王都の雨と、計算違いのハンバーガー
1. カミソリの食卓
六年前、王都。 王立監査局の第一執務室は、針が落ちる音さえ聞こえそうな静寂に包まれていた。 その中心にあるデスクで、バンズ・アイアンサイド(二十六歳)は優雅にブラックコーヒーを啜っていた。
デスクの上には塵一つない。書類はミリ単位で整列され、インク壺の位置すら決まっている。 昼食は、老舗ベーカリーの特製サンドイッチ。具材はローストビーフとルッコラ。 無駄な脂質も、過剰な糖分もない。完璧に計算された栄養バランス。 それが当時の彼の――「王都のカミソリ」と呼ばれた男の日常だった。
「計算通りだ。……今期の不正摘発率、前年比120%増」
バンズは満足げに呟いた。 世界は数式でできている。感情や欲望というノイズを取り除けば、そこには美しい「正解」だけが残る。彼はそう信じて疑わなかった。
「お疲れ様、バンズ」
声をかけてきたのは、隣の席の同僚であり、婚約者のエレナだった。 正義感が服を着て歩いているような、真っ直ぐな瞳の女性だ。
「次のヤマが決まったわよ。『戦災孤児救済基金』の使途不明金調査。……どうやら、かなり大きな闇がありそうね」 「問題ない。どんな闇だろうと、数字は消せない」
バンズは引き出しの奥にある小箱――彼女に渡すはずの婚約指輪――を一瞬だけ確認し、自信たっぷりに答えた。
「俺の計算に、死角はないさ」
その時の彼は知らなかった。 計算機では弾き出せない「解」があることを。
2. 平和のコスト
調査は難航を極めたが、バンズの執念が勝った。 消えた金貨十万枚。 その流れ着いた先は、私腹を肥やす悪徳貴族の金庫ではなかった。 敵対国である帝国――その軍部最高司令官の秘密口座だったのだ。
「……バカな。なぜ、孤児のための金が敵国に?」
突き止めた真実は、あまりにも残酷だった。 その夜、バンズは国防大臣マルドゥク卿の私室にいた。
「認めるよ、監査官」
老獪な大臣は、悪びれることなく頷いた。
「私が横領し、敵将軍へ送金した。……『不可侵条約の裏金』としてな」 「裏金、だと?」 「我が国の軍備は限界だ。今、帝国に攻められれば一週間で王都は落ちる。だから金で時間を買ったのだ。……孤児の金を餌にして、十万人の市民の命を守ったのだよ」
バンズは言葉を失った。 汚職ではない。これは「国防」だ。 だが、法的には完全に黒だ。
「公表するかね? 国民は激怒するだろう。『我々の善意を敵に売った売国奴』とな。……その怒りは開戦論となり、止められなくなるぞ」
3. 計算不能のジレンマ
監査局に戻ったバンズを待っていたのは、激昂するエレナだった。
「許せない……! どんな理由があろうと、それは犯罪よ! 明日、全ての証拠を新聞社に持ち込みます!」 「待て、エレナ。それをすれば戦争になる」 「じゃあ黙っていろと言うの!? 正義のために戦うのが、私たちの仕事でしょう!?」
エレナの瞳は、純粋すぎる正義で燃えていた。 バンズの脳内で、冷徹な計算が走る。
【A:告発する(正義)】 エレナの正義は守られる。大臣は失脚。だが賄賂が止まり、帝国軍が侵攻開始。推定死者数、十万人。もちろん、救うはずだった孤児たちも死ぬ。
【B:隠蔽する(平和)】 平和は続く。死者はゼロ。だが、監査官としての誇りは地に落ちる。そしてエレナは、隠蔽に加担した自分を軽蔑し、二人の未来は消滅する。
どちらを選んでも、何かを失う。 いや――「両方」を守る計算式が、一つだけあった。
「……わかった。俺に任せてくれ、エレナ」 「バンズ……? やってくれるのね?」 「ああ。……俺なりのやり方で」
4. 汚名の代償
その夜、王都は激しい雷雨に見舞われた。 バンズは一人、局のサーバー室に侵入した。 指先が震える。だが、迷いはなかった。
彼は『聖女基金』の全データを操作した。 マルドゥク卿の名前を消し、代わりに**『バンズ監査官』**のIDを入力する。 ――動機は『違法ギャンブルの借金返済』。 ――証拠隠滅のため、オリジナルデータを完全消去。
さらに、エレナのデスクに忍び込み、彼女が持っていた告発用データのバックアップ・クリスタルを粉々に砕いた。 これで、彼女は告発できない。 彼女の手は汚れない。 そして、戦争のトリガーは引かれない。
「……これでいい」
