に生きてほしい。
ただそれだけなんだ。
きつく握りしめた手に、爪が食い込んだ。
内側から湧き出た何かが、幾重にも重なり合い身体を駆け巡る。ふと、握りしめた爪先でジュッと音が立ち皮膚が焼ける匂いがした。
魔力が……溢れた?
手を開くと、掌の上で青い火の粉が爆ぜている。
ああ、そうか。
僕は魔術師になるんだっけ。
王族と並ぶほどの類い稀な魔力量。
緻密で繊細な魔力のコントロール。
いずれ僕の前に現れるヒロインに愛されるため、地獄の幼少期と引き換えに『運営』から齎された圧倒的な才能。
それが、この力だ。
このまま運命の流れに従い、生きていくのか?
心の内側から囁く声に、はっきりと首を振る。
嫌だ。
そんな運命を辿るくらいなら、死んだ方がマシだ。
シルヴィアが処刑を回避するために国外に逃げることを目指すなら、僕も運命に抗っていいはずだ。
——シルヴィアと共にある運命を手に入れる。
処刑にもさせないし、国を出るなんて許さない。
生き残る事を目指すだけなら、僕の側でもいいだろう?
自分の心の行き先を定めた瞬間、自分の内側から溢れかえった魔力が急激に落ち着いたのを感じた。
それと同時に熱に焼かれた掌が、脈動を刻むほど痛み始める。
ポケットから手袋を取り出して、痛む手に無理やり通した。岩のように固まっていた表情を崩し、口角を上げ柱の影から一歩踏み出す。
「シルヴィア、勉強してるの?」
「ゲイル……! ええ、地図を見ながら、周辺諸国を勉強していたの」
嘘つき。
逃げ出す国を選んでいたくせに。
「そのうち、婚約のお話があるかも知れないから、少しは教養を養わなきゃね」
いずれ君を断罪する相手との婚約だろ。
僕はいつも通りの微笑みを僅かに深めた。
「シルヴィアは僕と結婚すればいいよ」
優しく告げると、シルヴィアの目が見開き、頬が朱色に染まる。しかし、自分の予言を思い出したシルヴィアは、すぐにその顔を青くした。
「ダメよ……! ゲイルは次の誕生日になったらここを抜け出さなきゃ! じゃないと……!」
「じゃないと……何?」
僕はこのまま、バルベリーニ家の家畜だって言いたいのだろうか。それとも、王宮魔術師となる未来が潰えるから?
シルヴィアは喉を詰まらせたまま、僕を見上げている。
その顔は、貴族どころか嘘をつけない純粋な少女の顔そのもの。
きっと、すごく平和で温かく幸せな場所から彼女はきたのだろう。
この屋敷から逃げ出し、魔術師に保護されるという選択肢は、すでに僕の中から消え失せていた。
王宮魔術師の地位なんていらない。
富や名声が欲しいんじゃない。
シルヴィアを僕から離す王子との婚約なんてさせるものか。
「絶対、君の事は誰にも渡さないから——」
「えっ?」
椅子に座る彼女の顔を両手で包み込み、その額に一つ口付けを落とす。シルヴィアは何が起こったのか理解できないというようにぽかんと口を開けていた。
シルヴィアの予言した、クソみたいなシナリオを僕が覆す。ヒロインの思い通りになんて動いてやるつもりはない。
現侯爵も、爵位を譲られる予定になっているシルヴィアの兄も内側から潰してやる。王子との婚約を回避させるため、バルベリーニ侯爵家を崩壊させてやるのだ。
そして、没落したバルベリーニ家から類稀な才能を与えられた僕がシルヴィアを救い出せばいい。
絶対に逃れられないよう外堀を囲って、恩を押し付けて、彼女を僕のものにする。
絡めとるように彼女の手に指を絡ませ優しく握りしめた。いつの間にか僕よりも小さくなったシルヴィアの手。
この手をを離すその時が、僕の死ぬ時だ。
「ねえ、シルヴィア。僕に字の読み方を教えてよ」
「勉強は……だって、シナリオが……」
「僕はシルヴィアに教えてもらいたいんだ」
僕の全てを君に捧げるから。
だからこの手に堕ちてきて。
ね? シルヴィア——
全てが手に入ったその時は、
君の本当の名前を教えてくれる?
