英雄の帰還と、蜂蜜漬けのベーコン
奈落の蓋と呼ばれる城塞都市ヘリックス。その中心に聳え立つ冒険者ギルド『パスファインダー』の本部は、今夜も欺瞞と栄光、そして焦げた油と胃酸の匂いに満ちていた。
最上階にあるギルド長室は、いつ来ても目が眩む。壁には歴代の魔物の首級が剥製となって並び、中央にはかつて世界を救ったとされる聖剣のレプリカが、間接照明を浴びて神々しく輝いている。
そんな英雄的な空間の隅にある来客用テーブルで、バンズ・アイアンサイドは行儀悪く夜食を広げていた。 皿の上にあるのは、厚切りベーコンの蜂蜜漬けだ。カリカリに焼かれた豚肉の脂と、琥珀色の蜂蜜が混ざり合い、背徳的な輝きを放っている。
「美しい……」
窓際で夜景を見下ろしていた男が、感極まった声を上げた。このギルドの長であり、かつての伝説的勇者、ゼノ・ブレイバーだ。 バンズはフォークでベーコンを突き刺し、無表情で答えた。
「夜景のことですか? 私には燃料費の浪費にしか見えませんが」 「違う! 人の魂の話だ!」
ゼノがバッと振り返り、マントを翻して歩み寄ってくる。その手には、泥と――おそらくは血に見せかけた赤い塗料で、演出たっぷりに汚された羊皮紙が握られていた。
「新人パーティ『暁の槍』の報告書だよ。彼らは今日、下層区のオーク集落へ挑んだ。だが、敵のあまりの数に圧倒され、己の無力さを痛感したのだ」
バンズは興味なさそうに、脂の滴るベーコンを口に運んだ。強烈な塩気と甘みが脳髄を痺れさせる。
「はあ」 「彼らはそこで、我らが聖道十二条の原点、『第1条:虚無への開眼』を果たした! 自らの弱さを認め、涙ながらに撤退を選択したのだ。なんと美しい、勇気ある敗北か!」
バンズの手が止まった。
「……開眼? ただの敵前逃亡でしょう」 「バカもん! 撤退もまた戦略! 己を知ることこそ、更生への第一歩なのだよ」
ゼノは熱弁を振るいながら、バンズのテーブルをバンと叩いた。 メキョッ。 鈍い音がして、頑丈なオーク材の天板に、蜘蛛の巣状の亀裂が走る。 だが、ゼノはそれに気づかず、衝撃で跳ねたフォークを見て満足げに頷いた。
「……ギルド長。備品損壊届、書いてもらいますよ」とバンズは小声でボヤく。
「報告によれば、彼らは命からがら逃げ延びたため、レンタルした装備を全て失ったそうだ。まさに身一つ! 命の尊さを知った彼らに、見舞金として『特別功労賞』を出そうと思う。金貨十枚だ! バンズ君、承認印を頼む!」
バンズは深いため息をつくと、スーツの懐から胃薬の小瓶を取り出した。
「……ギルド長。ハンコは少し待ってください」 「なんだ? 渋い顔をして。また胃が痛いのか?」 「ええ」
バンズは胃薬を炭酸水で流し込むと、冷ややかな視線を報告書に向けた。
「少し、脂の臭いがきついですね」 「ん? ベーコンのことか? 確かにすごいカロリーだが」 「いいえ。もっと腐った……嘘の脂の臭いです」
***
ギルド長室とは対照的に、監査部の執務室は地下の倉庫のように薄暗く、狭かった。天井まで届く棚には決算書や報告書のファイルが地層のように積み重なり、空気はインクと埃で淀んでいる。
自席に戻ったバンズは、食べかけのベーコンにチューブのマヨネーズを追加で絞りかけていた。
「おかえりなさい、課長。……またそんな寿命を縮めるものを食べて」
隣のデスクで伝票を高速で仕分けていた部下のミナが、呆れたように声をかけた。
「血管が詰まりますよ」 「詰まるくらいが丁度いい。この街の『清く正しい空気』を吸ってると、胃に穴が開くからな」
バンズはマヨネーズまみれの肉を頬張りながら、卓上の水晶板を指差した。
「で、どうだ?」 「真っ黒です」
ミナは一枚のリストを差し出した。
「『暁の槍』がレンタルした剣と鎧の製造番号、下層区のあちこちで反応が出ています」
バンズはリストを受け取り、デスクライトにかざした。
