聖女の涙と、揚げバターの塔
その夜、ギルド長室の空気は湿っぽかった。物理的な湿度ではない。男泣きの湿気だ。
「見たまえ、バンズ君。この慈愛に満ちた報告書を……!」
伝説の勇者、ゼノ・ブレイバーは、一枚の羊皮紙を涙で濡らしながら震えていた。 対照的に、監査部査定課長代理のバンズ・アイアンサイドは、乾いた音を立てていた。 カリッ、ジュワッ。 彼が来客用テーブルで齧り付いているのは、黄金色の衣をまとった長方形の塊――『揚げバター』である。 冷凍したバター一本に、甘いパンケーキ生地を絡めて高温の油で揚げ、さらに粉砂糖をまぶした狂気の遊戯。 一口齧れば、熱で溶けたバターが奔流となって溢れ出し、致死量の脂質と糖質が脳の血管を直接殴りつける。
「……ギルド長。報告書が汚れるので、涙は拭いてください」
バンズは口の端から垂れる溶かしバターを指で拭いながら、冷静に言った。
「感動せずにいられるか! 聖女隊『白き百合』の活動報告だぞ!」 ドォン!! ゼノが興奮して一歩踏み出すと、執務室全体が地震のように揺れた。 分厚い絨毯の下で、床板が悲鳴を上げているのが分かる。
「……ギルド長。足音を立てないでください。下の階の総務部から『天井が落ちそうだ』と苦情が来ます」
バンズは冷ややかに注意したが、ゼノの耳には届いていない。
ゼノが身を乗り出す。 『白き百合』。リーダーのエリスを中心とした、女性だけの冒険者パーティだ。彼女たちは戦闘を好まず、下層区のスラムで貧しい人々に無償で治療を行う「奉仕活動」を専門としている。 その清廉潔白な姿は、教会のシスターよりも尊いと評判だった。
「彼女たちは、今回の報酬を全額辞退した! それどころか、手持ちの資金も全てポーション購入費に充てて、疫病に苦しむ人々を救い続けているのだ! これこそ『第6条:清めの儀式』の究極形ではないか!」 「ほう。報酬の辞退、ですか」 「そうだ! だからバンズ君、彼女たちへの活動支援金として、金貨三百枚の追加融資を承認してくれたまえ。彼女たちの善意を、金で止めるわけにはいかん!」
バンズは二本目の揚げバター串を手に取り、書類に目を落とした。 そこには、今月のポーション購入履歴が記されている。
「……計算が合いませんね」 「何がだ?」 「発注量です。彼女たちが申請したエリアの推定人口に対し、ポーションの量が致死量を遥かに超えています」
バンズは計算機も使わずに、即座に弾き出した。
「これを全て消費するには、住民全員が一日三回、風呂代わりにポーションを浴びる必要があります」 「それほど病が深いということだろう! 疑うな、信じるのだ!」
ゼノの熱弁を聞き流しながら、バンズは揚げバターを喉に流し込んだ。 喉が焼けるように甘い。だが、報告書から漂う臭いは、もっと甘ったるくて不快だった。
「……わかりました。現地調査(監査)に向かいます」
***
地下にある監査部の執務室。 バンズは自席に戻るなり、カフェイン増量版の魔導エナジードリンク『覚醒の雫』の栓を抜いた。
「どうでした、課長? また胃薬が増えそうな案件で?」
部下のミナが、呆れたように声をかける。彼女の手元には、既に調査済みの市場データが山積みになっていた。
「ああ。聖女様たちは、今月だけで通常の十倍のポーションを仕入れている。しかも、正規価格の半額で卸している『奉仕活動用』のやつをな」 「……やっぱり。データ、出てますよ」
ミナが水晶板を操作すると、折れ線グラフが空中に投影された。
「ここ三日間、下層区の闇市場におけるポーションの取引価格が、不自然に暴落しています。供給過多です」 「ビンゴだな」
バンズはグラフを睨みつけ、ニヤリと笑った。
「単純な転売だ。ギルドから『奉仕用』として半額で買い叩いた薬を、闇市場に定価に近い額で横流しして、差益を抜いている」
「しかも、タチが悪いです。空き瓶の回収データを見てください」 ミナが示した地図上の赤い点。それはスラムの診療所ではなく、闇商人の倉庫街に集中していた。
「……嫌な場所ですね。そこ、かつての密輸組織『黒犬商会』の縄張り(シマ)だったエリアですよ。最近、残党がまたコソコソ動き回っているって噂もあります」
「黒犬か。懐かしい名前だな。……ま、今は亡霊より、目の前の聖女様の化けの皮だ」
「治療なんてしていない。中身ごと横流ししている証拠です」
「よし。行くぞミナ。聖女様の化けの皮を剥ぎにな」
バンズは残りの揚げバターをナプキンで包むと、スーツのポケットにねじ込んだ。
***
下層区の広場は、熱気に包まれていた。 泥と汚水にまみれたスラム街の真ん中に、そこだけ真っ白な天幕が張られている。
「さあ、並んでください! 女神様の愛は、全ての人に平等ですわ!」
純白の修道服に身を包んだ美女、エリスが、薄汚れた男たちに小瓶を手渡していた。 彼女の周りには「エリス様!」「聖女様!」と涙を流して感謝する信者たちが群がっている。 その光景は、一見すれば宗教画のように美しかった。 ――スーツ姿の男が、揚げバターを齧りながら割り込むまでは。
「随分と景気がいいな。炊き出しのシチューより、ポーションの方が人気とは」