♦︎ ♦︎ ♦︎
シルヴィアが理解する間も、介入する間も与えず、着々と僕はシナリオを崩していく。
そしてシルヴィアが十八歳。
貴族たちが通う王立学園に入学する頃には、殆どが片付いていた。
家格を問わない飛び級制度を利用してシルヴィアと同時期に入学した僕は、残すところ別の家の養子に入り直し、彼女との婚約を結ぶだけ。
そんな中、遅れて姿を現したのが『ヒロイン』だった。
「ちょっと待ってこれ! どうなってるのぉぉお!?」
聖女の力を持った平民として特別に入学を許可された彼女は、攻略対象が殆ど消えた学園で雄叫びを上げる。
「冷徹王子アルドリックは!? 破天荒騎士ソーントンは!? 宮廷画家クリストフは!? 遊び人伯爵子息ルミナスは!? みんなどこ行ったの!?」
どうやらヒロインも『シナリオ』を知っているようだ。
もしかするとシルヴィアと同じく、違う世界の人間が『中』にいるのかもしれない。
長い黒髪に黒い瞳。確かにこの世界にはない珍しい色をしているし、聖女という特別な力に惹かれる者もいるだろう。
けれど、シナリオが正常に作用していたとしても、この女と恋に落ちる未来なんて微塵も想像できない。
王族や上位貴族がいる中で各クラスを覗き見て、絶望に膝を折るなんてはしたないにもほどがある。シルヴィアは悪役令嬢になったけど、そんなことしなかった。
ヒロインは入学式早々、忙しなく学園内を動き回る。
「なんか、悪役令嬢シルヴィアもすでに失脚してるんだけど。没落貴族とか言われて、すでに疎外されてるじゃん……!?」
元来の真面目さと僕の助けでかろうじて優秀者クラスに在籍しているシルヴィアだが、当然のことながら没落令嬢として貴族達からは遠巻きに見られていた。
成金男爵令嬢とささやかな交流の気配がある程度だ。
本来のシナリオで率いていた取り巻きなんてものは存在しない。
だってこれはシルヴィアを囲うための僕の鳥籠なのだから。
「え、私……王子がそもそもいないのに、どうやって恋愛イベント起こせばいいの? 殆どの攻略対象が消えてる。私の……幸せな転生ライフは?」
廊下で打ちひしがれるヒロイン。
その惨めな姿をほくそ笑んでいたその時、彼女とふと目が合った。
その瞬間、ヒロインの瞳がパァと輝く。
「天才魔術師ゲイルっ! なんで!? 入学は来年じゃ……」
頬を赤く染め、カツカツと靴音を響かせながら歩み寄るヒロイン。
ああ、入学時期すらもシナリオを崩せていたのかと理解すると同時に——
その顔面を、僕は鷲掴みにした。
「気安く触るな」
「キャラが違う!!!」
「魔術師じゃない。僕はただのバルベリーニ家のゲイルだ」
「嘘でしょ!?」
魔術も使える。
僕は天才だから、当然その辺の子息令嬢には負けないだろう。
でもこれは、上位貴族の養子となるための隠し玉だ。シルヴィアを手に入れるためだけに、僕の魔術は存在する。
僕が冷たく見据えると、ヒロインはいよいよ頭を抱えた。
「ゲイルまでバグってる……やっぱりこんなのおかしいわよ! もしかして、他に転生者がいるんじゃ……」
「……貴様に関係あるのか?」
鷲掴んだ指先を僅かに強めると「ヒンッ」とヒロインが情けない声を上げる。
気味が悪い。
でもさすがにここで聖女に危害を加えすぎるのはまずいか。
引き摺るようにヒロインを連れ出した僕は、小汚い物置に彼女を押し込めた。
二人きりになったことで、妙な勘違いをしたヒロインが頬を赤らめるが、僕が顔に影を落とし、掌から炎を出すと自分の立場を理解したようだ。