「分散させたか。小賢しい真似を」 「しかも、彼らからは『装備破損届』の下書きデータも見つかりました。『激戦で砕け散った』ことにするための口裏合わせのメモ付きで」 「なるほど。筋書きだけはいっちょ前だな」
バンズは鼻で笑った。
「ポーションのデータは?」 「それも変です。彼らは報告書で『恐怖に震え、パニックになった』と書いていますが、携行していた精神安定用の『聖水』の封が、一本も開けられていません」 「震えたのは恐怖じゃない。……アルコールの離脱症状か、あるいは賭け事でスッた時の武者震いか」
バンズは最後の一切れを飲み込むと、ナプキンで口を拭った。
「呼び出しだ。彼らに本当の『大人の社会』を教えてやる」
***
第3取調室は、殺風景なコンクリートの箱だった。窓はなく、壁の隅にある魔導カメラの赤い光だけが、室内の光源だ。
中央の鉄製テーブルを挟んで、新人冒険者のルードがふんぞり返っていた。対面の席では、バンズが両手に持った巨大な激辛チリドッグを無言で食べている。 咀嚼音と、漂うスパイスの刺激臭に耐えかねて、ルードが口を開いた。
「……おい、いつまで待たせるんだよ。事務手続きだろ? さっさと終わらせてくれよ」
ルードは苛立ちを隠そうともせずに言った。
「ギルド長は『功労賞』をくれるって言ったぜ? 俺たちはオークの地獄を見たんだ。そのトラウマケア代も請求させてもらうからな」
バンズはチリドッグを飲み込み、口元の赤いソースを指で拭った。
「オークの地獄か。……臭うな」 「あ? 当たり前だろ。泥まみれで逃げ帰ったんだ。汗と泥の臭いくらいするさ」 「いや、泥の臭いじゃない。お前の袖口から漂う、その安っぽい甘ったるい香りだ」
バンズはルードの目を真っ直ぐに見据えた。
「下層区の賭博場『黄金の夢』のトイレで使われている、芳香剤の臭いだろ?」
ルードの眉がピクリと動くが、すぐに鼻で笑い飛ばした。
「はっ、笑わせるな。帰りに公衆トイレくらい寄るだろ? それが犯罪かよ?」 「なるほど、トイレか。じゃあ、装備はどうした?」
バンズは懐から一枚の紙を取り出し、テーブルに滑らせた。
「質屋の買取証明書だ。お前らが『オークに奪われた』と報告した剣の製造番号が載っている」
決定的な証拠。しかし、ルードは動じなかった。ニヤリと口角を上げ、用意していた台詞を吐く。
「ああ、それか。勘違いするなよ事務屋さん。俺たちはそれを『売った』んじゃない。『修理』に出したんだ」 「修理?」 「そうさ。オークとの戦いで刃こぼれしちまったからな。一時的に預けただけだ。質屋のオヤジもそう証言してくれるはずだぜ?」
ルードは勝ち誇った顔でバンズを見た。質屋の店主には既に口止め料を渡してある。完璧な布陣だ。 だが、バンズはチリドッグの包み紙を丁寧に折りたたみながら、深いため息をついた。
「……質屋のオヤジか。『片目のジャック』だな?」
バンズは淡々と言葉を続けた。
「彼の店は『今朝から』監査対象だったんだ。お前たちが持ち込んだ瞬間、憲兵が張り込んでいたのさ」 「は?」
ルードの表情が凍りつく。
「その際、司法取引で帳簿をすべて提出してくれた。『修理依頼』ではなく『買取』の明細もな。……お前らが口裏合わせに使った賄賂の額まで、きっちりメモしてあったぞ」 「な……ッ!?」 「手ぶらで帰れば、装備の弁済を迫られる。だから質に入れて種銭を作り、カジノで増やして買い戻そうとした。だがスッた。そこで泥を塗って『オークに襲われた』ことにして、保険金と見舞金をせしめようとした。――『第1条:免責同意契約』の悪用、および『第5条:虚偽報告』だ。……図星だな?」
ドン! とルードが机を叩いて立ち上がった。
「うるせえ! ハメやがったな!?」
顔を真っ赤にして叫ぶ若者に、バンズは冷めた視線を向ける。
