神が降りた島で1
プロローグ
公民館の「ゆんたく室」に足を踏み入れると、すでに子どもたちとそのお母さんたちがテーブルのまわりにちょこんと座り、今か今かと私の登場を待ちわびていた。
私の姿を見つけるやいなや、部屋のあちこちから小さな歓声が上がる。
目をきらきら輝かせた子どもたちは、わくわくとした表情で私を見つめている。
「しずか先生、今日はどんなお話?」
一人の子が身を乗り出しながら、元気いっぱいにたずねてくる。
「今日はね、この島がどうやって生まれたのか――神さまたちがこの島に降り立った、いちばん最初のお話をします」
私はにっこりと微笑んで、そっと紙芝居の枠に手を添えた。
『はじまりのしま』と書かれた一枚目の絵をゆっくり引き抜き、ひとつ深呼吸してから、静かに語りはじめた。
『はじまりのしま』
むかし、むかしのお話です。
風と海と空の音だけが満ちていたころの話です。
人も、獣も、草木の一本さえもその姿はなく、ただ、寄せては返す瑠璃色の波だけが、永遠の時を刻んでいました。
始まりも終わりもない、光と闇が溶け合う、しんと静まり返った世界でした。
その静寂の海の彼方には、常世の国「ニライカナイ」がありました。
そこは、すべての命が生まれ、還っていくという、まばゆい光に満ちた楽園です。
そのニライカナイに、ひと組の神さまが住んでいました。
ひとりは、生命を育む太陽のようにあたたかく、月のように賢い女神、アマミキヨです。
もうひとりは、大地のように強く、海のように深い思いやりを持つ男神、シルミチューです。
ある日、天の神さまがふたりを呼んで、こう言いました。
「この青い海の向こうに、まだ誰も住んでいない美しい島がある。そこに降りて、国をつくり、人の世をはじめておくれ」
アマミキヨとシルミチューは、互いの瞳の奥に宿る決意を確かめ合うように見つめ合い、静かに、しかし力強くうなずきました。
ふたりは光でできた天の浮舟に乗り込み、満天の星々のまたたきを道しるべに、穏やかな波の上をゆっくりと進んでいきました。
風はふたりの門出を祝うように歌い、月は慈愛に満ちた光でその旅路を照らし、星々はきらきらと輝きながら、未来の創造主たちを見守っていました。
幾夜もの旅の果て、東の空がほのかに白み、朝の光が黄金色の矢となって海に降り注ぐころ、ふたりの舟はひとつの島へとたどり着きました。
それが、久高島です。
どこまでも続く真っ白な砂浜、吸い込まれそうなほどに青い海、そして生命の息吹を秘めた静かな森に抱かれた、神聖な島でした。
ふたりは舟を降りると、まだ誰の足跡もついていない砂浜に、敬虔な祈りと共に、最初の一歩を印すました。
「こここそが、人の世界のはじまりにふさわしい島だ」
ふたりはその地を清め、天に向かって祈りをささげました。
「どうかこの島に、平和と実りがありますように」
聖なる儀式を終えたふたりは、次なる地、琉球本島へと渡ります。
アマミキヨは、命の源である森のそばに、光と風が通り抜ける美しい住まいを構えました。色とりどりの花が咲き乱れ、甘い木の実がたわわに実るその家では、鳥たちが一日中、喜びの歌を歌っていました。
一方、シルミチューは、海の見える小高い岩山の洞窟を住まいとしました。そこからは、島々のすべてを見渡すことができ、まるで島の行く末を見守る守護神のようでした。
そこから、ふたりの国づくりが始まりました。
アマミキヨは、そのしなやかな手で大地を耕し、田畑をつくりました。
太陽と月の巡りに合わせて種を蒔き、天の恵みである雨に感謝を捧げると、稲、麦、粟、豆といった命をつなぐ穀物が、黄金色の穂を垂れ、次々に豊かな実りをもたらしました。
シルミチューは、その力強い腕で山に木々を植え、島を台風から守る風よけの森を育てました。
岩を砕き、泉を掘り当て、清らかな水がこんこんと湧き出る場所をつくり、すべての命が喉を潤せるようにしました。
そして、星々がひときわ美しく輝くある夜のこと。ふたりの愛と祈りの中から、まばゆい命の光が生まれました。
やがて、男の子と女の子が産声をあげます。
それが、この島に生まれた最初の人間でした。
子どもたちは、アマミキヨの優しさと、シルミチューの強さを受け継ぎ、すくすくと元気に育ちました。
やがて大人になった子どもたちは新しい家族をつくり、また新しい命が生まれていきました。
静かだった島は次第に人々の笑い声で満たされ、にぎやかな集落が生まれていきました。
アマミキヨは、人々が神々と心を通わせられるようにと、島から島へと旅をし、聖なる場所に「御嶽」と呼ばれる祈りの場を築きました。
「ここは、天と地、そして神と人とをつなぐ聖域。ここで捧げる祈りは、大地に眠る生命力を目覚めさせ、海をあたため、人々の心をひとつにするのです」
一方、シルミチューは、子どもたちに自然と共に生きるための大いなる知恵を授けました。
火の起こし方、嵐を乗り切る舟の造り方、稲の育て方、潮の満ち引きを読んで魚を捕る方法、そして夜空の星を読んで方角を知る術。
「自然とともに生きること。それが、神さまからの学びなのです」
人々は、ふたりの神の教えを深く胸に刻み、互いに助け合い、収穫を分かち合いながら、平和な世を築いていきました。
こうして、アマミキヨとシルミチューは、琉球の国のはじまりをつくった偉大なる「始祖神」として、永遠に敬われるようになったのです。
その物語は、今も沖縄の島々に息づいています。
久高島には、アマミキヨが最初に天から降り立ったと伝えられる「カベール岬」が。そして浜比嘉島には、シルミチューが深く眠り、今も島を見守っているといわれる、静かな洞窟が残されています。
人々は今も、その聖なる地へ足を運び、そっと手を合わせます。
「どうか、この島の子どもたちが、健やかに育ちますように」
「海も、山も、変わらず豊かな実りを恵んでくださいますように」
「争いのない、あたたかく、穏やかな世が、未来永劫続きますように」
この島は、祈りと恵み、そしてふたりの神さまのやさしい手からはじまったのです。
昔々のお話でした。
テーブルのまわりに座った子どもたちは、誰ひとり声を発することなく、じっと耳を澄ませていた。
私が最後の絵を見せ終え、絵札をそっと枠の後ろに戻して語りを締めくくると、その静けさを破るように、一人の子が小さく息を呑んでつぶやいた。
「しずか先生、もう終わりなの?」
そのひとことが合図のように、あちこちから感想の声がぽつりぽつりと上がり始めた。
「神さまのお話、おもしろかった」
「しずか先生、また読んでね」
「ママトモにもぜひ聞いていただきたいので、またお越しいただけますか?」
そして、一人がぱちぱちと小さな拍手をすると、すぐにそれが広がり、あっという間にみんなの拍手になった。
私は静かに目を閉じた。
胸の奥に、ぽうっと灯るような温かさがじんわりと広がっていくのを感じる。
子どもたちのまっすぐなまなざしの向こうに、物語の世界をしっかりと受け取ってくれた確かな手応えがあった。
語った物語が、この子たちの心に、そっと静かに根を下ろしていく。そんな予感が、ふわりと私の中に芽生えていた。
「みんな、最後までお話を聞いてくれて、ありがとうね」
そう言って微笑みかけると、子どもたちの顔にも自然と笑みが広がり、ゆんたく室の空気がふわりとあたたかくなった。
春の午後。窓の外では、そよ風が木々の葉をやさしく揺らしていた。
一.ぶつかって、はじまる
海風が頬をそっと撫でる午後のひととき。私は、やわらかな光に包まれた海蝕洞の前に立ち、静かに目を閉じて空を仰いでいた。
太陽は高く昇っていたが、照りつけることなく、やさしいヴェールのようにその地を包んでいた。
空の青と海の深い青が、海蝕洞の向こうで静かに溶け合い、ひとつの色になっていく。その穏やかな色の重なりに、私の心もそっと包まれていく。
私は呼吸を整え、風の気配、波のリズム、足元の大地の微かな震え――それらすべてが私の肉体を通り過ぎ、魂の奥へと染み渡っていった。
私は目を閉じた。
私の内側には、視覚の代わりに、気の流れや音なき響きが鮮やかに立ち上がってくる。
風のざわめきは、天と地がそっと語り合っているように感じられ、波の鼓動は、地球という大いなる命の心音のように胸いっぱいに広がっていき、私は、そのすべてと溶け合うように、意識をゆるやかに解き放っていった。
やがて風がぴたりと止み、波の音さえも遠ざかり、時間そのものが息を潜めたかのような静寂が訪れ、私は全身をその静けさに委ねた。
そのとき、天の彼方から細く、しかしはっきりとした囁きが降りてきた。それは耳ではなく、胸の奥に届く声。懐かしく、けれど人間の言葉ではとても言い表せない叡智に満ちたその声が、私の心に届いた。
「恐れず、委ねなさい――あなたの中に、すでに答えはあるのです」
それは誰の声でもなく、けれどたしかに「存在」の気配に満ちていた。その声は、私の内にひっそりと眠っていた直感や記憶にそっと触れ、静かに目覚めさせていくようだった。
目には見えなくても、世界にはたしかに「声なき声」がある。そして、それに気づこうとする者にだけ、静かに語りかけてくる――私は、そのことを、理屈ではなく、体の奥で知っていた。
この海蝕洞の前では、太古の昔から祈りが捧げられてきたのだろう。自然への畏敬、祖霊への想い、命への感謝――人々は大地と天に祈り、願いを託してきた。その祈りの記憶が、今もこの地に静かに息づいている。
私は岩にそっと手を添えた。ひんやりとした感触の奥から、どこか温もりを帯びた「気」が、ゆっくりと伝わってくる。そこには、人智を超えた何かが、今も静かに佇み、すべてを見守っているような気配がある。
私はその見えざる存在に心を開き、内なる対話を始めた。問いを投げかけ、返ってくるのは言葉ではなく、感覚の波のようなもの。けれどそれは、私にとって紛れもない答えだった。
自分の奥底から湧き上がる感情や映像――ときには、誰かの想いさえもが私の意識を通して立ち現れてくる。
世界は、ただ物質だけで成り立っているのではない。見えない想いや記憶、命そのもののエネルギーが織り込まれ、私たちはその織物の一部として生かされている。
この場所は、そのことを、ただ静かに、しかし確かに教えてくれている。
私は深く息を吸い込み、空を仰いだ。そこには、かたちのない慈しみが広がっていた。そして私は、誰かのために祈りたくなった。今、この大いなる存在と出会おうとしているすべての魂のために――
見えない世界に向かって、私は祈りを捧げた。
「ありがとう」と。
ーーその静けさを破るように、突然、何かが私にぶつかってきた。
「わっ、なに……!」
思わず声が漏れる。次の瞬間、慌てたような男性の声が耳に届いた。
「ごめん!」
少し息の上がったその声には、焦りと誠意がにじんでいた。
「人がいるとは思わなくて……本当に、ごめんなさい」
その男の声を聞いた瞬間、私は表情が一変した。驚きのあとに湧き上がったのは、怒り――というより、呆れと苛立ちが混じった強い感情だった。
「ちょっと、何やってるのよ!」
思わず一歩踏み出し、声を荒らげてしまった。ぶつかったときに触れた手の感触が、はっきりと男のものだったことを思い出す。
「こんなに静かな場所で、よくもまあ勢いよくぶつかってこられるわね……しかも男が!」
その声には、日頃から蓄積されていた苛立ちのようなものが混じっていた。知らない男に突然体を預ける形になったことへの屈辱と不快感が、感情をさらに煽っていた。
男はしばし言葉を選ぶように沈黙し、戸惑いを隠せない様子で、再び頭を深く下げた。
「本当に……申し訳ありません。私、目が見えなくて」