「余計なことをするなら、ただじゃおかない。王子と同じ道筋を辿らせるぞ」
「待って、王子に何したのよ!」
「婚約を結ぶはずだったシルヴィアに執着したから潰させてもらった」
「はっ!?」
侯爵が強引に押し進めた愛情のない政略的な婚約が本来のシナリオ。シルヴィアはそう言っていた気がするが、どう見ても王子には愛情しかなかった。
もしかしなくても、シルヴィアの『中の人間』が変わったせいだろう。
彼はシルヴィアが拒絶するにも関わらず、彼女を没落したバルベリーニ家から救い出そうと何度も婚約を迫っていた。あの憎い顔と潰した時の爽快さを思い出す。
「お前がさっき騒いでいた騎士見習いソーントンも画家志望のクリストフも伯爵子息ルミナスも全員潰した。シルヴィアに熱の籠った目を向けたからな」
「え、乙女ゲームで蠱毒でもやってんの!? そういう世界じゃないでしょう!?」
告げた真実に、ヒロインは情けなく悲鳴を上げた。
蠱毒ってなんだろうか。
そして、この女が名前を知っているということは、今まで潰してきた男達も『攻略対象』だったようだ。
もしや——
攻略対象はシルヴィアに惚れる可能性がある?
シルヴィアに関わらないよう脅すだけに留めようかと思っていたが、そういう訳にもいかなくなった。
「……さっき、他にも攻略対象者がいるようなことを言っていたな。そいつを教えろ」
「どうして? だって彼らがいなきゃ私は……」
「シルヴィアに近づく前にそいつらを貴族社会から抹消する」
僕の宣言にヒロインは手を口で覆いワナワナと震えた。
今まで潰してきた相手が攻略対象だった以上、当然他の攻略対象も警戒して然るべきだ。彼らが動き出す前に、先回りして潰しておく必要がある。
「もうあんたが悪役じゃん! 不穏すぎない!? 待ってシスコンキャラだっけ!?」
「シルヴィアと血が繋がっていないのは、シナリオを知ってるお前が一番分かっているだろ。シルヴィアがいないなら、僕は……もう生きていくことなんてできない」
「悪役令嬢に火力高めのヤンデレ堕ちしてる……!!」
突然この世界に放り込まれたのであろうヒロインは、頼るべきシナリオの崩壊にすでに涙目だ。
「私だって、せっかく転生したんだから楽しい転生ライフを送らせてよ! 溺愛されたい! イケメンを侍らせたいっっ!」
この女の事情なんてどうでもいい。
僕の邪魔をするのどうか。
シルヴィアの害になるかどうかだけが問題なのだから。
僕は彼女を見据えたまま、逆恨みや妙な真似をしないようコントロールするにはどうすればいいか考えた。
そうして、ようやく至った結論を冷徹に告げる。
「じゃあ死ぬ気で堕とせ」
「え」
ヒロインはポカンと口を開けたまま目を見開いた。
僕は淡々と、ヒロインの希望を汲み取った上で生き延びる術を告げる。
「他の攻略対象をお前が死ぬ気で攻略しろ。そいつらが、シルヴィアに一瞬でも近づこうものなら消すからそのつもりでな」
「それ、もう別のゲームじゃない!!!」
「お前にとってはゲームでも、僕からすれば現実だ。シルヴィアが断罪されたり国外に逃げ出したら、その時は僕がこの国を滅亡させてやる……!」
「待って待って! 世界がかかってるってこと!?」
僕は重々しく頷いた。
こいつの攻略には当然、悪役令嬢を使うことも許さない。
「それとも、世界を守るためシルヴィアを監禁する手伝いでもするか? それなら、お前は悪役すらいなくなったこの世界で、残った攻略対象とぬくぬくと生温い学園生活を楽しめるぞ」
