迷宮の遭難者と、賞味期限切れの缶詰
奈落の蓋『ヘリックス』の地下深くに広がる大迷宮、通称「虚無の座」。 その中層域にある岩窟エリアで、バンズ・アイアンサイドは絶望していた。
「……最悪だ」
頭上を塞ぐのは、数トンはある巨大な岩盤の崩落跡。 周囲を包むのは、濃密な闇と、湿ったカビの臭い。 重要顧客である貴族のドラ息子が行方不明になり、その捜索隊に「土地勘(地図データ)があるから」という理由で無理やり同行させられた結果がこれだ。 突発的な地震による崩落。本隊とは分断され、退路は断たれた。
「嘆くことはないさ、バンズ君! これは試練だ!」
隣で能天気な声を上げたのは、同じく崩落に巻き込まれたギルド長、ゼノ・ブレイバーだ。 彼は暗闇の中で、自身の聖剣を松明代わりに掲げている。刀身が微弱な発光魔法を放ち、頼りない光源となっていた。
「試練ではありません。遭難です」 「ハハハ! 言葉の綾だよ。……しかし困ったな。水筒も食料も、本隊のポーターに預けたままだ」 「貴方が『身軽な方が冒険を楽しめる!』とか言って、装備を全部預けるからでしょう」
バンズは毒づきながら、懐を探った。 出てきたのは、へこんだブリキの缶詰が一つ。 『軍用レーション(試作品)』。十年前に製造され、味が悪すぎて廃棄予定だったものを、バンズが激安で買い叩いて備蓄していたものだ。賞味期限はとっくに切れている。
「あるのはこれだけです。……救助が来るまで、これを齧って耐えるしかありません」 「おお! 備えあれば憂いなしとはこのことか! さすがバンズ君、優秀な補給係だ!」
ゼノが親指を立てたその時。 暗闇の奥から、カサカサという不快な衣擦れのような音が響いた。 一つではない。百、いや千。
「……チッ。嗅ぎつけやがったか」
松明の光が照らし出したのは、子供ほどの大きさがある大蜘蛛の群れだった。天井を、壁を、床を埋め尽くす節足動物の波。 バンズは顔を引きつらせた。彼は事務屋だ。戦う力などない。
「下がっていろ、バンズ君」
短く、しかし力強い声。 ゼノが一歩前に出る。その背中が、普段よりも大きく見えた。
「たかが虫ケラが。私の部下に牙を剥くとは、いい度胸だ」
蜘蛛の群れが一斉に飛びかかる。 バンズが悲鳴を上げかけた瞬間、暗闇に銀色の嵐が吹き荒れた。
ザンッ! ギィンッ!
速すぎて見えない。 ただ、ゼノが剣を一振りするたびに、衝撃波が鎌鼬となって空間を断裂させる。 十匹、二十匹、五十匹。 迫りくる捕食者の波が、ゼノという防波堤にぶつかり、肉片となって弾け飛んでいく。
「すごい……」
バンズは圧倒されていた。 魔法もスキルも使っていない。ただの純粋な剣技と身体能力だけで、迷宮の生態系を蹂躙している。 (これが、かつて世界を救った力……) だが、数は無限だ。いくらゼノでも、永遠には戦い続けられない。
「バンズ君! 道を探せ! 私が抑えている間に!」 「道と言われても、ここは袋小路で……ッ!」
バンズはパニックになりかけ、頭を振った。 ――落ち着け。俺の武器はなんだ? 剣じゃない。計算機だ。 バンズは脳内のデータベースを検索した。 ギルドの正規ルートマップには、ここに出口はない。だが、正規ではないルートなら? 過去の摘発記録。違法業者の搬入経路。密輸団のアジト摘発報告書。
「……そうだ。『黒犬商会』の密輸トンネル!」
かつてこのエリアを拠点にしていた密輸組織が、地上へ物資を運ぶために掘った非正規の横穴があるはずだ。 バンズは壁にへばりつき、岩肌を観察した。 自然の岩ではない。人為的に削られた跡。そして、微かに漂う風の流れ。
「あった! ここです、ギルド長!」
バンズが岩の隙間を指差す。瓦礫で隠されているが、奥に空洞が続いている。 「よし! 走れ!」
ゼノが最後の一撃で蜘蛛の群れを吹き飛ばし、バンズの首根っこを掴んで隙間に飛び込んだ。 二人は狭いトンネルを滑り落ちていく。 背後で岩盤が崩れ、蜘蛛の追撃を遮断した。
***
一時間後。 二人は地上へ続く横穴の出口――下層スラム街の排水溝――に辿り着いていた。 泥と汚水にまみれ、スーツもマントもボロボロだ。
「はぁ……はぁ……。まさか、あんな所に出口があるとはな」
ゼノが大の字になって地面に転がる。
「密輸業者が使っていた裏道ですよ。……本来なら封鎖すべき場所ですが、役に立ちましたね」
バンズも隣に座り込み、泥だらけの顔を拭った。 極限の緊張が解け、強烈な空腹感が襲ってくる。 バンズは懐から、あの缶詰を取り出した。 缶切りはない。ゼノが指先で器用に蓋をこじ開ける。 プシュッと気の抜けた音がして、異臭に近い保存料の匂いが漂った。中身は灰色のペースト状の何かだ。
「……食いますか?」 「ああ、喜んで! 勝利の美酒ならぬ、勝利の珍味だな!」
ゼノは躊躇なく指でペーストを掬い、口に放り込んだ。
「うむ! ……複雑な味だ! 酸味と苦味の中に、生き延びた喜びが詰まっている!」 「嘘をおっしゃい。ただ腐りかけてるだけです」
バンズも一口舐めた。 舌が痺れるような酸味。肉とも魚ともつかない油の味。 普段食べているジャンクフードよりも遥かに酷い、最底辺の味だ。
「……不味い」
バンズは顔をしかめた。 だが、不思議と吐き出す気にはなれなかった。 隣で「ガハハ」と笑いながら泥水をすする英雄がいる。 その横顔を見ながら、バンズはもう一口、灰色の塊を飲み込んだ。
「でもまあ、死ぬよりはマシな味ですかね」 「違いない! さあバンズ君、帰ろう! 帰って熱いシャワーを浴びて、報告書を書くんだ!」 「……ええ。今回の遭難手当と危険手当、それに缶詰代。きっちり上乗せして請求しますからね」
朝日が昇り始めた都市ヘリックス。 泥だらけの二人の影が、長く伸びていた。 その背中は、ほんの少しだけ、以前よりも近づいているように見えた。