その声は、何かを恐れるように震えていた。ただの謝罪ではない。自らの弱さをさらけ出すことへの葛藤が、そこに滲んでいた。
「え……」
私は思わず声を漏らし、胸の奥にこみあげてきたものに、言葉が追いつかなかった。
「もしかして……あなた、本当に目が見えないの?」
彼は小さく頷きながら、静かに言葉を継いだ。
「小さい頃、熱を出したときにちゃんとした治療が受けられなくて……視力が戻らないまま、大人になってしまいました」
「気をつけていたつもりだったんですが……本当に、ごめんなさい」
「本来なら、人の気配を感じて避けることができるんです。でも、あなたからは――その、『人の気配』のようなものが感じられなかったので、ぶつかってしまいました。本当に申し訳ありません」
その説明には、言い訳ではない、真摯な思いが込められていた。自分の障害を盾にしたくないという、強い自尊心と、それでも人に迷惑をかけてしまったことへの深い後悔。
私の中に渦巻いていた怒りが、ゆっくりと引いていった。
胸の奥に生まれたのは、気まずさ、そして言いようのない感情。
(なんで……こんなにまっすぐに謝られたら、怒り続けられないじゃない……)
私は戸惑いながらも、目の前の彼に対して、これまでに感じたことのない不思議な親しみのようなものを抱き始めていた。
「わざとじゃないのよね?」
「もちろんです。小学校に行くつもりだったのですが、どうやら道を間違えてしまったようで……。波の音が聞こえてきて、おかしいとは思ったんです。でも戻ろうにも方向がわからず……」
彼は少し息を吐き、苦笑まじりに言葉を継いだ。
「まるで、何かに導かれるような気がして……そのまま歩いていたら、あなたにぶつかってしまったんです」
私は、岩陰から差し込むやわらかな光の中で、彼の言葉の一つひとつをかみしめるように聞いていた。まだ名前も知らないこの人の、心の奥にある静かな情熱のようなものを、確かに感じ取っていた。
「そうだったのね……でも、私も気づかなかったの。ごめんなさい」
彼は首を横に振りながら、やさしく言った。
「気にしないでください。でも……見えてるのに、どうして気づかなかったんですか?」
「私はね、空を見上げて……天の声を聞いていたの」
彼は一瞬言葉に詰まったように黙り、それから少し戸惑いを含んだ声で問い返した。
「天の声って……いったい、あなたは何者ですか?」
「ただの叔母さんよ。何でもない、普通の。でもね、時々……天の声みたいなものが聞こえることがあるの。それで、今日はその声を聞こうとして空を見ていただけなの」
彼は黙ったまま、私の声にじっと耳を傾けていた。広がる空のもと、静かな海の気配に包まれて、ふたりのあいだには、ゆっくりと不思議なぬくもりが満ちていった。
「そういえば……あなた、ぶつかってきたとき、私のおっぱい、触ったわよね?」
「えっ……!?いえ、そんなつもりは……でも、確かに、何か柔らかいものに触れた気が……」
「ほんとに、見えてないの?」
「ええ。見えていません。ただ……それがもしおっぱいだったとしたら、かなり低い位置にあったような……あっ、ごめんなさい!」
「ふふっ、いいのよ。叔母さんだし、子ども二人産んでるしね。たれてきてるの」
「えっ……でも、普通、女性ってブラジャーで支えてるんじゃ?」
「そうよ。普段はちゃんとつけてるわよ。でもね……さっき、海があまりにもきれいだったから、つい裸で泳いじゃったの」
「えっ……?」
「それで、海から上がって岩の上に置いておいた服を取りに戻ったら、なぜか下着だけがなくなってたの。誰かが拾っていったのか、風に飛ばされたのか……それとも、神さまのいたずらかな」
「ほんとに……?」
「ほんと。だから今、私は下着をつけていないの」
「ええっ!?」
「だから、おっぱいがちょっと低かったのよ」
「す、すみません!本当にすみません!見えないとはいえ、気づかなかったとはいえ、ぶつかって……おっぱいまで……!」
彼は、しばしの沈黙ののち、少しだけ声の調子を和らげて言った。
「変なことを聞いて、すみません。でも、さっき……ぶつかったとき、あなたの体から何かを感じたんです。不思議なぬくもりのような……やわらかい何かが、私の中に流れ込んできて……」
その言葉を聞いた瞬間、私は思わず目を見開いた。
(あの一瞬で……感じ取ったの?)
彼の言葉は、私の心の奥底を見透かしているかのようだった。
「それ……あなたにも、わかったの?」
私の問いに、彼はためらいながらも頷いた。
「はい。何かが確かに……流れてきたんです。それは、痛みでもなければ、衝撃でもない……温かな、懐かしいような感覚でした」
私は内心で息をのんだ。『気』は、たしかにこの人に伝わっていた。
それは偶然なんかじゃない。もっと深いところで、二人の何かが響き合った――そんな確信が、胸の奥に静かに芽生えていた。
そのとき、潮風がふわりと吹き抜け、髪を揺らした。
「あなた、名前は?」
「山下です。山下良寛といいます」
「私は、与儀奈津子。気功を少し教えているの」
「気功……それで、あのときの感覚……なるほど、そういうことだったんですね」
彼の言葉には、少しの戸惑いと、何かを理解した安堵が混ざっているようだった。
私は軽く頷いて、ゆっくりと答えた。
「気ってね、目に見えないけれど、ちゃんと存在するの。触れ合ったり、共鳴したり……。あなたはきっと、それを感じ取る力が強いのね」
彼は黙って私の言葉を受け止めるように、ゆっくりと呼吸を整えていた。その姿を見て、私もまた心が静かに落ち着いていくのを感じていた。
海蝕洞の静けさが、私たちを包み込み、まるで時間さえも一瞬、止まったかのようだった。隣に立つ彼の存在が、まるで何かを待っているような、そんな空気をまとっている。
そして、ふと思いついて、私は口を開いた。
「せっかくだから……少し、座って話さない?海を見ながら」
彼は、私の提案にすぐに答えてくれた。
「ありがとうございます。ぜひ、お願いします」
彼が差し出した手を、私はそっと取った。その手の温もりが、何か不思議な安心感を与えてくれるようだった。
岩に腰を下ろしたふたりの前には、青く広がる海があった。波は穏やかに打ち寄せ、白い飛沫が岩場を濡らしていた。
「……ここ、よく来るんです。渡具知の浜」
私がそう口にすると、彼は小さく頷いた。
「静かですね。音が……心に届いてくるようです」
彼の言葉に、奈津子は目を細めた。
「見えないぶん、耳が澄んでいるのね」
「そうかもしれません。でも、奈津子さんの声は……それ以上に澄んでいます」
私は思わず笑ってしまった。
「そんなこと言って、すぐ口説くの?」
「いえ、そういうつもりでは……」
彼が慌てる気配に、私は首を横に振った。
「冗談よ。でも、ありがとう。あなたのそういうまっすぐな言葉、好きかもしれない。それと私のこと『なっちゃん』って呼んでくれる?」
少しの沈黙。だが、それは重さではなく、心が呼吸を合わせていくための間だった。
「『なっちゃん』分かりました、これからはなっちゃんと呼びます。私のことは良寛と呼んで下さい」
「ところでなっちゃん……気功って、どんなことをするんですか?」
その問いに、私は少しだけ間を置いてから、言葉を選ぶようにゆっくりと答えた。
「気を感じる。流れを整える。自分の内と外の声に耳を澄ませる。……それだけのこと。でもね、それがとても深いの。人と人とのあいだにも、気の通い合いがあるのよ」
「さっきの、あれも?」
「うん。あれは……たぶん、お互いの『気』がぶつかって、重なって……。一瞬だけど、溶け合ったの」
彼がふと息をのんだのがわかった。
あのときの、言葉にならない感覚。彼は確かに、私の中の何かが、自分の中に触れたのを感じていた。
彼はしばらく黙っていたが、やがて戸惑いを隠しきれない声で言った。
「じゃあ、ぼくは……『気』を感じる力がある、ってことですか?」
「あると思う。でもそれは、特別なものじゃない。ただ、良寛が素直にそれを受け取ったからよ。多くの人は、感じる前に心を閉じちゃうから」
「……心を開く、か」
彼は、そっと海に顔を向けた。彼の目には何も映らないはずなのに、そこに確かに、広がる世界を見ようとしているようだった。
「ねえ、なっちゃん、あったばかりなのに変なこと聞くけど、『気』って何? 気分とか元気とか、気合いとか気力とか……いろんな言葉に使われているけど、本来『気』って、何ですか?」
不意にそう尋ねてきた良寛さんを見て、私はちょっとだけ目を見開いた。
こんなふうに真正面から「気」について聞かれたのは、もしかしたら初めてだったかもしれない。
そして、自然と笑みがこぼれた。
――うれしかったのだと思う。
私は水平線の向こうを見つめながら、ゆっくりと言葉を探しはじめた。
「うん、いい質問だね。たしかに“気”って、いろんなところに使われてるし、なんとなく分かってるようで、実はちゃんと説明するのって難しいよね」
「でもね、私の感覚で言えば、『気』っていうのは、目に見えないけど、たしかに『いのち』の流れみたいなものなの」
「元気は『元の気』でしょ?人が本来持っている、いのちの源みたいなエネルギーのこと。勇気は『勇む気』。恐れに負けずに立ち向かおうとする心の力」
「天気、空気、気候、気配……全部、何かの『流れ』や『変化』を感じる言葉なんだよね」
「だから『気』って、本当はとっても自然なものなの。宇宙にも地球にも、私たちのカラダにも心にも流れてる、『生命の波』みたいなもの」
「それを意識することで、自分の状態が見えてくるし、人と人との間にも、ちゃんと流れがあるってことがわかってくるの」
「気功って、その『気』を感じて整える練習なんだよ。呼吸や動き、心の在り方を通して、気の通り道を澄ませていく感じ」
「そうするとね、自分の中にあったザワザワや重さが、ふっとほどけていくの」
「だから、『気』って、ただのエネルギーじゃなくて、『いのちといのちを結ぶもの』なのかもしれないなって、私は思ってるよ」
私は、ふと立ち上がって、そばに咲いていた一輪のハマユウの花を摘んだ。
「良寛、手を出して」
彼は戸惑いながらも、素直に右手を差し出した。私は、その掌にそっと花を置いた。
「これは……?」
「ハマユウの花。ここの岩場に、よく咲くの」
彼は、そっと指先で花のかたちをなぞった。ひとつひとつの花弁に触れるたび、こわばっていた表情が、少しずつほどけていくのが私には見て取れた。
「なっちゃん……ありがとう。今、心がすごく穏やかです」
「それが『気』よ。人の心は、ちゃんとつながっている。目に見えなくても」
風がまた、二人の髪をなでていった。
そのとき、私の胸の奥――もっと深い場所に、小さな震えが走った。
(……あ、来る)
ふいに、耳の奥がしんとした。そして、どこか遠くから、声が響いてきた。
「この人は、風の道を歩く人……導いてごらん」
その声は、誰のものでもない。それでも確かに、私の内側に響いてきた――否応なく告げてくる、あの『天の声』。
私は静かに目を閉じ、その言葉を深く心に収めた。
「……良寛」
「はい?」
「今度、気功を見学に来ない?公民館に気功の仲間たちが集まってるの。毎週、木曜日に。良寛なら、きっと歓迎されると思う」
彼は一瞬、迷いを含んだような表情を見せたが、やがてまっすぐに頷いた。
「はい。……ぜひ、行きたいです」
私はにっこりと微笑んだ。
新しい物語が、静かに歩み始めていた。
二人のあいだを流れる『気』は、もう途切れることのない、細くしなやかな糸となって、確かに結ばれつつあった――。
二.これが気功?