実は、何度かシルヴィアが国外に逃げ出そうとしたことがあった。荷物を纏め一人で屋敷から消えようと。
他国の貴族令嬢が一人国外に逃げ出して生きていけるはずなんてないのに。
その度にうまく絡め取り妨害してきたが、シルヴィアは妙なところで強情だ。学園に入学したら終わりだとでも言うように、シナリオの強制力を恐れていた。
彼女の全てを奪い去り、手足に枷をはめ、誰も訪れないバルベリーニ家の一室に閉じ込めてしまいたい。
僕だけがシルヴィアの世界全てになるのだ。
その醜くも悍ましい欲望は、年々増すばかり。
そんなことをすれば嫌われてしまうと分かっているからこそ、踏みとどまってはいるけれど。これ以上シルヴィアが何かに奪われる不安に怯え、生きていくのは限界だった。
別の家の養子になれたとして、僕の求婚を受け入れてもらえるかも自信がない。シルヴィアは『攻略対象』から離れなきゃとそう思っている。
全てを吐き出した僕に、ヒロインは呆れたようにため息を吐いた。そして僕の肩に手を置く。
「あのさゲイル。ヤンデレするのもいいけど、ちゃんと自分の気持ち言った方がいいよ?」
「は……? 自分の気持ちを……言う?」
「口では『国を滅ぼす』とか言ってるけど、本当はシルヴィアに嫌われるのが怖くてビビってるだけでしょ。そういう不器用なところは、ゲームと一緒なんだね。ゲームじゃ、ヤンデレじゃなかったけど」
苦笑いを漏らしたヒロイン。
鋭い指摘に、追い詰められた思考がふと止まった。
彼女の言葉の意味を理解するよりも先に、ガラリと扉が開く。
そこには、信じられないとばかりに立ち竦むシルヴィアの姿があった。
「ヒロ……イン……」
「シルヴィア……!」
「あっ……ごめんねゲイルっ! 私、授業の準備を頼まれただけで……邪魔するつもりなんてなかったの!! お邪魔しましたっ……!」
「ちがっ……」
僕がヒロインの手を振り払い、声をかけるよりも早くシルヴィアは慌てて走り去った。
去り際のシルヴィアと一瞬交わった瞳。
そこにあったのは深い哀しみと失望だった。
一瞬で血の気が引き、床に縫い止められたように足が動かなくなる。恐れていた絶望に目の前が真っ暗になった。
誤解を解く手を必死に探す。
シナリオに取り憑かれたシルヴィアは信じてくれるだろうか。僕はヒロインと『そういう』関係じゃないと。
いや無理だ。
きっと彼女は、ヒロインに近づいた僕から離れてく——
至った結論に、また黒い感情が胸から湧き上がる。
シルヴィアの意思すら無視をして、閉じ込めるしかないんじゃないか。そんな甘美な誘惑が暗闇の中で僕に囁きかけた。
それを振り払ったのは、バシンと音を立てて背中に当てられた小さな手。
「ほら、何ボサっとしてんの! さっさと追いかけて! まずはちゃんと自分の気持ちを言ってこい!!」
振り向くと、ヒロインが僕を見上げ力強く頷いた。
触られるだけで胸糞悪い感情が湧き上がるのに、妙な説得力が胸の中で巣食う闇を僅かに押し除け、ストンと着地した気がした。
その勢いに押されるように、僕はシルヴィアを追いかけ走り出す。
「まさかの当て馬ポジかよぉ。推しだったのにぃ……」
背後からヒロインの漏らす呟きが耳に届いたけれど、振り返る余裕すら僕にはなかった。
♦︎ ♦︎ ♦︎
学園中彼女の姿を探したけれど、教室にも庭園にも彼女の姿はない。焦燥で狂いそうになる頭の端で、彼女との日々を必死に手繰り寄せる。
まさか——
嫌な予感がして学園に隣接された寮に向かうと、丁度大きな荷物を抱えたシルヴィアと出くわした。彼女は僕を見た瞬間びくりと肩を震わせる。