場違いな声に、エリスの手が止まった。 彼女はバンズを一瞥し、完璧な営業スマイルを浮かべた。
「あら、ギルドの方? 見ての通り、私たちは救済活動で忙しいのですけれど」 「ああ、忙しいだろうな。在庫管理にな」
バンズは口元の砂糖を拭い、懐から帳簿を取り出した。
「監査だ。『奉仕用ポーション』一千本の使用内訳を見せてもらおう。カルテはあるか?」 「カ、カルテ? そんなものありませんわ。緊急を要する患者ばかりでしたから、記録を取る暇なんて……」 「そうか。じゃあ、患者に聞こう」
バンズは並んでいる男の一人の腕を掴んだ。男は目が虚ろで、小刻みに震えている。
「おい、どこが痛い? 怪我は見当たらないが」 「あ、あう……薬……薬をくれ……シャキッとするんだ……」 「……なるほどな」
バンズは男を放し、エリスを冷たい目で見下ろした。
「怪我の治療じゃない。これは禁断症状だ」
広場がざわめき始める。エリスの笑顔が引きつった。
「な、何を言いがかりを! 私たちは苦しむ人々に安らぎを与えているだけです! 皆さん、この無礼な役人を追い払ってください!」
エリスが叫ぶと、信者たちが殺気立ってバンズを取り囲んだ。 だが、バンズは動じない。ポケットから一本の空き瓶を取り出し、掲げた。
「知っているか? ギルドのポーションには、製造ロットごとに微量な魔力マーカーが含まれている」 「……は?」 「これが動かぬ証拠だ。お前たちが廃棄したはずの空き瓶が、闇市場のゴミ捨て場から大量に見つかった。ロット番号も一致している」
バンズが瓶を投げ捨てると、エリスの顔が歪んだ。 だが、彼女は即座に表情を切り替え、涙ながらに叫んだ。
「酷い! これは寄付です! 余ったお薬を、貧しい商人に恵んであげただけですわ! それを転売だなんて……皆さん、この男は悪魔です! 私たちの神聖な活動を邪魔しに来たのです!」
「おおおっ!」と信者たちが殺気立ち、バンズに詰め寄る。 暴力の気配。だが、バンズは冷ややかに鼻を鳴らした。
「神聖な活動、ね。……その結果が、この中毒患者の山か」
バンズは目の焦点が合っていない男の首筋を掴み、群衆に見せつけた。
「いいか、よく聞け。『奉仕用ポーション』はな、本来、重傷の冒険者が使うための『劇薬』なんだ。健康な人間が常用すれば、過剰な魔力負荷で脳が焼き切れる」
広場が静まり返る。
「使用上の注意にはこうある。『専門知識を持つ者の管理下でのみ使用すること』。――お前たちはそれを無視し、健康な人間に劇薬をバラ撒いた。これは治療じゃない。未必の故意による『傷害罪』だ」
エリスの顔から血の気が引いていく。 ギルドの薬が悪いのではない。使い方が悪いのだ――そう論点をすり替えられ、彼女は逃げ場を失った。
「お前たちがやっているのは治療じゃない。健康な人間を薬漬けにして、固定客を作っているだけだ。加えて、闇市場への横流しによる不当利益。……ギルドの専売特許で、随分と好き勝手な商売をしてくれたな」
バンズは一歩、エリスに歩み寄る。
決定的な証拠と、逃れられない『罪』を突きつけられ、エリスは膝から崩れ落ちた。 聖女の仮面が剥がれ落ちる。彼女は顔を歪め、舌打ちをした。
「チッ……バレたなら仕方ないわね。アンタいくら欲しいの? 今月の売上の三割……いや、四割でどう?」 「金はいらない」
バンズは即答し、一枚の書類をエリスの目の前に落とした。
「数字を合わせるだけだ。損害賠償請求書だ」 「ば、賠償!? こんな額、払えるわけないでしょ!」 「だろうな。だから、体で払ってもらう」
バンズが指を鳴らすと、路地裏に待機していたトロール警備員たちが姿を現した。
「ギルド開発局が、新型ポーションの『臨床試験ボランティア(モルモット)』を探していてな。副作用が強すぎて、誰もやりたがらない案件だ」 「えっ」 「聖女様の体なら、どんな猛毒……いや、新薬も受け入れられるだろう? 安心しろ、日当は高い。治療費で相殺されるが、完済する頃には立派な『検体』になれる」 「い、嫌! 離して! 私の肌が! 髪がボロボロになっちゃう!」
絶叫するエリスと『白き百合』のメンバーたちが、警備員によって引きずられていく。 バンズはそれを見送りながら、最後に残った揚げバターの一欠片を口に放り込んだ。
「……油の味しかしねえな」
***
翌朝。 朝日が差し込むギルド長室で、ゼノがバンズの肩を叩いた。
「聞いたよバンズ君! 彼女たちは、更なる医学の発展のために、自らの身を捧げて『治験』に挑むそうじゃないか!」 「ええ。彼女たちは『痛みを分かち合う』ことを望みました。まさに『第9条:浄化と贖い』の実践です」
バンズは無表情で答えた。
「素晴らしい! やはり彼女たちは本物の聖女だったのだな! その尊い自己犠牲に敬意を表そう!」
ゼノは感極まって窓の外に向かって祈りを捧げ始めた。 バンズは深いため息をつき、執務室を後にした。
「……あいつらの血でできた薬なんて、飲みたくもない」
廊下を歩きながら、バンズは新しい胃薬の封を切った。 粉薬を口に含み、水も飲まずに嚥下する。 苦い味が、口の中に残った揚げバターの甘さと混ざり合い、ひどく不味かった。




