明け方の鶴
ある晩、彼女からの手紙を読もうとキッチンへ赴き、冷凍庫からチョコスナックを取り出そうとしたが、開けると冷やした空気のみがあることに気がついた。確かに昨晩フリーゾチョの袋を開け、その場で二小袋貪ってしまったが、あと一袋は冷凍庫に入れておいたのだ。それがそっくりなくなっていた。手紙を読むことと舌の味覚はとうに結びついており、読む時には冷凍フリーゾチョを貪らなければ読んだ気がしなくなっているのだ。それがたとえ彼女からの手紙であっても。自分は食べていない。絶対物理的にあり得ない。だとしたら誰が食べたというのか。答えは簡単だ。ルームメイトの坂本橘である。
筋肉トレーニングの合間に貪ったに違いない。彼の部屋はキッチンの隣で、廊下の音も立てずにキッチンへ行き、パッと冷凍庫からフリーゾチョを取り出すと、冷気を漏らさぬ速さで閉じ、音を立てずに貪った。いや、吸い込んだに違いない。彼は隣で唸り声をあげている。ちょうどいい。この盗人を我が手で取り締まり、法の元に断罪してやろう。扉にノックを3回すると、坂本は15の刻印のあるおもりを右手に、腕を伸ばしたり縮めたりしながら出てきた。
すかさず「この盗人め!」と胸に抱きつく。しかしなぜか倒れ込まない。
「お前だろう。お前が貪ったんだろう。橘!」
「どうしたのだろう、とかそんな目で見るな。橘!」
「胸筋を膨らませて俺をどかせようとするな。橘!」
60進法の針が耳に響く。坂本により、椅子に座り手を膝の上に置くように勧められたまま、容疑者がプロテインをシェイクするのを待った。振って振って、そしてシンクに半分もたれかかった。
「その砂糖の塊……」
「やめろ。フリーゾチョを悪く言うな」
坂本は冷凍庫を開けると、わずかに作らされ始めた霜を指先で取り、そして溶かした。
「それ、神様が食べたんじゃないか」
「そんなわけないだろう」
「だとするなら、お前が貪ったんだろう。2袋食べたつもりが実は3袋だった」
「違う。絶対2袋で、1袋は冷凍庫だ。プラゴミの中を見てみろ」
「嫌だよ」
河村は椅子から立ち上がると、プラゴミを分別した袋を手に取り、坂本に見せつけた。
「ほら見ろ、二袋しか入っていない。これが証拠だ」
「自分の部屋にあともう1袋があるんだろう。君、そろそろ部屋片付けた方がいいよ」
「はぐらかすな。部屋は片付けない」
「そう。ゴキブリははびこらせるなよ」
「確かに冷凍庫に入れたんだ」
「ごまかすな」
そう言って冷凍庫を開けると、手紙が入っていた。手紙には「食べていません」と書かれている。食べていないようだ。それなら一体誰が貪ったのだろうか。これはよく考える必要がある。坂本がその手紙で折り鶴を折っている間に、河村は小麦粉を冷凍庫に振りかけた。指の皮脂に付着し、指紋が浮き上がるという寸法だ。
自分の指の中ほどで綺麗に渦巻く指紋とは、形が違って見えた。
「見ろ。指紋が出てきた。お前のとよく見比べさせろ」
「いいぞ。ほら」
「渦巻きが下の方にありすぎないか?」
「ほっとけ。鶴を折らせろ。早く」
冷凍庫から出てきた指紋は、渦巻きが下の方にありすぎていた。
「橘じゃねえか。やっぱり。」
「だから違うってば。やめろ。鶴さんのくちばしが折れる」
「いいだろう。折り鶴なんだから」
「やめろって」
坂本に上腕二頭筋を膨らまされると、河村は立ちすくむしかなかった。
「大体、僕の指紋も出るだろう。同じ冷凍庫をルームメイトとして使ってるんだから」
「いや、そんなわけはない。0.001%しかあり得ない。縦軸に『お前という人間』、横軸に『冷凍庫の気温』とする」
河村は歯で嚙んでペンのフタを開け、キッチンペーパーに芯先を走らせる。
「お前が生きていくと横軸は1増える。お前と今日で100日過ごしたんだから100メモリを進める」
そうしてグラフ化すると、犯人を示す線はまっすぐ右肩に上がり、河村が100であることを指し示した。