「ギルドなんて、俺たち冒険者からピンハネして儲けてるだけだろ! 俺たちがどう遊ぼうが勝手だ! このこと、ギルド長に言いつけてやる! あの人は俺たちを評価してくれたんだ!」 「ああ、ギルド長は悲しむだろうな」
バンズは懐から手回し計算機を取り出し、高速でキーを叩き始めた。 「だが、俺は事務屋だ。感情では動かない。動くのは数字だけだ」
ガシャ、ガシャ、チーン。
「『第3条:契約不履行』の違約金。装備の弁済費。虚偽報告への罰則金。そして本日の業務妨害費……締めて、金貨五十五枚だ」 「ご、五十五枚!? 払えるわけねえだろ、そんな大金!」 「だろうな」
バンズは計算機をしまい、ニヤリと笑った。
「だから、代わりの仕事を斡旋してやる。ギルドは更生の機会を与える慈悲深い組織だからな」
分厚いファイルの中から一枚の契約書が取り出された。
「都市の地下水路、通称『汚泥の川』の清掃業務だ。期間は半年。給料は全額天引きで借金返済に充てる。安心しろ、あそこは臭すぎて賭博どころじゃない。酒も不味くなる。まさに『更生』にはうってつけの環境だ」 「そ、そんな……! 嫌だ! 俺は英雄になるんだ!」 「サインしろ」
バンズの声が一段低く、冷たく響いた。
「それとも、憲兵に突き出されたいか? 横領と詐欺未遂なら、懲役三年は堅いぞ」
ルードは涙目で震える手でペンを握った。
「警備員、連れて行け」
扉が開き、巨体のトロール警備員が入ってくる。泣き叫ぶルードが引きずられていくのを、バンズは見向きもせずに、空になったチリソースの容器をゴミ箱に放り投げた。
***
翌朝。朝日が差し込むギルド長室は、昨日にも増して清浄な空気に満ちていた。 入室したバンズを、ゼノが満面の笑みで出迎えた。
「おお、バンズ君! 聞いたよ! 『暁の槍』の彼らが、自ら地下水路の清掃任務を志願したそうだね?」 「ええ、まあ。……彼らは、気づいたんですよ」
バンズは手元の書類に目を落とし、感情を殺した棒読みで答えた。
「剣を失った自分たちには、まだ『英雄の資格』がないと。だから、まずは都市の最も汚れた場所で、身を清める禊を行いたいと申し出がありました。これは彼らなりの『第9条:埋め合わせ』の実践です」 「おお……!」
ゼノは感動で肩を震わせ、目頭を押さえた。
「なんと殊勝な心がけか! 地下の汚泥をすくうことで、心の中の泥もすくい取るつもりだな!? やはり私の目に狂いはなかった。彼らは本物の『求道者』だ! バンズ君、彼らの更生プログラムを頼んだぞ!」 「おっしゃる通りに。……では、私はこれで。胃が痛いので」
***
執務室に戻ったバンズは、疲れ切った様子で椅子に深く沈み込んだ。 ミナが無言でコーヒーカップと、紙袋に入った山盛りのシュガードーナツをデスクに置く。
「お疲れ様でした、課長。うまく誤魔化せました?」 「ああ。ギルド長は感動して泣いてるよ。『心の中の泥をすくい取る』だとさ」
バンズは紙袋からドーナツを一つ掴み取った。
「……あの人は一生、夢だけ見ていればいいんですよ。現実は私たちが処理しますから」
ミナが呆れたように肩をすくめる。
「で、ルードたちの借金補填分、どうします?」 「地下水路から出るヘドロは、上層区の農園で肥料として高値で売れる。彼らを半年こき使えば、人件費を差し引いても十分な黒字になる計算だ」 「さすがバンズ課長。……相変わらず、血も涙もないですね」 「褒め言葉として受け取っておくよ」
バンズはドーナツにかぶりついた。ザリッとした砂糖の食感と共に、強烈な甘みが口いっぱいに広がる。
「……うまい。この安っぽい甘さが、疲れた脳に染みる」
口の周りを砂糖だらけにしてドーナツを貪るバンズ。窓の外には、朝日を浴びて輝く上層区の教会と、その下に広がる雑多な街並みが見える。 教会の鐘が、カラン、コロンと、どこか空虚に鳴り響いていた。