このあいだ、ちょっと風変わりな女性に出会った。「なっちゃん」と名乗ったその人は、どこか不思議な雰囲気をまとっていて、最初は正直、どう接していいのかわからなかった。
とても自然体なのに、どこかこちらの内側をすっと見透かすような目をしている――そんな印象だった。
なっちゃんは、明らかに私とは違う世界を生きている人だと思う。価値観とか、感じ方とか、見ている景色が根本的に違うような気がする。
それなのに、私はなぜか、彼女の言葉がずっと心に残っていた。
「よかったら、今度、気功を見学に来ない?」
その一言が、ふとした拍子に思い出されて、気がつけば今日、こうしてここに来ている。
彼女がやっているという「気功」については、それなりに知識はある。呼吸法とか、気の流れとか、そんな言葉が浮かんでくる。でも正直なところ、それを日常に取り入れている人たちがどんなふうに過ごしているのか、想像がつかなかった。
ただ、そういう世界に少し距離を感じていたのも事実。どこか自分には合わないような、そんな気がしていた。
でも、今日ここに来てしまった。
「なぜ?」という問いが、静かに自分の中で繰り返される。
来なければよかった、と思った瞬間もあった。けれど、その思いと同時に、「見てみたい」「知りたい」という気持ちも、確かにあったのだと思う。
なっちゃんという人のことも。彼女の放つあの柔らかくて、でも芯のある空気感も。たぶん、彼女は人の心にそっと触れるような何かを持っているのだろう。
あの日、彼女に出会ったときのことを思い出す。
たまたま道に迷っていたはずが、気がつくと不思議と足がその場所へ向かっていて、そして、偶然のように――いや、もしかしたら必然だったのかもしれない――彼女に出会った。
まるで何かに呼ばれるように、導かれるように。
そして、私は彼女にぶつかってしまった。
教えられていた公民館の入口で、事務員に気功のことを尋ねると、「ああ、なっちゃんね」と、旧知の仲のような調子で言われ、二階で集まっていますよ――と、階段のところまで案内してくれた。
階段を上り始めると、すでに上から、まるで保育園のような、にぎやかな女性たちの声が聞こえてきた。笑い声、話し声――それらが重なり合い、何とも言えない活気が空間に満ちている。
そして、扉を開けた瞬間――そこには、別世界が広がっていた。
一枚の扉を隔てて、こちらとあちら――日常と非日常――がくっきりと分かれているような、不思議な空気が、そこには漂っていた。
あれが、気功というものなのだろうか。
私には、まだ信じられなかった。
部屋の隅に立ち尽くしながら、私は、楽しそうに動き回る女性たちを眺めていた。
その姿は、日常という枠から解き放たれた、自由な生命が躍動しているようにも見えた。
人間の集まりに対する、私なりの常識的なイメージが、静かに、しかし確かに音を立てて崩れはじめていた。
耳に届くのは、声、足音、衣擦れ――聞こえてくるすべてが、ごく普通の女性たちのものだと思う。
けれど、その動きには、人間というよりも、もっと根源的な、生き物としての感覚に近いものがあった。
鶏のように羽ばたく動きを繰り返す女性もいれば、オーケストラの指揮者のように両手を大きく振りながら、リズムを刻んでいる女性もいる。
犬のように目を閉じたままぐるぐると回り続ける者もいれば、ゴリラのように前かがみになり、腕をぶらぶらさせながら歩く者もいる。
ある者は、草原を渡る風に揺れる草のように静かに身を揺らし、またある者は、とんびのように大きく羽を広げ、空を舞うようだった。
「まるで古代の祈りの言葉のような響きを口にしながら、神秘的な舞を舞っている女性もいれば、逆に、自由の女神のように右手を高く掲げたまま、じっと静止している女性もいる」
それぞれが、それぞれの世界に没入していた。声をかけても届かなそうだった。いや、そもそもこちらの存在など、初めから意識していないようだった。
自分自身の「内なる何か」と対話しているような、そんな沈み込むような動きだった。
部屋の隅で、私は固まっていた。なるべく音を立てぬよう、そっと息を吸い、そして静かに吐いた。
私は、異世界に紛れ込んだ迷子のようだった。いや、違う。この場にいる彼女たちこそが自然の一部であり、戸惑いながら立ち尽くす私のほうが、「常識」という名の異物なのかもしれない。
そんな錯覚さえ覚えるほど、目の前の光景は現実離れしていた。
「気功って……こういうものなのか?」
心の中でそう呟いても、誰も答えてはくれない。むしろこのままでは、自分もこのぐるぐると渦巻く世界に引き込まれてしまう――そんな危うさがあった。
思い出したのは、なっちゃんの言葉だった。
「天の声が聞こえることがあるのよ」
あのときは、軽く受け流してしまった。けれど、いま目の前に繰り広げられる『儀式』のような光景を前にすると、あれは冗談ではなかったのかもしれない、と思えてくる。
理性や羞恥心といったものは、ここには微塵もなかった。
皆が皆、感情の赴くままに身体を動かし、声を上げ、何かを吐き出していた。
それは、感情のままに身をゆだねた自由な動きだった。けれど、もしかしたら、それこそが「人間らしさ」の、もうひとつの姿なのかもしれない。
社会が与えた仮面をすべて脱ぎ捨て、むき出しの自分に還る――その姿が、いまここにあるのかもしれない。
私は冷静な観察者としてこの場に来たはずだった。
だが、その「観察するはずの私」の中に、明らかな揺らぎが生じていた。
拳をぎゅっと握る。
「まだ、私は外側にいる」
そう自分に言い聞かせた。だが、見続けていれば、いつか引き込まれる――そんな予感があった。
引き寄せられるような、けれど得体の知れない何か。言葉にはできないけれど、確かにそこにある危うさ。
理性の奥底で、警報が鳴り響いていた。
――今すぐ、ここを離れろ。
その声に従い、私はそっと立ち上がった。足音を立てぬよう注意深く歩き、静かに部屋を後にした。
気功が終わり、彼女たちが現実の世界へゆっくりと戻ってきたとき――そのときなら、もう少し冷静に向き合えるかもしれない。
私は堤防の上に腰を下ろし、遠くの海へと顔を向けた。波の音が単調に繰り返され、風が髪をやさしく揺らしていた。
その静けさの中で、少しずつ、心が落ち着いていった。
すると背後から、明るく澄んだ声が届いた。
「すみません。良寛さんですか?」
振り返ると、そこに立っていたのは、子どもっぽさの残る声の、しかし年齢の読めない女性だった。
優しげな笑顔を浮かべ、まっすぐこちらを見ていた。
「はい、私が良寛です。……何かご用ですか?」
「なっちゃんが、探してきてって言ったんです。それで私、探しに来ました」
「なっちゃんが?」
「気功、終わりました。それで、よかったら一緒にお茶でもどうですか、って」
「お茶……なるほど」
「誘ってくれてありがとうございます、じゃあご一緒しますね。……ところで、あなたも気功の仲間なんですか?」
「はい。私は高江洲しずかっていいます。みんなからは『しずか弁護士』って呼ばれてます」
「しずか弁護士……。本当に弁護士なんですか?」
彼女はくすっと笑って、軽く首を横に振った。
「いえいえ。弁護士事務所で働いているだけです。でも、みんなそう呼ぶんです。きっと、よく喋るからでしょうね」
「なるほど。声の印象はおとなしそうだけど、案外おしゃべりなんですね?」
少し意地悪な言い方だったかもしれない。だが、彼女はむしろ楽しげに笑った。
「そうかもしれません。……そうかも、ですね」
その笑顔が、どこか人懐っこくて、まるで長く付き合いのある友人のように感じられた。
彼女はちらりと海の方を見やり、また私に視線を戻した。
「それでは、私の車でご一緒しましょう」
しずかさんがそう言って、軽く手を差し出すように身振りをした。
「遠いのですか?できれば歩いて行きたいのですが……」
「ええ、少し距離があります。歩いたら、一時間くらいかかるかもしれません」
「そうですか……それなら、お言葉に甘えて、車に乗せてください」
私は静かに立ち上がり、もう一度だけ海の方を振り返った。
潮風が、どこか遠くの記憶をやさしく撫でるように吹いていた。
しずかさんの運転する車に揺られて着いた先は、誰もが知ってる、あの有名なハンバーグチェーンのファーストショップだった。
店の入口をくぐると、なっちゃんをはじめ、すでに七人の女性たちがにぎやかに談笑していた。しずかさんと私が加わり、総勢九名――ちょっとした団体客である。まるで親戚の集まりのようだが、血のつながりは一切ない。
叔母さんというにはまだ若すぎ、でも娘と呼ぶには人生をよく知っていそうな、エネルギーに満ちた八人の女性たち。
その圧に気圧されそうになりながら、私はさりげなく店内の隅の席を選んだ。いざというとき、火事でも起きたらすぐに逃げ出せるように、出口の近くに腰を落ち着けた。
「はじめまして。僕は山内良寛と申します。できれば、『りょうかん』と読んでいただけると嬉しいです」
軽いざわめきが起きた。「りょうかん?お坊さんなの?」と、誰かが小声でつぶやく。
その声に応えるように、周囲の視線が自然と私の方へ集まってきた。
少し息を整えてから、私は静かに話を続けた。
「山内門中の名前には、必ず『良』の字が入る決まりがあって、で、たまたま親父が『良寛』って名前をつけたみたいなんだけど……有名なお坊さんの良寛さんを意識して名づけたわけじゃないらしいです」
「ねえ良寛、門中ってなに?」と、恵さんが首をかしげながら聞いてきた。
「門中っていうのは、父方の血筋を同じくする親戚の集まりのことです」