「これは統計の罠だ!罠だ罠だ!」
そうしてじっと膝の上に置いた自分の指紋を見つめた。やはり、指紋では決定的な証拠にならないか。そう思って取ったテープの坂本の指紋をプラゴミに捨てた。
「グラフなんか当てにならないよ。神様のせいだよ」
「そんなわけはない」
正しくないものは結果に出ない。例えばこういうのはどうだろう。フリーゾチョは3年前は6袋だった。今は3袋である。これを月齢に対して散布図にすると……1となる。
「これは神のお示しでは――」
そう言いかけて、慌てて自分の口を塞ぐ。
「今日はもう寝るよ」
「おやすみ」
河村はゴミの中に寝転んだ。結局誰がフリーゾチョを貪ったのだろうか。指紋でもグラフでも誰かは分からない。かの、三坂仲一郎も、こう言ったではないか。
「妻は俺の知らない子を3人産むが、指紋とグラフだけはいつも正しい」と。
明日こそ坂本を問い詰めてみせる。
河村は目を閉じた。
ゴミ袋のざらついた音が背中にまとわりつき、指先に残るテープの糊が、まだ冷たい。寝返りを打つたびにプラゴミがざくざくと鳴り、まるで世界が薄い氷でできているような気がした。明かりは消したはずなのに、冷蔵庫のランプが呼吸のように点滅している。目を細めると、薄い光が床の線に沿って流れ、彼の体を測量しているように見えた。
どこかで坂本が咳払いをした。鶴の紙が擦れる音がして、指の関節が鳴った。紙が折られるたび、空気がぱちりと弾け、ひとつの折り目が世界に追加されていくようだった。河村は耳を塞いだ。夢の中でもこの音は聞こえる気がしたからだ。
眠りが浅く、彼は幾度もまぶたの裏で冷凍庫のドアを見た。閉じたはずの扉が、少しだけ開いている。そこから伸びた霧が、床を這いながら枕元に触れる。手を伸ばすと、それはすぐに消え、かわりに指先に冷たい金属の感触が残った。目を開けると、自分の指紋が床に転がっていた。丸く、渦を巻きながら、ひとりでに転がっていく。追いかけようとして体を起こすが、体は重く、膝の関節が音を立てた。
「坂本……」と呼ぶと、返事がない。代わりに冷蔵庫のランプが一度だけ明滅した。その光の中で、ゴミ袋の上に小さな白い折り鶴が落ちているのを見つけた。拾い上げようと指を伸ばすと、鶴はふっと浮き上がり、天井に貼りついた。折り目がひとつずつほどけ、鶴は紙片になって舞い落ちる。
息が白くなる。冷蔵庫のランプがまた点滅する。彼は目を閉じたまま、自分がゆっくりと冷えていくのを感じた。音が遠のく。冷蔵庫の呼吸と、自分の鼓動が一致したところで、ようやく眠りに落ちた。
次の日の朝、河村がキッチンへ赴くと、坂本は鶴を折っていた。
「橘、まだ鶴を折っているのか?」
「うん。もう1羽折ったんだ。今から2羽目。もうすぐ彼女に送らなきゃ」
河村はフリーゾチョを冷蔵庫から取り出し――。朝食代わりに貪って、何か手掛かりはないかと冷凍庫を開けると、フリーゾチョが入っていた。袋は開き、一口かじられた場所に戻っている。しかも少し減っている。1日経ったグラフは今も自分を犯人だと指し示す。
おい!……おい!わあああああああ!あああああああ!
「フリーゾチョがある」
「フリーゾチョがあるね」
「お前、買って来ただろう」
「いや、一晩中2匹目を追っていたさ」
しかし確かに昨日、指紋の持ち主から断定した犯人は坂本だった。プラゴミの中のテープの指紋を探して確認してみる。指の中ほどで綺麗に渦巻くそれを机の上に置き、それと昨日の出来事とのベン図を書く。それは確かに昨日、坂本が家から出ていないことを示していた。
「そうか……」
河村はそう呟き、ベランダに出て、まだ明けきらない明け方の夜空を見上げた。坂本はその隣に来て、河村が見上げているのを見て、彼も見上げた。
「わしじゃないよ」
明け方の光の中、そう答える神様の胸元で鶴は小さく羽ばたいた。霜のような羽音が聞こえた気がした。
まもなく、新聞が届く時間である。