「ゲイルっ……ここ女子寮よ!?」
「……出て行く気?」
「……っ!」
胸の中で燻っていた闇が再び激しく燃え盛る。
僕は迷わず、荷物を持つシルヴィアの手首を掴んだ。
そのまま近くの空き部屋へと強引に引き摺り込んで、シルヴィアを壁に押し付け腕の中に閉じ込める。
シルヴィアは僕の腕の中でただ困惑していた。入学早々、学園を離れる為のくだらない言い訳の羅列を貼り付けた笑顔で重ねていく。
そこに僕を惜しむような感情なんて微塵もない。シルヴィアにとって、僕はその程度の存在なのだ。
引き裂かれるような胸の痛みに、思わず唇を噛み締めた。
「どこにも行かせない……」
「ゲイル、離して。私ここにいたら……」
腕の中から抜け出そうともがくシルヴィアの耳元に低く声を落とす。
「ここにいちゃダメなの? 僕が『攻略対象』だから? それとも君が『悪役令嬢』だから?」
「……どうしてそれを」
シルヴィアの瞳が動揺に揺れた。
そりゃあんな大きな独り言、聞がない方が無理がある。
「僕は……シルヴィアにここにいてほしいよ」
「でも私は……ゲイルのそばにいられないの、だって——」
そばにいられない。
これ以上ないほど明確な拒絶の言葉。
その一言で、僕の理性を留めていた鎖は完全に崩壊した。
「嫌だ」
シルヴィアの紡ぐ言葉の先を拒否するように、無理矢理唇を重ねた。シルヴィアが僕を嗜めるように名前を呼ぶ。重なった唇の隙間から彼女の吐息が漏れ、細い腕が僕を押し返した。
それでも、離したくない。
嫌だ嫌だ嫌だ。
泣かせたいわけじゃない。
彼女を押さえつける手の震えは止まらないのに、僕にはどうしようもなかった。
舌を捻じ込み、歯列をなぞり、深く深く彼女を貪る。
乱暴で強引な口付けを重ねるうちに、シルヴィアの抵抗は徐々に弱わり、僕の服をギュッと掴んできた。
衝動と罪悪感が反転しゆっくりと唇を離すと、シルヴィアは混乱の渦に落とされたように目を白黒させていた。握りしめた服を話した彼女は、僕を見上げたまま、その場に立ち尽くし放心している。
やりすぎた……かもしれない。
でも、もう後戻りなんてできないよな。
今にも倒れそうな両肩に手を置いて、放心したままの彼女を覗き込んだ。拒絶されても、やはり手放せない。
——閉じ込めるしかないのだろうか。
『あのさゲイル。ヤンデレするのもいいけど、ちゃんと自分の気持ち言った方がいいよ?』
真っ黒に染まった胸の奥で、ヒロインの告げた言葉がふと芽吹くように脳裏によぎる。
考えるより先に──開いた口からは言葉が飛び出していた。
「僕はシルヴィアが好きだ。君だけしかいらないのに。そんなに……僕といるのが嫌なの?」
なりふり構わない、惨めな告白。
言葉にした瞬間、僕は後悔した。
この醜い独占欲は、僕そのものだ。
それをシルヴィアに拒絶されたら、全てを失ったことと変わらない。
でも——そこで初めて空気が変わった。
彼女との間にずっと存在していた壁が、蜃気楼のように空気に溶けていく。
「好き……? ゲイルが? 私を……?」
シルヴィアの驚きが手に取るように伝わってくる。
でも、拒絶じゃない。拒絶じゃなかった。
僕は、決死の思いでさらに言葉を重ねてく。
「ずっと、ずっと君しかいらなかった。シルヴィアが僕の世界の全てなんだ。だからお願い、どこにもいかないで。僕のそばにいて欲しい」
縋るような僕の本心。醜い醜い独占欲。
心臓が痛いほどに胸を叩き、恐怖が背筋を駆ける。
シルヴィアは、海の底を覗き込むように僕の瞳を真っ直ぐに見据えた。