「同じ名字で、共通のご先祖さまから分かれた人たちが集まってできた一族、って言うと、わかりやすいかもしれませんね」
「ふうん……」
「沖縄では、その門中がすごく大事にされてきました。お墓も一緒だし、お盆やシーミー(清明祭)っていう祖先をまつる行事も、門中ごとにみんなでやるし、困ったときには助け合ったりもする。血のつながりだけじゃなくて、暮らしの中でしっかり結びついているのが門中です」
「仕事は、コザで、小学生を対象にした小さな学習塾をやっています」
「勉強を教えるのはもちろんですが、来てくれる子どもたちの多くは、学校の授業についていけなかったり、何らかの事情で教室に通えていなかったりする子が多いんです。ですから、勉強よりもむしろ、まずは心の土台づくりを大切にしています」
私の言葉に、数人の女性たちがゆっくりうなずいた。誰もが、何かを思い出すように遠くを見つめていた。
「へえ、そうなんだ。なんか、ちょっとかっこいいね」
誰かがぽつりとつぶやいた。
その声に、ほかの女性たちが軽く笑い、空気が少し和らいできた。
なっちゃんはストローで小売りをくるくるとかき混ぜながら、ふと何かを思い出したように顔を上げた。
「良寛、今日来てくれてありがとう。ねえ、どうだった?あの気功の世界は」
突然の問いかけに、私はすぐには答えられなかった。言葉を探して口を開こうとするが、うまく形にならない。
あの光景――あの空気。
常識という型ではとても捉えきれない、得体の知れないものが、そこには確かにあった。
けれど、ただ「奇妙だった」と片づけるには、胸の奥に残るものが大きすぎた。
私はコップを手に取り、水をひと口、そっと口に運ぶ。喉を通るその冷たさに、ようやく言葉が浮かんできた。
「正直、まだ戸惑っています。目の前のことを、うまく理解できていない自分がいます。でも……」
「でも、たぶん……今までの自分じゃ考えられないことが、あそこには確かにありました。理屈じゃなくて、もっと深いところで、何かを感じたというか……」
一瞬、言葉を切って、私はゆっくり息を吐いた。
「自分の中の、見ないようにしていた部分――本当は触れちゃいけないと思っていた感情や記憶。そういうものが、急に動き出したような感覚があって……怖かったけど、でも、どこか懐かしかったです」
「ふふ。そうでしょう?」
なっちゃんは嬉しそうに笑った。
「何かを感じたと言うことは、感覚が開かれ始めてるってことよ。閉じてたら、何も感じないんだから」
彼女のその言葉が、不思議と胸に残った。
たしかに――何かを感じたと言うことは、恐れではなく、扉が開く予兆なのかもしれない。
ほんの二時間前、あの公民館の部屋で見た「異世界」の光景と、この和やかなテーブルが、同じ人たちによって繋がれているという不思議。
私はただ、その真ん中で、静かにアイスコーヒーを飲みながら思った。
人は何かになるためだけに集まるのではなく、何かを解き放つために集まることもあるのだ――と。
ふとした静寂の中で、私は口を開いた。
「なっちゃんから聞いているかもしれませんが、僕はほとんど目が見えません。明るさと暗さはわかります。目の前を誰かが横切ったり、壁があることはなんとなく感じ取れます。でも、例えば指を出されて『何本?』と聞かれても、答えることはできません」
その場にいた人たちは、何も言わずに私の言葉を受け止めてくれているようだった。だからこそ、もう少し語ってみようと思った。
「文字を読むことも、景色を見て感動することも――できません。たまに、自分が世界から切り離されているように感じることがあります。見えないことで、何か大事なものを取りこぼしているんじゃないかって……」
空気が、一瞬だけ静まり返った
「ただ、ここに今何人いるか、その人が女性か男性か、子どもか年配か――そのくらいのことは、なんとなく感じ取れます。今ここにいる皆さんの『温度』のようなものも」
私の声は、思った以上に落ち着いていた。驚くほど自然に、胸の内が言葉になって出てきた。
するとどこからともなく、「へぇ〜」「すごいね」と感心したような声が上がり、少しずつ笑いが戻ってきた。
それは、ちょっと不思議で、だけどどこか心地よい、にぎやかで優しい集まりの始まりだった。
すると、なっちゃんが穏やかに口を開いた。
「でも良寛、見えることがすべてじゃないですよ。見えないからこそ、届く場所もある。私たちがこうして集まるのも、たぶん『目』じゃなくて『気』でつながってるんだと思う」
私は、静かにうなずいた。
気功は、ただの健康法ではなかった。心の奥深くに触れ、何かをそっと目覚めさせる――そんな場なのだと、私は少しずつ感じはじめていた。
なっちゃんの周辺には、陽だまりのような笑い声が広がっていた。
気功を終えた仲間たちが、コーヒーやオレンジジュースを手に、それぞれ思い思いの話に花を咲かせている。
そんな中、なっちゃんがそっと私の肩に手を添えて、声をかけてきた。
「ねえ、良寛。来週から、あちこちの拝所をみんなで巡ってみようかって話が出てるの。一緒に行かない?」
その声には、子どもが遠足を楽しみにしているかのような、軽やかな期待がこもっていた。まわりの女性たちも、なっちゃんに続いてにこやかに口をそろえる。
「そうそう、一緒に行こうよ。きっと楽しいよ。たまには、そういうのもいいさ〜」
私は少し驚いたような顔をして尋ねた。
「この気功の仲間で?」
「そう、全員そろうかはわからないけどね。仕事の都合もあるし。でも、できるだけみんなで回ってみたいと思ってるの」
なっちゃんの声に、なにかふんわりとした決意がにじんでいる。
「つまり、拝所巡礼みたいなものだよね?」
「そう、そうなの」
「それって…あの四国巡礼みたいに白い服着て、菅笠かぶって、金剛杖ついて歩いて巡礼する、あれ?」
「まさか、そこまではしないさ〜。車で行って、そこの拝所で何かを感じ取りたい、っていうだけの巡り方だよ」
「なるほど。で、みんなで天の声を聞こうと?」
「そう、そういうこと」
なっちゃんの目が一瞬だけ遠くを見つめた。まるで、その先にすでに拝所の静けさと、風に乗ってくる『声』が見えているかのように。
私はゆっくり頷いた。その頷きの中に、ほんの少しの不安と、それを包むような好奇心が混じっていた。
「拝所って、その土地の記憶が宿っている場所だからね。体で、心で、それを感じられたらと思うんだよ」
なっちゃんの言葉に、まわりの仲間たちが静かに頷いた。いつの間にか、ただの思いつきだった『拝所巡り』が、目に見えない何かを探す旅になりそうな、そんな予感がしていた。
「いいですね、なんだか不思議で、ちょっと楽しそうです」
私の声は、どこかふわりと宙に浮かぶような軽やかさを帯びていた。しかしその瞳の奥には、一瞬だけ、遠くの景色を思い出すような翳りがよぎった。
ここは、地域の人々に親しまれているファーストショップ。壁には地元の子どもたちの絵が飾られ、店の奥には飲み物とフライドポテトを囲んで談笑する女子高生たちの姿があった。
アイスコーヒーの氷がカランと音を立て、ハンバーガーの香ばしい香りが空気をやさしく包んでいる。
テーブルを囲んで座っていたなっちゃんたち気功仲間は、今日も気負わず、わいわいとした雰囲気で語り合っていた。
「でも……そこは山だったり崖だったり、海辺の岩がごつごつしていたりするんでしょう?」
私はふと視線を落としながら続けた。
「うまく歩けるか心配です。みんなに迷惑をかけはしないか、足手まといになりはしないか……そこが、ちょっと気になります」
なっちゃんがにっこりと笑って、ゆっくりと良寛の肩に手を置いた。
「大丈夫だよ、良寛。そんなときは、みんなでなんとかするから」
そう言うなっちゃんの声は、にぎやかな店内のざわめきとは別の、静かで温かな確信に満ちていた。
「それにね、私たちには頼りになる『しずか弁護士』がいるから」
その言葉に、数人が「そうそう」と笑いながらうなずいた。店の奥の窓際でカフェオレを飲んでいたしずかさんが、にこりと微笑みながら顔を上げた。
「みんなの『困った』を解決してくれるのがしずか弁護士。気功のときも、お茶会のときも、ちょっとしたことをするどく察して、スッと動いてくれるの。もう、みんな頼りにしてるのよ」
なっちゃんがそう言うと、他のメンバーからも「ほんとに助かってる」「しずか弁護士いてくれるだけで安心」と口々に声が上がる。
「ね、しずか弁護士、大丈夫だよね?」
周囲の視線が集まる中、しずかさんは軽くストローを回しながら、静かにうなずいた。
「大丈夫。任せてください」
そのひと言に、私の胸の中にあった小さな不安が、少しずつほどけていった。
アイスコーヒーのグラスを手に取りながら、私は、あたたかくてにぎやかなこの場所で、何か新しい扉が静かに開かれる予感を感じていた。
「じゃあ、私も、行ってみようかな」
その言葉に、テーブルを囲むみんなが、ふっと笑顔になった。コーヒーの香りとともに、どこか清らかな空気が店内に流れていった。
拝所を巡る旅は、ただの移動ではない。自分の奥深くに眠る声を、静かに聞きに行く旅でもある――そんな思いが、誰からともなく湧き上がってきた。
そして私もまた、微かに笑った。
しばらくの静寂のあと、智子さんがふと声を上げた。
「ねえ、ムヌシリ、拝所でユタさんたちがお祈りしてるでしょ?あれって、どんなことを言って祈ってるの?」
その言葉に、恵さんも頷く。
「ああ、私も気になってたの。何て言ってるのか、知りたいな」
この順子さんは、このメンバーの中では一番の年長で、六十歳くらいだと思う。拝所のことや沖縄の年中行事にも詳しいらしく、みんなは彼女のことを「ムヌシリ」と読んでいる。