バンズは砕けたクリスタルを見つめ、自嘲気味に笑った。 世界は計算通りだ。 俺一人が泥を被れば、全ての収支が合う。
5. カミソリの折れた日
翌朝、バンズは逮捕された。 拘置所の面会室。ガラス越しに、エレナが涙を流して叫んでいた。
「嘘よ……! 貴方がギャンブルなんてするはずがない! 誰かを庇っているんでしょう!?」
彼女は優秀だ。違和感に気づいている。 だからこそ、徹底的に演じなければならない。最低のクズを。
バンズは足を組み、震える指先を隠すようにあくびをして見せた。
「買いかぶりすぎだぜ、エレナ。……エリート生活も飽きてな。少しスリルが欲しかったんだよ。他人の金で打つ博打は最高だったぜ?」 「最低……ッ!」
パァンッ! ガラスを叩く音。 エレナは指から婚約指輪を抜き取り、バンズに向かって投げつけた。
「顔も見たくない! 消えて!」
彼女が去った後、静寂だけが残った。 バンズは看守に頼み込み、床に落ちた指輪を拾ってもらった。 冷たい銀の輪。 それが、彼の「カミソリ」としての人生の終わりだった。
6. 雨の停留所
数日後。 マルドゥク卿の裏工作により、極刑は免れたものの、バンズは「辺境都市ヘリックスへの無期限左遷」を言い渡された。
雨の降る、乗合馬車の停留所。 バンズはフードを目深に被り、ベンチの端で小さくなっていた。 手には、屋台で買った安物のハンバーガー。 かつての彼なら、絶対に見向きもしないような、脂と添加物の塊だ。
一口、齧る。
「……不味い」
味がしない。冷たい脂が舌にまとわりつき、砂を噛むような不快感だけが残る。
だが、その不味さが、今の空っぽの自分には相応しい気がした。
その時。 停留所の前を、一人の若者が通り過ぎた。 銀縁眼鏡に、神経質そうな七三分け。新人監査官の制服を着ている。 彼は水たまりの位置を計算し、泥が跳ねないよう、機械のように正確な足取りで歩いていた。
若者――ベクターが一瞬、ベンチのバンズを一瞥する。 その目には、明確な軽蔑が宿っていた。 (雨の中で食事とは。非効率で不潔な男だ。ああいう人間が社会の生産性を下げている)
バンズもまた、冷ややかな目の若者を見送った。 (……綺麗な歩き方だ。泥を避けることしか考えていない、潔癖なロボットみたいだな)
二人は一言も交わさなかった。 ベクターは、バンズが空けた「エースの座」へと向かって光の中へ。 バンズは、泥を被った「敗残兵」として、辺境行きの馬車という闇の中へ。
すれ違う二つの計算式。 その答え合わせが行われるのは、まだ数年先のことだ。
7. 残された計算機
王立監査局。 初出勤したベクターは、上司からデスクを案内された。
「今日からここが君の席だ。……前任者の荷物がまだ少し残ってるかもしれんが、捨ててくれ」
ベクターが引き出しを開けると、奥に一台の古びた「手回し計算機」と、一枚のメモが挟まっていた。 殴り書きの文字。
『計算機は嘘をつかない。だが、使う人間は嘘をつく』
ベクターはそのメモを摘まみ上げ、鼻で笑った。
「……嘘をつくのは人間? 当たり前だ。だから排除するんじゃないか……非論理的なポエムだ。前の持ち主は、よほど数字が苦手だったと見える」
彼はメモを丸めてゴミ箱に捨てた。 だが、その重厚な計算機だけは、なぜか捨てることができず――引き出しの最も奥へと押し込んだ。
8. 冷え切った勝利
そして現在。更生都市ヘリックス。 深夜の執務室で、バンズは冷え切ったハンバーガーを齧っていた。
手元の魔導ラジオから、臨時ニュースが流れている。 『――速報です。王都と帝国の間で、平和条約が正式に締結されました。これにより、長年の緊張状態は解消され……』
六年。 あの時守った「一時の平和」は、繋がったのだ。恒久的な平和へと。
「……計算、完了だ」
バンズは誰にも聞こえない声で呟いた。 誰にも称賛されない。誰にも知られない勝利。 その味は、冷えた肉とパンの味しかしない。
「バンズ君! またそんなものを食べているのか! 栄養が偏るぞ!」
扉が開き、能天気な声が響く。 ギルド長のゼノ・ブレイバーだ。かつてのエレナのような、眩しすぎるほどの「光」を持つ男。
バンズは苦笑し、いつものように胃薬の封を切った。
「ええ。ですが……この塩辛い味が、今の私にはお似合いなんですよ」
粉薬を水で流し込む。 苦い。けれど、あの日の雨の味よりは、ずっとマシだった。




