世界で一番高い雇用契約書
都市ヘリックスの最深部、第100階層。 臨界寸前の炉心と化した魔王の御前で、人類史上最もふざけた、そして最も真剣な「商談」が始まった。
『……再契約、だと?』
クリスタルの中で、魔王が乾いた笑い声を漏らす。
『人間が、我に情けをかけるというのか? 散々搾取しておきながら、今さら「可哀想だから助けます」とでも? ……笑わせるな』
拒絶。それは当然の反応だった。 20年間の拷問。その果てに差し伸べられた手など、新たな罠にしか見えないだろう。
だが、ベクターは眉一つ動かさず、銀縁眼鏡を光らせた。
「勘違いしないでください。情け? 慈悲? ……非効率な感情論ですね」
ベクターが指を鳴らすと、空中に巨大な損益グラフと、魔王のバイタルデータがホログラムとして展開された。
「これは純粋な『利益追求』です」 『……なに?』 「現状、貴方というシステムは使い捨て運用により崩壊寸前です。ここで貴方が壊れれば、都市はエネルギーを失い、我々は莫大な損失を被る」
ベクターは冷徹に、魔王を「資産」として定義した。
「貴方は『電池』としては優秀ですが、『消耗品』にするには替えが効かなすぎる。……壊れるまで使い潰すより、適切なメンテナンスを行い、数万年稼働してもらう方が、我々にとって圧倒的に『得』なのです」
魔王が言葉を失う。 愛でも正義でもなく、「損をしたくないから助ける」。そのドライな論理が、逆に魔王の警戒心を揺らがせた。
そこに、バンズが畳み掛ける。 彼は懐から、羊皮紙の束――いや、分厚い『正規雇用契約書』を広げた。
「俺たち監査官の提案はこうだ。まず、胸に刺さってるその剣(拘束具)は撤去する」
バンズは契約書の条項を指差した。
「その代わり、あんたにはこの都市の『エネルギー管理部長』に就任してもらう」
【労働条件】 ・24時間連続勤務の即時撤廃。 ・週休二日制(土日祝休み)の導入。 ・有給休暇および、夏季・冬季の長期休暇の付与。
【報酬】 ・地上の美食(三食昼寝付き)。 ・最新の娯楽(漫画、ゲーム、魔導ネット回線)の提供。 ・快適な居住空間へのリフォーム。
【業務内容】 ・都市への安定的な魔素供給。 ・ダンジョン内魔物発生数の適正管理(ゲームマスター業務)。
「どうだ? ただ痛みに耐え続ける20年と、こっちの条件」
バンズはニヤリと笑った。
「どっちが『魔王らしい』優雅な暮らしかな?」
魔王の瞳が揺れる。 それは、想像すらしたことのない未来だった。 痛みから解放され、人間に崇められ(管理され)、美食と娯楽に耽る日々。 だが――。
『……口先だけなら、何とでも言える』
魔王の視線が鋭くなる。
『人間は嘘をつく生き物だ。我を解放した瞬間、また裏切るかもしれん。……かつて、そこの英雄が「世界のために」と言って、我を刺したようにな』
ゼノがビクリと肩を震わせる。 20年前の裏切り。その傷は、聖剣の傷よりも深く魔王の心に刻まれている。 やはり、信用などできない。
その空気を切り裂いたのは、バンズの笑い声だった。
「ははッ! その通りだ!」 『……なにがおかしい』 「ああ、人間は嘘つきだ。平気で約束を破るし、正義なんて簡単にひっくり返す。……だがな、一つだけ絶対に裏切らないものがある」
バンズは一歩踏み出し、魔王を指差した。
「人間は、『損得勘定』には誰よりも正直だ」
バンズは天井を――遥か上にある都市ヘリックスを指差した。
「あんたが機嫌よく働いてくれれば、都市は潤い、人間は莫大な富を得る。逆にまたあんたを裏切れば、あんたは暴走し、都市は滅びて全員破産だ。……だから人間は、正義のためじゃなく『金のために』全力であんたを守る」
バンズは魔王の目を真っ直ぐに見据えた。
「俺たちを信じるな。俺たちの『強欲さ』を信じろ。……それが、どんな誓いよりも確実な『保証』だろ?」
静寂。 やがて、クリスタルの中から、乾いた笑い声が響いた。 それは自嘲ではなく、愉悦を含んだものだった。
『……ククク。……ハハハハハッ!』
魔王が笑う。
『強欲さを信用の担保にするとはな……。人間とは、どこまでも業の深い生き物よ』
魔王の視線が、ゼノへと向く。
『……英雄よ。お前はどうする? 我を解放すれば、もう二度と封印はできんぞ。世界を危険に晒す覚悟はあるか?』
ゼノ・ブレイバーは、涙を袖で拭った。 彼はもう、迷わなかった。 ゆっくりとクリスタルに歩み寄り、魔王の胸に深々と突き刺さった聖剣の柄に手をかける。
「……私はもう、君を犠牲にはしない」
ゼノの手が輝く。 かつて世界を救うために振るった力が、今、一人の友を救うために発動する。
「これからは私が、君の『盾(部下)』になる。……だから、一緒に生きてくれ」
「おおおおおおおッ!!」
ゼノが吼えた。 全身の筋肉が軋み、聖なる光が溢れ出す。 20年間、世界を繋ぎ止め、魔王を苦しめてきた「楔」が、ゆっくりと抜けていく。
カァァァァァァッ!!
眩い閃光が地下空間を包み込んだ。 クリスタルの赤い輝き(暴走の赤熱)が消え、澄み渡るような青い光へと変わっていく。
パリン。
クリスタルが砕け散り、拘束から解放された魔王が、ふらりと床に降り立った。 痩せ細った体。だが、その瞳には理知的な光が宿っていた。
魔王は自分の胸を――傷が消えた場所を撫で、バンズへと歩み寄る。
『……ペンを貸せ』
バンズが差し出した羽ペンを受け取り、魔王は契約書にサラサラとサインをした。
『よかろう。……人間よ、我を使いこなしてみせろ』
魔王はニヤリと笑い、バンズ、ゼノ、ベクターを見回した。
『ただし、ブラックな働かせ方をすれば、即座にストライキ(世界滅亡)を起こすからな。覚悟しておけ』 「肝に銘じておきますよ、新任の『管理部長』さん」
バンズが手を差し出す。 魔王がそれを握り返す。 続いて、泣きじゃくるゼノの手が、呆れ顔のベクターの手が重なる。
英雄、監査官、コンサルタント、そして魔王。 奇妙な四人の握手によって、世界で一番高い契約は成立した。 それは、英雄伝説という「嘘」が終わり、新たな「ビジネス」が始まった瞬間だった。