順子さんは、少し間を置いてから、静かに答えた。
「沖縄の祈りの言葉『ウートートー(御願言葉)』はね、神様やご先祖さまに語りかけるように祈る、素朴で心のこもった『ことだま』なの」
「形にとらわれすぎず、感謝・報告・願いの順で、自分の言葉で祈るのが大切とされているのよ」
そう言って、順子さんは、こんなお祈りの例を教えてくれた。
「うーとーとー」
「御嶽の神様、いつも私たちを見守ってくださり、ありがとうございます」
「おかげさまで今日も無事にこの場に立つことができました」
「家族も元気に過ごしております」
「どうか、これからも健康で平穏な日々をお導きください」
「心より感謝申し上げます」
「うーとーとー」
「それから、こんなふうに祈ることもあるわよ」
「うーとーとー」
「御嶽の神々さま、アマミキヨの御心を受け継ぐ聖なる御前にて、ただ今、静かなる祈りを捧げさせていただきます」
「はるばるこの地に導かれ、こうして心清らかに立たせていただけたこと、感謝いたします」
「私は、与儀奈津子という者でございます」
「今、心静かに歩む道を探しております」
「どうか、この身の内にある小さな光を、お導きくださいますように」
「あなたの静けさと清らかさを、胸にいただいて帰ります」
「うーとーとー」
「こんなふうに祈っているのよ。でも、ユタさんたちは沖縄の古い方言で語られることが多いから、たいていの人には聞き取れないと思う。私も、ところどころしか聞き取れないの」
「それとね、『うーとーとー』と言うのはね、尊きものとか、尊いものという意味なの」
そう言って、順子さんは少し微笑んだ。
「でもね、祈りって、言葉の正しさより心が大切なの。だから、自分の言葉で祈っていいと思う。声に出してもいいし、心の中で唱えてもいい。語りかけるように祈ることが何より大事。お願いごとよりも、まず感謝と報告を伝えること。手を合わせて、静かに一礼してから祈るのよ」
「ねえ、なっちゃん。どうして人は祈るんだろうね?」
私がそう尋ねると、なっちゃんはグラスにそっと手を添えたまま、少し考えるように視線を落とした。
そして、静かに語りはじめた。
「きっと昔の人たちはね、雷が鳴ったり、海が荒れたり、風が唸るだけでも、どうしていいかわからずに震えていたんだと思うの」
「でも、そのおそろしさの奥に、何か大きくて尊いものがあるって、どこかで感じ取っていたんじゃないかな」
「それがやがて『神』という存在になって、目に見えない力に名前をつけて、かたちを与えて、手を合わせるようになった」
「祈るという行為は、自分の小ささを受け入れることでもあり、同時に――この世界と、誰かと、ちゃんとつながっているという確信を得ることだったのかもしれないね」
「私はね、祈りって『つながり』そのものだと思うの。神さまやご先祖さまだけじゃなくて、自分自身とも、誰かの魂とも、まだ見ぬ未来の人とも」
「祈るとき、人は自分の中にある『いのちの縁』に耳を澄ませてるんだよ」
「うれしいときも、悲しいときも、誰かのために心を向けるとき――その祈りは、目には見えなくても、世界のどこかをほんの少しだけ優しくしている」
「だからこそ、祈りは静かだけれど、芯の通った強さをもってるんだと思う」
「祈りってね、お願いごとじゃなくてもいいんだよ。『ありがとう』でも、『ごめんなさい』でも、『見守っててね』でもいい」
「言葉にならない思いを、そのまま差し出すこと――それが、祈りになるの」
「人はずっと、そうして天にむかって心を放ってきた。それは、たぶん生きることの本質とどこかで重なってる」
「祈りは『願い』じゃなく、『道』なんだよね――」
そして、なっちゃんは小さくうなずいて、最後にこう言った。
「私は、そう思うのよ」
なっちゃんがそう言ったとき、不思議と胸の奥が、静かに波立つのを感じた。
まるで祈りという言葉が、自分の中の何か深い場所に触れたような――そんな感覚だった。
祈りって、ほんとうは――自分のいのちと静かに手をつなぐことなのかもしれない。
なっちゃんの言葉が、ゆっくりと心の奥に染みこんでくる。
そもそも、私がこうしてなっちゃんと出会い、気功の輪に加わったこと自体、どこか現実感のない出来事だった。
気や波動、祈りや見えない力――それらはずっと、私にとっては縁遠く、むしろ胡散臭いとさえ思っていた。正直に言えば、心のどこかで拒絶していたし、距離を置こうとしていた。
けれど、なっちゃんの語りやその笑顔、そして気功の場で出会った人たちの、あの静かな優しさに触れているうちに、いつの間にか、心のどこかが揺れはじめていた。
べつに、信じているわけじゃない。
でも、以前のように、簡単に否定することもできなくなってきた。
何かが、確かに、自分の中で変わりつつある。
見えない世界に惹かれていく――そんな自分が、ここにいる。
いったい、私の中で、何が起こっているのだろう。
三.神々への挨拶
「しずか弁護士、ちょっとお願いしてもいい?」
いつものように声をかけられて、私は微笑んだ。頼られることはなんだか嬉しい。
私は高江洲しずか。気功の仲間たちからは「しずか弁護士」と呼ばれている。仕事柄もあるのだろうけれど、いつの間にか「しっかり者」という評判がつき、それがそのまま私という存在になっていった。
困ったことがあると、みんな自然と私に相談してくる。それが嫌なわけではない。むしろ、頼ってもらえるのは嬉しい。
誰かの力になれて、問題が少しでも解決し、笑顔を見せてもらえたとき――私の心にも、ふっとあたたかいものが広がる。
週に一度の気功は、私にとってかけがえのない時間だ。日々の喧騒や小さなざわめきをそっと脇に置いて、呼吸とともに自分の内側へと還っていく。体も心もすうっとほどけていき、まるで自分自身を空へとゆっくり手放していくような、やわらかな解放のひととき――その静けさが、今の私を支えてくれている気がする。
その日も、気功を終えたあとは、仲間たちと連れ立って、いつものファーストショップへ向かった。私たちにとって、ここはもうひとつの道場のような場所だった。おしゃべりという名の気の交流が、毎回のように繰り広げられる。
午後の陽射しがガラス越しに差し込み、店内にはやわらかな明るさが満ちていた。奥のテーブルには、気功の仲間たちが自然と集まり、お気に入りの飲み物を手に、思い思いの話に花を咲かせている。
年齢も職業も性格も、みんなバラバラ。でも、不思議と気が合う。ここでは誰もが、地位や肩書きを脱ぎ捨てて、ただの「一人の人間」として向き合っている。笑い合い、頷き合い、ときには真剣な顔で耳を傾ける。そんな時間を重ねるうちに、私たちの間には少しずつ、静かな信頼が育ってきた。
気功を通じてつながったこのご縁が、どれほど私の毎日を支えてくれているか。たぶん、誰にも言ったことはないけれど……私はこの仲間たちを、心の底から大切に思っている。――いや、それ以上に、彼らは私にとって欠かせない存在になっている。
入口のドアがそっと開いて、ひとりの男性が入ってきた。
良寛さんだった。
その姿に気づいた望さんが、ぱっと顔を輝かせ、「良寛、良寛、こっちこっちー!」と、店内じゅうに響き渡るような大きな声を上げた。
一瞬、店内が静まり返る。お客さんたちが一斉にこちらを振り向いた。
私は思わず気恥ずかしくなり、椅子の背にもたれていた体をちぢこませた。望さんの無邪気さは嫌いじゃない。でも、こうして注目の的になるのは、やっぱりちょっと苦手だ。
そんな私の気持ちとは裏腹に、良寛さんはいつもの穏やかな様子で、こちらに向かって小さく手を上げた後、カウンターへと向かい、何かを店員さんに注文してから、ゆっくりと、けれども迷いのない足取りで、私たちのテーブルへとやって来た。
テーブルにぶつかることもなく、歩みに一切のためらいはない。目が不自由なはずなのに、その動きはまるで、すべてを見通しているかのように自然だった。
私はあわてて席を詰め、彼が私の隣に座れるように空間を作った。
「みなさん、遅れてしまってごめんなさい」
良寛さんは、椅子に腰を下ろすと、穏やかな声でそう言った。ほんの少しだけ息が弾んでいるのは、きっと急いで来てくれた性なのだろう。
「何かご注文されましたか?」と私が尋ねると、
「はい。先ほど、アイスコーヒーをお願いしておきました」
その返事は、落ち着いた口調でありながら、どこか人を安心させる温かさを含んでいた。丁寧な言葉の端々からにじみ出るやさしさが、胸の奥にふわりと広がってくる。
にぎやかな午後の店内――
談笑の声とカップの音が混じるその空間に、良寛さんの存在は、静かに、けれども確かに溶け込んでいた。
そのときだった。
なっちゃんが手をパンパンと二度叩き、「みんな、ちょっと聞いて」と声をかけた。
その瞬間、ざわついていた空気が一瞬で静まり返り、皆が一斉に彼女に視線を向けた。
「みんなそろったと思うから、そろそろまじめな話、始めようね」
いつもはおっとりしているなっちゃんの、こうした切り替えの早さには、毎回のように少し驚かされる。
「拝所巡りのことなんだけどさ、まずは地元・沖縄市にある拝所を何カ所か回ってみようと思ってるの。これから、いろんな拝所を巡りながら、琉球の神々にご挨拶して
いく予定なんだけど、でもその前に、まずは地元の神さまたちにきちんと名乗っておきたいんだよね。やっぱり、最初のご挨拶って大事だと思うし、こっちの心の準備にもなるから」
その瞳はまっすぐで、言葉を選びつつも、熱い思いがあふれていた。自分のルーツを大切にしたいという気持ちが、ひしひしと伝わってくる。
