ある新人冒険者の損益分岐点
都市ヘリックスの城門をくぐった時、アル(16歳)は確かに夢を見ていた。
白亜の城壁。輝く教会。そして、伝説の英雄ゼノ・ブレイバーが守護する希望の街。 田舎の村で「神童」と呼ばれた剣の腕があれば、ここですぐに大金持ちになれる。そうすれば、村で病に伏せる妹に、特効薬を送ってやれるはずだ。
その希望が「数字」という暴力によって粉砕されるまで、わずか一週間だった。
***
「――次の方。登録番号4092番、アルさんですね」
ギルドの中央窓口。 事務的な声で呼ばれ、アルは重い足取りでカウンターに向かった。 身体中が痛い。包帯の下の切り傷がズキズキと脈打っている。
今日の探索――地下1階層でのゴブリン狩りは、散々だった。 レンタルした「初心者の剣」は驚くほど切れ味が悪く、ゴブリン一匹を倒すのに何度も斬りつけねばならなかった。 反撃を受け、腕を負傷した。痛みに耐えかねて、支給された「更生ポーション」を飲んだ。
甘いシロップのような味がして、痛みは嘘のように消えた。 ……また、あれを飲みたい。 ふと湧き上がった欲求を振り払い、アルは腰の袋をカウンターに置いた。
「せ、成果の精算をお願いします……」 「はい、確認します」
受付の女性職員は、慣れた手つきで袋の中身をトレーにぶちまけた。 ゴブリンの耳が5つ。欠けた魔石が2つ。 一日の死闘の成果がこれだけだ。だが、今の相場なら金貨数枚にはなるはずだ。
「査定終了です。本日の収益は、銀貨80枚となります」
アルは耳を疑った。
「ぎ、銀貨!? 金貨じゃなくてですか? だって、募集要項には『日給金貨1枚保証』って……」 「それは『総売上』の話ですね。そこから経費が引かれます」
職員は無表情に、一枚の羊皮紙――明細書を突きつけた。
【本日の精算書】 ■ 売上 ・ゴブリン素材他:銀貨 80枚
■ 控除(経費) ・装備レンタル料(剣・革鎧):銀貨 30枚 ・装備メンテナンス費(刃こぼれ修正):銀貨 10枚 ・更生ポーション代(1本):銀貨 20枚 ・ギルド利用税(売上の10%):銀貨 8枚 ・新人支援ローン利息(日歩):銀貨 5枚 --------------------------- ■ 手取り額 銀貨 7枚
「な……」
アルの目の前が真っ暗になった。 銀貨7枚。パンとスープを買えば消えてしまう額だ。宿代すら払えない。 これでは、妹への仕送りどころか、自分が野垂れ死ぬ。
「あ、あの! ポーション代が高すぎませんか!? 市場なら銀貨5枚で……」 「当ギルド指定の『純正ポーション』以外は持ち込み禁止です。安全管理のためですので」 「レンタル料も! この剣、全然切れなくて……!」 「『安全設計』です。初心者が自傷しないよう、あえて刃を潰してあります。……嫌なら、ご自分で装備を用意してください(・・・・・・・・・・・・・・)。もっとも、最低でも金貨50枚はしますが」
職員の冷たい視線が、田舎者の少年を射抜く。 金貨50枚。そんな大金、持っているわけがない。だからレンタルするしかない。 借りれば、稼ぎの半分を持っていかれる。 返済できない。装備が買えない。また借りる。
――詰んでいる。 この都市のシステムは、最初から新人が「ギリギリ生かされる」ラインで設計されているのだ。
「……サインを。後ろがつかえています」
アルは震える手で羽ペンを握った。 悔しさと絶望で、視界が滲む。 その時だった。
「――おい。待ちな」
横から、低い声が掛かった。 隣のカウンターで、安い串焼きを齧りながら書類を整理していた男だ。 くたびれたスーツに、死んだ魚のような目。机には『監査課』というプレートがある。
「あ、アイアンサイド課長……。何か?」 「その計算、間違ってるぞ」
男――バンズは、串焼きの串でアルの明細書を指した。
「『装備メンテナンス費』だ。銀貨10枚取ってるな?」 「は、はい。刃こぼれがありましたので」 「おかしいな。その剣の製造番号は『RW-09』。……耐用年数を超えた廃棄寸前の品だ。ギルド規定第4条2項、『減価償却の終わった装備の破損・摩耗について、利用者に修繕費を請求してはならない』」
バンズは、アルの腰にあるボロボロの剣を顎でしゃくった。
「元々ゴミ同然の剣を貸しつけておいて、新品同様の修理費をふんだくる気か? ……二重請求だぞ、これは」 「うっ……! し、しかし、マニュアルでは……」 「マニュアルと規定、どっちが上だと思ってる。……今すぐ計算し直せ。それとも、お前の名前で『不正請求報告書』を上に上げるか?」
職員は青ざめ、慌てて計算機を叩き直した。
「し、失礼しました! メンテナンス費の返還と……お詫びとして、本日のギルド税を免除します!」
ジャラッ。 トレーに追加の銀貨が乗せられた。 手取りは銀貨7枚から、銀貨25枚になった。 ……それでも、安い。だが、明日の宿代と、妹へ送る手紙代くらいにはなる。
「あ、あの……!」
アルはバンズに向き直った。
「ありがとうございます! あなたのおかげで、助かりま……」 「勘違いするな」
バンズはアルを見ようともしなかった。 ただ、冷めた目で串焼きの最後の一片を飲み込み、自分の仕事に戻っていく。
「俺は数字のズレを直しただけだ。お前を助けたわけじゃない」
バンズは背中越しに、独り言のように呟いた。
「……損益分岐点は超えたな。なら、死なない程度に稼いで、さっさと田舎に帰るんだな。ここは、夢を見る場所じゃねえよ」
バンズが去っていく。 アルは、手のひらの銀貨を握りしめた。 25枚の銀貨。それは温かく、そして酷く重かった。
彼は知ってしまった。 この輝く都市が、自分のような弱者の骨までしゃぶり尽くす、巨大な搾取装置であることを。 それでも、アルはここを去ることはできない。 ポーションの甘い味が、脳裏に焼き付いて離れないからだ。
「……明日も、潜らなきゃ」
少年の瞳から、輝きが消えた。 代わりに宿ったのは、借金と依存に縛られた、一人の「労働者」の昏い光だった。




