神のパイプオルガンと、排気ダクトの黒い煤
都市ヘリックスのシンボル、聖教会大聖堂。 その地下深くに、一般信徒はもちろん、下級司祭すら立ち入りを禁じられた『絶対聖域』がある。
伝説によれば、そこには神の息吹が満ち、清らかな聖水が湧き出る泉があるという。 だが、通気ダクトを破壊して侵入したバンズ・アイアンサイドの目に映ったのは、神聖さとは程遠い光景だった。
ちなみに、この場所を守っていた最強硬度の魔法結界は、もう存在しない。 同行したゼノが「おや、自動ドアか。反応が遅いな」と言いながら素通りし、物理的に粉砕してしまったからだ。
「……臭うな」
バンズは鼻を覆った。 漂っているのは香油の香りではない。硫黄と、焦げた油と、腐った卵を混ぜたような強烈な悪臭だ。 そして、目の前に広がるのは泉ではない。 太い金属パイプが血管のように張り巡らされ、巨大なボイラーが唸りを上げる、無骨な「化学プラント」だった。
「な、なんだこれは……? ここが聖域なのか?」
隣に降り立ったギルド長のゼノ・ブレイバーが、目を白黒させている。
「ええ。ある意味では、この都市の心臓部(聖域)でしょうね」
バンズは懐から『炭焼きスモーク・ジャーキー』を取り出し、齧った。煙臭い肉の味が、工場の煤煙と混ざり合う。
「構造が見えましたよ。……この施設は、ダンジョンの大穴から立ち昇る『瘴気(魔素)』を、あの巨大なファンで吸い上げている」
バンズが指差した先には、直径十メートルはある巨大な送風機があった。 轟音と共に吸い上げられた瘴気は、幾重ものフィルターを通って濾過され、純粋な魔力光へと精製されている。
「なるほど。教会はただ祈っているわけじゃなかった。都市全体のエネルギー供給を独占する、巨大な発電所だったわけだ」 「むぅ……? つまり、私たちの生活を支えてくれていたということか?」 「ええ。そこまでは立派な事業です。……問題は『ゴミ処理』だ」
バンズは足元の配管をコンコンと叩いた。 ドロリとした黒い液体が、配管の継ぎ目から滲み出している。
「瘴気を濾過すれば、当然『不純物』が出る。高濃度の毒素を含んだ魔素汚泥だ。……本来なら、金をかけて無害化処理しなきゃならない」
バンズは配管の延びる先を目で追った。 そのパイプは、あろうことか『下水処理ライン』へと直結されていた。
「だが、彼らはそれをサボった。コスト削減のために、毒をそのまま下層区へ垂れ流したんだ。……それが今回の『黒斑病』の原因ですよ」
ゼノの表情が凍りついた。 信じていた正義。神の家。それが、貧しい人々をゴミ捨て場にしていた事実。
「……許さん」
ゼノが静かに呟いた。その手は、怒りで震えている。
「神の名を借りて、弱きを虐げるとは……! 断じて許さんぞ!」 「同感です。……さて、証拠写真は撮りました。一度戻って告発の準備を……」
バンズが撤収しようとした時、ゼノがふらりと歩き出した。 彼の視線が、プラントの中央にある制御室に釘付けになっている。 そこには、無数の圧力計と、蒸気を調整するための大小様々なレバー、そして緊急停止用のボタンが並んでいた。
「おお……! 見つけたぞ、バンズ君!」 「はい?」 「あれこそ、伝説の神器**『神のパイプオルガン』**に違いない!」
ゼノが目を輝かせて叫んだ。 バンズは一瞬思考停止し、制御盤を二度見した。 確かに、縦に並んだパイプと、階段状のレバー群は、遠目に見ればパイプオルガンに見えなくもない。……いや、無理がある。
「いや、ギルド長。あれはボイラーの圧力調整弁で……」 「心が震える! 穢れたこの場所を浄化するには、聖なる旋律が必要だということか!」
ゼノは聞く耳を持たない。 彼はマントを翻し、制御室の前に立った。 そして、ピアニストのように指を鳴らし、厳かに構えた。
「聴いてくれ。私の魂の演奏を!」 「待てバカ! それ全部『排出バルブ』だぞ!?」
バンズの制止は遅かった。 ゼノの指が、目にも止まらぬ速さでレバーを弾いた。
「クレッシェンド(だんだん強く)!」
ガシャンッ! プシューッ! キュイィィン!
蒸気が噴き出し、警告音がリズムを刻む。 本来なら緻密な計算が必要な弁の開閉を、ゼノは「ノリとフィーリング」だけで操作していく。
「圧力計を見てくれ! ゲージがレッドゾーンだ!」
バンズの悲鳴など聞こえていない。ゼノは恍惚とした表情で叫んだ。
「フォルテシモ(強く)!」
ゼノが赤いレバー(全開放)を全力で押し込んだ。
ゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
地鳴りが響く。 地下水路へ向かっていた汚泥の流れが遮断され、行き場を失った圧力が逆流を始める。
「いいぞ! パイプが喜んで歌っている!」 「悲鳴だ! 配管が破裂するぞ!」
バンズが頭を抱えた瞬間、頭上の配管から黒い奔流が噴き出した。 だが、それはスラムへは向かわなかった。 圧力の逃げ道を探した汚泥は、最も抵抗の少ない場所――つまり、この真上に位置する『上層区』の排水口へと一気に駆け上がったのだ。
***
その頃。地上、上層区の中央広場。 貴族たちが優雅にアフタヌーンティーを楽しんでいた。 広場の中央にある白大理石の噴水からは、清らかな水が湧き出ている――はずだった。
ボコッ。
不吉な音がして、水が止まる。 次の瞬間。
ドバァァァァァッ!!
噴水から、黒いヘドロが間欠泉のように噴き上がった。 悪臭を放つ黒い雨が、着飾った貴族たちや、純白のテーブルクロスに降り注ぐ。
「きゃあああ!? な、何これ!?」 「臭い! 服が! 私のドレスが!」
パニックになる広場。 さらに、教会の壁面の排水口からも、道路の側溝からも、黒い汚泥が逆流して溢れ出す。 美しい白亜の街は、瞬く間にドブ色に染まった。
騒ぎを聞きつけた枢機卿グレゴリオが、バルコニーに飛び出してきた。
「な、なんだこれは!? スラムに捨てるはずの廃棄物が、なぜここに!?」
その時、地下から「ジャジャジャジャーン!」という、どこか聞き覚えのある交響曲のリズムに合わせて、地面が振動した。
***
地下プラント。 ゼノは、最後の「キメ」として、中央にある巨大な緊急停止ボタン(どう見てもフィナーレの鍵盤)を拳で叩き込んだ。
ジャンッ!!
全ての機械が停止し、静寂が訪れた。
「……ふぅ。素晴らしい演奏だった」
額の汗を拭い、満足げに振り返るゼノ。 バンズは、煤だらけになった顔で、呆然と天井を見上げていた。
「……アンタ、最高だよ」
バンズは乾いた笑いを漏らした。
「スラムに流れるはずだった毒を、全部『差出人』の元へ送り返しやがった」
上からは、貴族たちの悲鳴と怒号が微かに聞こえてくる。 それは、これまでスラムの人々が上げていた悲鳴そのものだ。
「さあ、行きましょうマエストロ(巨匠)。アンコールは地上で。……枢機卿への『請求書』という名の楽譜を持ってね」
バンズは懐から手回し計算機を取り出した。 その瞳は、汚泥よりも黒く、冷徹に光っていた。