良寛さんは、その言葉を静かに受け止めるようにうなずいている。
他の仲間たちも、「そうそう、それがいいよね」と、口々にうなずく。テーブルの上に、共感のあたたかな空気がふわりと広がっていく。
そのとき、ふくよかな体を揺らしながら由美子さんが声を上げた。
「私ね、最近、見たこともない男の人に『早く来なさい』って言われる夢を見るのよ。不思議なのよ、ほんとに。夢の中の景色がね、どうも八重島公園のような気がするの」
「その男って誰なの?」
なっちゃんが、身を乗り出して尋ねた。
「たぶんね、昔の人よ。着物を着てて、カンプウしていて……すごく立派な感じ。身なりからして、きっと偉い人だったんだと思う」
由美子さんの言葉に、なっちゃんは顎に手を添えて、しばし考え込んだ。やがて静かに顔を上げ、ゆっくりと言葉を紡ぎはじめた。
「越来城にいた按司……その人物か、あるいはその人に関わりのある誰かかもしれないね。あのあたりは、歴史の深い土地だから」
その瞬間、テーブルの一角からぱっと声が上がった。
「へー、おもしろそう。おにぎりも持っていこうよ。ポーク卵?ジューシー、やっぱりアンダンスーもいいな!」
調子に乗ってしゃべりまくるのは、智子さんだった。
すると、なっちゃんがやれやれと肩をすくめて言った。
「ガジャンユンター、うるさい。遠足じゃないんだから」
言われた智子さんは、ぷくっと頬をふくらませて、口をへの字に曲げた。
「なによ、ちょっと想像しただけじゃん……」
そう言いつつも、肩をすくめて小さく笑い、すぐに場の空気に戻っていった。
それぞれが、それぞれの思いを胸に抱きながらも、笑顔の中で自然と一つになっていく。
笑いが一段落すると、場の空気がふっと落ち着き、自然とみんなの視線が、先ほどから女性たちのやりとりに口を挟まず黙っていた良寛さんへと向けられた。
「良寛はどう思う?」
私がそう尋ねると、良寛さんは少しだけ戸惑ったように顔を伏せ、しばらく言葉を探してから、静かに語り始めた。
「とても良いと思う。特に僕なんか、拝所とか御嶽って言われても、正直あまりよく分からない。そんな場所に何を求めて、何をしに行くのかも、いまひとつぴんとこない。でも、だからこそ、有名な拝所に行く前に、まずは地元の神さまにご挨拶する――なっちゃんのその考えには、僕も賛成です」
良寛さんは、うなずきながらさらに話を続けた。
「ちょっと話がそれるけど……琉球だった頃のこと。越来にお城があった時代の話なんだけどね」
空調の微かな音に紛れながらも、その声はしっかりと私たちの耳に届いた。
「越来城は十五世紀の後半、今から五百年以上も前に築かれたとされていて、中城按司の支城のひとつだったらしい。でも、それより前から、越来という土地は霊的にとても重要な場所だったとも言われてる」
「尚泰久王がまだ若い頃、『越来王子』と呼ばれて、この城に住んでいたこともある」
一呼吸おいて、良寛さんは静かに言葉を継いだ。
「当時、この村には『世利久』っていうノロ、つまり神女がいてね、そのノロと王子には深い縁があって、二人の間に子どもが生まれたという伝承がある。子の誕生を祝って、白椿とミカンの木が植えられたという話も残ってる。白椿なんて、この辺ではめったに見かけないから、今もその木が、伝説の証のように語り継がれているらしいよ」
「だからね……もしかしたら、アグーネーネーは、その子どもの末裔なのかもしれない。血の中に、この土地の記憶が、いまも静かに息づいているのかもしれないよ」
「なっちゃん、天は何て言ってるの?天の声とか、聞こえない?」
ひとみさんが冗談めかして尋ねると、
「聞こえるわけないでしょ、そんな都合よく」
なっちゃんがすかさず返し、みんながどっと笑い声を上げた。
だがその笑いが落ち着くと、私はふと真顔に戻り、静かに言った。
「戦前まで、沖縄市は『越来村』って呼ばれていたのよね。そう考えると、あの土地を治めていた按司が、胡屋御嶽や他の聖地で祈りを捧げていたとしても不思議じゃない。きっと村の人々の健康や平和を願っていたんだと思う……そう思うと、拝所を巡るのも、自然なことに思えてくるわ」
その言葉にうなずくように、順子さんが口を開いた。
「八重島公園にはね、いくつかの拝所があってさ……」
しかし、その続きをなっちゃんが手をひらひらと上げて止めた。
「ちょっと待って、むぬしり。その話は、拝所に着いてからゆっくり聞かせて」
笑いながらそう言ってから、みんなを見渡して、改めて提案するように言った。
「八重島公園の拝所だけじゃなくてさ、越来城に関係のある拝所も、一緒に回ってみない?せっかくだし、ちょっと範囲を広げてみたいなって思って」
「それ、いいかも!」
「じゃあ、しずか弁護士のほうで調べて、どの順番で回るか計画を立ててくれる?」
「うん、任せて。調べてみるね」
「なら、来週の気功のあと、しずか弁護士のスケジュールに合わせて拝所巡りをするってことで決まりね!」
「わー、楽しそう!」
あちこちから歓声があがり、場の空気が一気に華やいだ。そのにぎやかさに紛れるように、由美子さんが冗談めかして言った。
「では、道案内はしずか弁護士。拝所の解説は、むぬしりということで宜しくお願いします」
「なっちゃんには『天の声』の伝達も、よろしくね」
「だから、それは都合良く聞こえたりしないってば!」
なっちゃんが口をとがらせると、また笑いがこぼれた。
少しして、私は小さく手を挙げて尋ねた。
「なっちゃん、スケジュール表とか地図とか、簡単な解説とか……そういうの、あったほうがいい?必要なら私、事前に下見しておこうかと思ってるんだけど」
なっちゃんは優しく微笑み、ほんの少しだけ首を横に振った。
「ううん、しずか弁護士。そういう準備は、いらない」
そして、静かに、けれど確信を込めて語り始めた。
「地図や説明書きって、たしかに安心材料にはなるけどね……でも、ああいうものって、見えないものに心を開こうとするとき、かえって感覚を鈍らせちゃうの」
「何も知らず、何も決めず、ただその場に立つ。そうすると、不思議と魂の感受性がひらいてくるの。風のささやき、大地の鼓動、神さまの気配……そういうものが、ふっと胸の奥に届くの」
「だから、下見も準備も必要ないの。もし迷子になったとしても、なにか想定外のことが起きたとしても、それもすべて天の導き。偶然じゃなくて、ちゃんと意味があるの」
「私たちは、ただ心を澄ませて、その流れに身をゆだねていけばいいだけ」
その言葉を聞いて、胸の奥がふわりとあたたかくなった。地図や予定表がなくても、なっちゃんの言葉が羅針盤のように、静かに心の奥を指し示していた。
私は静かに息を吐きながら、そっと頷いた。理屈では割り切れない世界が、たしかにここにはあるのだと、最近になってようやく感じられるようになっていた。
まわりの仲間たちも、それぞれの胸の奥に、淡い光のような期待を灯していた。不安はある。けれど、それ以上に――「見えないものに身をゆだねることの豊かさ」を、もう知ってしまった彼女たちは、確かに静かな決意を抱いていた。
風の音は聞こえなかったが、窓の向こうで街路樹の葉が、そっと揺れていた。
そして、誰からともなく、私たちはゆっくりと頷き合った。
――これが、私たちの「巡礼」の始まりだった。
翌週のその日、私たちは気功のあと、いよいよ拝所巡りへと向かうことになった。朝からそわそわと落ち着かない気持ちでいた私だったが、不思議と胸の奥は静かに波立っていた――湖面の奥底で、何かがゆっくりと動き出すような感覚だった。
良寛さんは気功には参加できず、午後からの合流となった。集合場所は、越来城跡の近くにあるスーパーの駐車場。集まったのは私たち気功の仲間十四人。
そのとき、ふと背後から声がかかった。
「しずか弁護士、今日はどうぞよろしくお願いします」
穏やかな声だった。振り向くと、良寛さんがゆっくりとこちらへ歩いてくる。私は思わず笑みをこぼした。
「はい、大丈夫ですよ。私のそばを離れないようにしてくださいね」
軽く冗談めかして言うと、彼も笑った。
「了解。恋人みたいに寄り添って移動することにします」
――ちょっと、何それ。
一瞬、反射的に眉をひそめてしまった私の反応に、彼はすぐに気づいたようで、照れくさそうに苦笑した。
「ごめんなさい、冗談です。できる限り自分で歩きますけど、何か危ないものがあったら教えてもらえると助かります」
その言葉には、真摯な響きがあった。私は少し反省しながら、うなずいた。
「わかりました。段差とか柱とか、気をつけたほうがいい場所があれば、その都度お伝えしますね」
目の見えない彼が、この場所に自分の足で来てくれたこと――その勇気に、私は自然と頭が下がる思いがした。
そこへ、なっちゃんが横から声を上げた。
「で、今日はどこから回るの?むぬしーと相談して計画立てたんでしょう?」
「ええ。まずは西森公園の拝所からです。それから當原ガー、ワクガー、ヒジュルガーといった井戸を巡って、安慶田御嶽へ。最後に八重島公園に移動して、園内の拝所を訪ねる予定です」
「車はこのままスーパーの駐車場に置かせてもらって、ここからはみんなで歩いて移動しましょう」
「じゃあ、とりあえず行きましょうか。しずか弁護士、お願いします」
「了解。みなさん、気をつけてね」
そうして、なっちゃんと順子さんを先頭に、私たちはざわつきながらも一歩ずつ歩き出した。
拝所の空気とはどんなものなのだろう。ちゃんと感じ取れるだろうか――それぞれの胸の内には、期待と不安が入り混じっていた。それは私も同じだった。なぜだか説明はできないけれど、今日という日が、何かの始まりになる――そんな予感が、胸の奥にひそやかに芽生えていたのだった。