彼女の頬を染める朱色が、いつのまにか耳まで真っ赤に染め上げている事に気がついた。それと同時に、シルヴィアはその薄い唇から言葉を紡ぐ。
「違うの、私、ゲイルがヒロインと結ばれる所を見たくなくて……」
「へ?」
「ヒロインと出会ったゲイルが、シナリオの強制力で私の事嫌いになったりしたら……耐えられないって……そう思って、離れようと……」
言葉を何度も途切れさせながら告げられたシルヴィアの本音。一音一音が紡がれるごとに、僕の肩の力は抜けていった。
全てを吐き出し切った彼女を、思いっきり抱きしめる。
震える華奢な身体を、壊れ物を扱うように優しく包み込んだ。
「馬鹿だな。僕にはずっとシルヴィアだけだったのに」
「言ってくれなきゃ……分からないよ」
確かに。好きとは言っていなかった。
そばにいて欲しいという言葉で本心を覆い隠し、拒絶される恐怖を誤魔化していたんだ。
シルヴィアの真紅の瞳からこぼれ落ちる涙が、僕の服に染み込んでいく。何年も耐えてきた涙を受け止めるように、僕は抱きしめる腕に力を込めた。
「ごめん」
「私も……最初から正直に話せばよかった。ずっと大好きだったの。この世界に来る前からずっと。でも……シナリオの強制力がどうしても怖くて」
大好きの一言に、頬が緩んでいく。
飛び越えてしまえば簡単で、本当になんでこんなに怯えていたのか不思議に思うほど、心は幸せに満たされていた。
「シナリオなんて何も怖くないよ。悪役令嬢になんて僕がさせないから」
「でも、ヒロインもいるし他の攻略対象だって……」
「ああ、それは僕がもうすでに潰したから大丈夫。王子だって学園にいなかったでしょ?」
「へ?」
僕の胸に顔を埋めていたシルヴィアが勢いよく離れた。
驚く彼女に、僕はとびきり優しく微笑んでみせる。
「王子はシルヴィアに執着していたし、他の奴らも君のことを気にしていたからね。入学前に叩き潰しておいた。ヒロインにも、幸せな学園生活を送りたいなら君には手を出すなと脅してあるから大丈夫だよ」
シルヴィアは声も出さずに、はくはくと口を動かすだけだった。その姿すら可愛くて胸がギュッと締め付けられる。
どうやら好きの感情に天井なんてものはないらしい。
「どこからシナリオが狂って……」
「僕がシルヴィアを好きになったその時からかな」
「ええええ!?」
「近々、どこかの家の養子に入って正式に求婚するから少しだけ待っててね」
そう言って、僕はまたシルヴィアの甘い唇を塞いだ。
想いが通じた喜びで何度でも彼女を求めたくなってしまう。
手放せなかった『義弟』という立場を、一刻も早く抜け出さなきゃいけない。少しでも高い家格の家に入って、誰一人シルヴィアに手を伸ばせない状況を作ろう。
シルヴィアとの幸せな未来のために、あと何人潰すことになるだろうかと心が躍った。断罪も、国外追放も、他の男も存在させない。
僕が作った鳥籠の中で、彼女は一生、僕の愛に溺れてもらう。
「そうだ、シルヴィア。——君の本当の名前も、教えてくれる?」
いつまでも、彼女と幸せに暮らせますように。
ご覧いただきありがとうございました。
よろしければ、ブックマークまたは最後に⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎から評価頂けると大変嬉しく思います!!
シルヴィアはきっと、これから先ゲイルの鳥籠でぬくぬくと転生ライフを送ります。何かあるたびにヒロインが頑張ってくれる……!!頑張れヒロイン!!




