債権の証券化と、弾けたバブル
その日、監査課長バンズ・アイアンサイドは、初めて「数字」で殴り負けた。
ギルド長室の空気は凍りついていた。 部屋の中央に立つのは、王都から派遣された経営戦略顧問、ベクター・アインス。 銀縁眼鏡の奥で、その瞳は冷徹な光を放っている。
「――以上が、私の提案する『冒険者支援債券』のスキームです」
ベクターが黒板に描いたのは、複雑怪奇な図式だった。 だが、その本質は単純にして悪魔的だ。
1. 冒険者がギルドに抱える「借金(装備レンタル代など)」を束ねる。 2. それを「債券」という商品に変え、一般市民に販売する。 3. 冒険者が返済する利息を、債券の配当として市民に還元する。
「現在、ギルドは冒険者からの回収遅延により、キャッシュフローが悪化しています。しかし、この債券を発行すれば、我々は即座に現金を手にできる。市民は高い利回りを得られる。……Win-Winの錬金術ですよ」
ベクターのプレゼンは完璧だった。 流れるような説明。美しい利回り予想図。そして、この都市の住民が最も弱い「不労所得」という甘い蜜。
ギルド長のゼノ・ブレイバーが、目を輝かせて身を乗り出した。
「す、素晴らしい! つまり、市民の愛(金)で冒険者を支え、みんなが豊かになるということか!」 「待ってください」
バンズが低い声で遮った。 手元の資料を握り潰しながら、彼はベクターを睨みつける。
「その『商品』の中身はなんだ? ……先日登録したばかりの新人や、自転車操業の多重債務者たちの借金だぞ」 「ええ。専門用語で『劣後債』と呼びます」 「ゴミ(ジャンク)の間違いだろ。あいつらが返済できなくなったらどうする? 債券は紙屑だ。市民は大損害を被るぞ」
バンズの指摘は正論だ。 回収見込みのない不良債権を、化粧箱に入れて売りさばくようなものだ。詐欺に近い。
だが、ベクターは薄く笑った。
「そのための『分散投資』ですよ、バンズ課長」
ベクターは、黒板にピラミッドを描いた。
「数千人分の借金を混ぜ合わせるのです。その中には、優秀なベテランもいれば、明日死ぬ新人もいる。確率論的に、全員が同時に破産することはない。リスクは分散され、極めて安全な金融商品へと生まれ変わる」
ベクターは、異世界の住人が知らない呪文を詠唱した。 ――大数の法則。ポートフォリオ理論。リスクヘッジ。
「数字は嘘をつきません。過去十年のデータに基づけば、この債券の破綻確率は0.02%。……さあ、反論があるなら『感情』ではなく『数式』でお願いします」
バンズは言葉に詰まった。 直感が警鐘を鳴らしている。ゴミをいくら混ぜてもゴミだ。だが、ベクターの提示する複雑な計算式には、論理的な穴が見当たらない。 「現代金融工学」という未知の武器の前に、バンズの手回し計算機はあまりに無力だった。
「……計算は、合っている」
バンズは唇を噛み、敗北を認めた。
「だが、お前の計算には『人の心』という変数が抜けているぞ」 「非科学的な懸念ですね」
ベクターはバンズを一瞥もせず、ゼノに向き直った。
「決裁を、ギルド長。この都市を豊かにするために」 「うむ! 採用だ! 直ちに『支援債券』を発行したまえ!」
小槌が鳴らされた。 それが、狂乱の始まりだった。
***
一ヶ月後。 都市ヘリックスは、異様な熱気に包まれていた。
「債券を買え! 持ってるだけで金が増えるぞ!」 「ギルドが保証してるんだ、絶対に安全だ!」
酒場の親父も、市場の主婦も、こぞって貯金をはたいて債券を買い漁った。 価格は高騰し、街は好景気に沸いた。 その裏で、何が起きているかも知らずに。
バンズは執務室の窓から、浮かれた街を見下ろしていた。 手には、露店で買った『虚空スフレ』。 見た目は巨大だが、中身はスカスカの空洞で、口に入れると一瞬で消えてなくなる砂糖菓子だ。
「……甘ったるい『空気』を食ってるみてぇだ」
バンズはスフレを飲み込み、部下のミナが持ってきた報告書に目を落とした。
【ダンジョン現況報告】 ・第3階層にて、新人冒険者パーティの遭難が多発。 ・回収班の報告:『装備の質が低下している』
「……始まったか」
ベクターは債券の利回りを維持するため、さらに多くの「借金」を必要とした。 その結果、ギルドは審査基準を下げ、返済能力のない新人にまで高額な装備を貸し付けたのだ。 実力に見合わない借金を背負わされた冒険者は、焦って無茶な探索を行い、怪我をする。あるいは死ぬ。 そうなれば、返済は滞る。
ズズ……ッ。
小さな揺れを感じた。 地震ではない。経済の地盤が、音を立てて崩れ始めた振動だ。
翌日。 ある噂が市場を駆け巡った。 『債券の配当が遅れているらしい』
その一言で、魔法は解けた。 「絶対に安全」という神話が崩れた瞬間、群衆は恐怖に駆られた獣へと変わった。
「売れ! 紙屑になる前に売り払え!」 「換金だ! ギルドは金を出せ!」
ギルドの窓口に市民が殺到した。取り付け騒ぎだ。 債券価格は大暴落。一夜にして、市民の財産は『虚空スフレ』のように消えてなくなった。
***
ギルド本部、大会議室。 怒号が飛び交う中、ベクターは青ざめた顔で書類を見つめていた。
「あり得ない……。私のモデルは完璧だったはずだ。なぜ、これほど非合理的なパニック売りが……」 「だから言ったろ。『人の心』が抜けてるってな」
バンズが扉を開けて入ってきた。 その手には、分厚いファイルが握られている。
「バ、バンズ君! どうすればいいのだ! このままではギルドが破産する!」
泣きつくゼノを無視し、バンズはベクターの前にファイルを叩きつけた。
「……『貸倒引当金』だ」 「なっ……?」 「お前が債券を発行する際、俺が裏でこっそり積み立てておいた隠し金だ。……この騒ぎを予想して、役員報酬(お前とゼノの給料)を天引きしてプールしておいた」
バンズは冷ややかに告げた。
「これで市民への最低限の元本は保証できる。……だが、利益はゼロだ。夢の不労所得は、全部チャラだ」
会場の空気が変わる。 最悪の事態(全財産喪失)は免れたという安堵と、夢が破れた虚脱感。
「……私の計算が、間違っていたというのですか」
ベクターが悔しげに唇を噛む。 バンズは首を横に振った。
「いいや。計算は合ってたよ。……ただ、『正解』じゃなかっただけだ」
バンズは窓の外、混乱の余韻が残る街を見た。 今回の騒動で、多くの新人が無理な借金を背負い、市民は貯金を減らした。 数字上の帳尻は合わせても、傷跡は残る。
「……撤収だ。残業して、後始末の書類を作るぞ」
バンズは背中を向けた。 勝った気はしなかった。 ただ、口の中に残るスフレの甘ったるい後味だけが、この空虚なバブルの記憶として残り続けていた。