最初の拝所がある西森公園は、街の喧騒から少し離れた、静かな住宅街の一角にあった。
ゆるやかな坂を上っていくと、小高い丘のふもとに広がるその場所には、大きなガジュマルの木が枝を広げ、やさしい木陰をつくっていた。風に揺れる葉の音が、まるで遠い記憶を呼び覚ますように、私たちをそっと包み込んでいた。
公園の奥、木々に囲まれた小さな祠の前で、私たちは静かに足を止めた。
「ここが、最初の拝所です」
順子さんがそう言ったとき、私はそっとまわりの様子に目をやった。
空を仰いで、ゆっくりと目を閉じる人。石碑にそっと指先をあて、その冷たさを確かめるようにしている人。祠の前に腰を下ろし、語りかけるようにじっと見つめている人もいた。それぞれが、それぞれのかたちで、この場所と向き合おうとしていて、その姿は、なんとも美しく、胸を打つものがある。
けれど、その中でひとり、なっちゃんだけは、どこか醒めたような顔をしてあたりを見渡していた。興味がないわけではないのだろう。けれど、どこか他人事のような空気をまとっていた。
良寛さんは、私の隣で静かに立っている。誰にも気づかれぬよう、場の気配に耳を澄ませているようだった。
「ここ、すごく静かですね……」
良寛さんがぽつりとつぶやいた。隣にいた私は、ゆっくりとうなずいた。
「ええ。戦前からずっと、この場所は地域の人たちに大切にされてきたらしいです。ここで生まれた人は、何かあると、必ずこの拝所に来るって聞いたことがあります」
そんな静けさの中で、ふいに、なっちゃんが語りはじめた。
天を仰いでいた人々や、小声で語り合っていた人たちが、いつしか彼女のまわりに自然と集まってきた。風が一瞬止み、空気がぴんと張りつめる。
「本来この場所はね、ガジュマルの御神木たちに守られた、聖なる結界の内にあったはずなの。人の営みから切り離された、神だけが住まう世界。そこに足を踏み入れることが許されたのは、ほんのわずか……神に選ばれたカミンチュたちだけ。彼らはこの場で神と語らい、人々の願いや想いを、天へ届けていたのだと思うの」
その言葉のひとつひとつが、まるで古の記憶をそっと呼び覚ますかのように、静かに私の胸に染みわたっていった。
「けれどね……戦争の炎、そしてその後の開発という名のもとで、御神木たちはなぎ倒され、大地の息吹は浅くなっていった。この神聖な場のすぐそばまで、人の暮らしの気配が押し寄せてきたの。私は感じるの。かつてここを包んでいた神の氣が、今では細く、かすかになってしまっていることを――」
なっちゃんはそう言って、遠くを見るように目を閉じた。
「たとえ目には見えなくても、この土地には神の記憶が残されている。だからこそ私たちは、心の耳を澄ませて、その声に気づこうとしなければならないのよ」
次いで、順子さんが静かに語りはじめた。
「沖縄にはね、大きなものから小さなものまで数えれば、拝所の数は千を超えるとも言われているのよ」
「昔の人たちはね、たとえ生活がどんなに苦しくても、うれしいことがあれば神さまに感謝を伝えに、悲しいことがあれば慰めを求めに、家族に病人が出れば、こうした村の拝所に足を運んで、病気の回復を願ったのよ」
その言葉に、祈りとともに生きた人々の静かな暮らしが、そっとよみがえってくる。
すると良寛さんが、空を仰いだまま、ぽつりと語り出した。
「琉球王朝が第一尚氏から第二尚氏に交代した話……聞いたこと、ありますか?」
その問いかけに、場の空気がぴたりと静まり返った。
「尚円王が第二王朝を興したとき、第一尚氏の血を引く者たちは徹底的に処刑されました」
淡々と語る声には、冷静さの中に、どこか哀しみがにじんでいた。
「越来間切を治めていた一族も同じ運命をたどり、男たちは皆捕らえられ、処刑されました。唯一生き延びたのは、按司の妻・百度踏揚とその子だけで、彼らはなんとか島尻に逃げ延びたと言われています」
私は、苔むした祠の奥に目をやった。そこには、何百年もの記憶が、ひっそりと息をひそめている。この拝所には、あの時代に散った命の無念や、遺された者たちの祈りが、今もなお沁みついているのかもしれない。
ふと吹き抜けた風が、どこか懐かしく、誰かのささやきを運んできた。私は目を閉じ、胸の奥で、遠い記憶にそっと耳を澄ませた。
誰ひとり言葉を発しなかったが、私たちは皆、確かにそこにある「何か」を感じ取っていた。
そこから私たちは、當原ガーへと向かった。古井戸が残るこの場所は、かつて人々の生活用水として大切にされていたという。井戸の周囲には小さな石祠があり、今も誰かが時折線香を手向けているようだった。
「これは『カー』っていうんだよ」
順子さんが静かに説明する。沖縄の言葉で井戸のことを「カー」と呼ぶのだと。
私はそっと、その石の縁に手を置いた。手のひらに、ひんやりとした感触が伝わってくる。
どれほど多くの人々が、ここから水を汲み、暮らしを紡いできたのだろう。母たちは子どもを育てる日々の中で、水に手を浸しながら、空を見上げたこともあったかもしれない。
「ワクガー」「ヒジュルガー」……命を支えてきた井戸をひとつずつ巡るうちに、私たちの足取りも次第に静かになっていった。最初は賑やかだった笑い声も、いつしか囁き声に変わり、耳に届くのは風と蝉の声、そして鳥のさえずりだけとなった。
やがて、私たちは静かに安慶田御嶽へと足を踏み入れた。
御嶽――それは、かつて神女たちが祈りを捧げていた、聖なる森。人の手が届かぬまま、ただ静かに時を重ねてきたこの場所には、今もなお見えない何かが息づいている。
深く茂る木々が頭上を覆い、陽の光は地面にほとんど届かない。空さえ見えない緑の天蓋の下、ふかふかの落ち葉が私たちの足音を吸い込んでいく。誰もが自然と口を閉ざしていた。あるいは、この空間では、言葉そのものが意味を持たないのだと感じていたのかもしれない。
そのとき、なっちゃんがそっと一歩、前へ出た。彼女は目を閉じ、両手を胸の前に重ねると、ゆっくりと息を吸い込み、そして静かに吐き始めた。やがてその手がふわりとほどけるように前へと伸びていく。
両腕を肩の高さまで持ち上げ、ゆっくりと天を仰ぐように動かす。そして手のひらを天地に向け、空の氣をすくい取るようにして頭上で交差させ、それを胸の前へと静かに降ろしていく――天の氣を心の奥に受け入れるかのように。
「大地の氣を足裏から吸い上げて、天の氣とつなげて……胸の奥に、光を通していくの」
なっちゃんの声は風に溶けるように淡く、自然と私たちも同じ動きをまねるようにして、気功の型に入っていった。
次に、両腕をそっと開いて抱えるような動きで氣を胸の前に集める。そしてゆっくりと沈むように腰を落とし、手を下腹へと降ろしていく。丹田に氣を収めるように。
深く、静かに呼吸を繰り返す。吸うときには天の氣を、吐くときには大地の氣を。やがてその流れが胸の真ん中で交わるのを、ただ感じる。
不思議なことに、いつの間にか森のざわめきや鳥の声さえも、私たちの動きと呼吸に同調しているように思えた。祈りと呼吸がひとつになり、森そのものと一体になっていくようだった。
そのとき私ははっきりと感じた。この御嶽という聖域は、ただ訪れるだけの場所ではない。響き合う場所なのだと。過去の祈りも、今の私たちの想いも、静かに大地にしみ込んでいく――そんな確かな感覚があった。
誰もが、自らの中の静けさと向き合いながら、祈り、氣を整えていた。
最後に、私たちは八重島公園へと足を運んだ。
住宅街の中を歩いていると、良寛さんが声を落として話し始めた。
「このあたり……戦後すぐの頃、『特殊慰安施設』っていうのが作られてた場所なんです」
私たちは一瞬、足を止めた。日差しは穏やかだったが、その言葉には重みがあった。
「戦後の混乱のなか、沖縄に駐留していたアメリカ兵による婦女暴行事件が相次いで起きて、当時の行政は頭を抱えていました。そこで一般市民への被害を減らすという名目で、米兵専用の遊廓……いわゆる『特殊慰安施設協会(RAA)』のような仕組みを沖縄にも導入したのです。それが、この八重島だったんです」
良寛さんの声は、どこか痛みを含んでいた。
「その施設では、女性たちが公の管理下で性的サービスを提供させられました。名目は保護のためでしたが、実際には貧困や孤児、戦争未亡人など、社会的に弱い立場の女性たちがその犠牲になったのです。生活のために身を売らざるを得なかった人もいれば、親に売られた人もいた。中には、自ら進んでこうした場所で働くふりをし、心を殺して日々を送るしかなかった人たちもいる。そして、彼女たちはその全てを語ることも、過去を振り返ることも許されなかった。沈黙を強いられ、声を上げることすらできなかったんです」
私たちはその場に立ち尽くし、言葉を失っていた。
「この場所には、そうした歴史の痕跡が、土地の奥深くにしみ込んでいるんです。それは、ただの出来事の記録ではなく、この土地に生きた人々の痛みや苦しみが、時を越えて今もなお響き続けているのです」
良寛さんの口調は穏やかだったが、その一言は、私の胸の奥深くまで静かに染み入ってきた。
私はそっとまわりに目を向けた。今は子どもたちの声が響く、のどかな公園が広がっている。けれども、この土の下には、言葉にならなかった叫びや、流された涙が、いまも静かに染み込んでいるのかもしれない。
良寛さんの言葉を胸に、私たちはしばらく無言で歩き続けた。足の裏に伝わる土の感触が、ほんの少し違って感じられた。
やがて、公園の入り口が見えてきた。午後のやわらかな光が木立の間から差し込み、木漏れ日が揺れる地面に、静かな陰影を描いている。
私たちは園内の奥、しんと静まり返った一角へと導かれていった。そこには、目立たぬように、ひっそりと石を積んだ素朴な祠が佇んでいた。祠の前には、燃え残った線香の灰がそっと横たわり、誰かが今もこの場所に手を合わせ、心を寄せていることを物語っていた。
なっちゃんは祠の前に立つと、足を止め、しばらく耳を澄ませるように目を閉じた。風が木々のあいだから抜け、葉を揺らす音が、どこか遠い昔の声のようにも聞こえてくる。
「ここ、すごいね」
ぽつりとつぶやいたなっちゃんは、胸の前で両手をそっと重ね、静かに語りかけるように言った。
「この場所……たぶんね、見えない人たちが今もここにいる。祈ったり、見守ったりしてる。そういうエネルギーって、ちゃんと残るの。空気に。土に。風に。私たちの皮ふの奥にも、ちゃんと触れてくる」
その声は、祠に向けたものでもあり、同時にここにいる私たちみんなの心へと向けられているようだった。
「ここはね、『記憶の泉』……。この土地が覚えている、たくさんの涙や願いが、静かに流れてる。耳じゃ聞こえないけど、心で感じられる。ちゃんと、今も生きてるの」
そう言って、なっちゃんは地面に片膝をつき、祠の石の前に手をかざした。そこに宿る何かと、そっと語り合っているかのように。
「祈りってね、お願いごとじゃないの。ただ、『ありがとう』とか『ここにいます』って伝えるだけでいいの。そうすれば、見えない存在たちもきっと、『ここにいていいんだよ』って答えてくれるから」
誰もすぐには言葉を返さなかった。ただ、その場の空気がほんの少し、温かくやわらかくなったように感じられた。
すると、順子さんが静かに口を開いた。
「この拝所は、琉球王国時代からあったのよ。もともとは八重島という集落だった頃から続くもので、戦火をかろうじて免れ、今もこうして残っていてね……」
祠の背後には、大きなガジュマルの木が枝を広げていた。ねじれた幹から垂れ下がる気根は、まるで天と地を結ぶ神聖な橋のようだった。祠のまわりだけは、どこか空気が違っていた。すうっと冷たく、それでいて不思議とやさしかった。
「この祠の近くには、『天帯子御世 八重島金満大主 中が世酉のみふし』と刻まれた石碑もあるの。金満大主――カニマンウフヌシって呼ばれていた神様で、鍛冶の神を祀っていたのね。金満って、沖縄の言葉で鍛冶屋のこと。きっと、ここはかつて、鍛冶の技を支えた人々の信仰の場でもあったんだと思う」
順子さんは公園の奥を指差し、さらに続けた。
「高台のほうには『インジングシク』って呼ばれるグスクの跡もあるの。頂上には小さな拝所があったそうよ。今では展望台になってるけど、昔はあそこで、神さまが降りてくるのを待っていたのかもしれないわね」
私は、そっと祠の前に手を合わせた。気づけば、仲間たちもそれぞれの仕方で祈りを捧げていた。
拝所というのは、目には見えないけれど、土地の記憶そのものなのだ。誰かがここで祈り、願い、そして時には泣いた。その想いが幾重にも折り重なり、空気の中に染み込んでいるのだろう。
「なっちゃん、今日はここまでにしましょうか」
私がそう告げると、どこか安堵したような、それでいて名残惜しさも混じった静かな空気が、ゆっくりと場を包んだ。風がそっと頬をなで、木の葉がやさしく揺れている。
そのとき、なっちゃんがふいに由美子さんのほうを見て、にこりと笑った。
「ところで、アグーネーネー……。今日、何か夢とつながるようなものに出会えた?」
「夢に出てきた方とは何かお話しすることができたの?」
一瞬、ためらうようにしてから、由美子さんは小さく息をついた。
「よく分からないんだけどね。さっきの拝所に立ったとき、なぜだか涙が止まらなくなって……鼻水まで出てきて、ハンカチがびしょびしょになっちゃったの。どうして泣いてるのか、自分でも分からなくて……これって、何かと繋がった証なのかな?」
彼女の声はかすかに震えていた。自分でも説明のつかない感情に、戸惑っているようだった。
なっちゃんは、その様子をじっと見守り、やわらかく頷いた。
「うん、それはきっと……魂の記憶が反応したんだと思う」
「わたしたちの身体は、『今ここにいる自分』だけでできてるわけじゃないんだよ。心の奥深くには、ずっと昔の、まだ言葉にならない感覚とか、会ったこともない誰かの想いとかが眠ってる。場所のエネルギーに触れたとき、それがふっと目を覚ますことがあるの」
由美子さんはじっと、なっちゃんを見つめていた。その目には、まだ涙の余韻が残っている。
「今は何も分からなくてもいいの。あとから、ふとしたときに気づくのよ。――あのときの涙は、こういうことだったんだ、って。だからね、その涙は、すごく大切な贈りものなんだよ」
なっちゃんの声は、まるで深い井戸の底から静かに響いてくるようだった。由美子さんはそっと目を閉じ、濡れたハンカチを手のひらで包むように握りしめた。
「ありがとう……なっちゃん。ちょっと、心が軽くなった」
彼女の頬を、風がやさしく撫でていった。どこか遠くから、子どもたちの笑い声が聞こえてくる。
気功の仲間たちはそれぞれの歩調で、駐車場へと歩き出した。その背中には、どこか軽やかさと、静かな余韻が漂っていた。
私もまた、胸の奥に温かなものを抱きながら、そっとその列の中に加わっていった。
四.始まりの祈り
七枚目の札は、園比屋武御嶽。
すずかさんが手作りした「拝所カルタ」を、トランプのようにシャッフルしながら、一枚ずつめくっていった。七枚目に現れたのは、首里城のすぐそば、那覇のど真ん中にひっそりと残る古い御嶽の名前だった。
あのにぎやかな観光地のすぐ近くに、そんな静かな拝所があったなんて――正直、それまで気にしたこともなかった。思わず「本当に行くの?」と問いかけたくなるような、現実味の薄い場所。でも、だからこそ気になった。
日々の暮らしの中で、すっかり素通りしてしまうような場所。けれど、そこにはきっと、見えないけれど大切な何かが眠っているのかもしれない。札を手にしたまま、私はそっと息を吸い込んだ。どこかで、遠い昔の声がふっと届いたような……。
私の名前は、我謝智子。気功仲間からは「ガジャンユンター」と呼ばれている。おしゃべりで声が大きくて、いつもじっとしていられない。そんな性格だからか、「我謝ユンター」が、いつの間にか「ガジャンユンター」に変わっていた。
よりによって、そんな私がじゃんけんに勝ってしまい、みんなの注目を一身に浴びながら札を引くことになった。文句は言えない。
でも内心では、森の奥の静かな拝所とか、海が見える開けた場所が出てくるのを、少しだけ期待していた自分がいたのだ。
「うーん……ここかあ」
思わず、ため息まじりに声が漏れる。
那覇のど真ん中。歴史はあっても、自然はあまり感じられない場所。景色も、静けさとはちょっと縁遠い。
引いたのは自分だから仕方ないけれど、やっぱりちょっぴり悔しい。もう一回だけ、引き直せたら……そんな考えが頭をよぎったけれど、もちろん口には出さなかった。
みんなが「ガジャンユンター、なかなか渋いとこ引いたねえ」と面白がってくれているのが、せめてもの救いだった。
「一番うるさいガジャンユンターにぴったりな場所じゃない?」
そんなふうに冷やかしてきたのは、恵さんだった。つんと鼻先を上げたような表情で私をからかう姿は、年下の妹みたいだけど、彼女は私と同じ三十九歳。そして、気功仲間では私たち二人が最年少でもある。
恵さんは、よく私のことを「うるさい」「おしゃべり」と評して憚らないけれど、私に言わせれば、彼女の方がずっとおしゃべりだ。口を開けばマシンガンのように言葉が飛び出して、しかもそれが的を射ているから、いつのまにかみんな聞き入ってしまうのだ。
しかもこの恵さん、四人の子どもを育てながら、いつも明るく、メイクも服装もぬかりない。気功仲間の中では群を抜いての美人で、しばしば「ご主人とまだそんなにラブラブなの?」なんて冷やかされている。そんな彼女には、いつしか「チュラママ」という愛称が定着していた。
ちゅら(美しい)ママ。誰が呼び始めたのかは覚えていないけれど、その名にふさわしい華やかさと包容力を持った人だと、私は思っている。
それでも、からかわれるとやっぱりちょっと悔しい。私はふくれっ面をして、わざとそっぽを向いた。
その日、朝から空は雲に覆われていた。灰色の雲がどんよりと垂れこめていて、今にも雨が降り出しそうな気配だ。風はないけれど、空気が少し重たい。
もしかしたら、雨になるかもしれない。
そんな空模様の下、私たちは二台の車に分乗して首里へと向かった。
私が運転席に座り、助手席には順子さん。後部座席には、由美子さん、恵さん、そしてひとみさんの三人がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。
けしてスマートとは言いがたいけれど、元気いっぱいの中高年女性たち。車内はすでに、ちょっとした小宴会のような賑やかさだった。
「ガジャンユンター、ちょっと冷房強めにしてくれない?更年期で汗が止まらんさ〜」と、後ろから由美子さんの声。
「それって更年期のせいじゃなくて、朝から食べたあの大きなポーク卵おにぎりのせいじゃない?」と、すかさず順子さんが突っ込む。
車が交差点を曲がり、有名なソーキそばの店の前を通ると、後部座席からいきなり歓声が上がった。
「あっ、この店のソーキそば、絶品だったよね〜!軟骨がトロトロでさぁ!」
「うんうん、スープも出汁が効いてて最高だった!あれ食べた後、一日中幸せだったもん」
「私はジューシーの方が忘れられないなぁ。あのもっちり感、家じゃ再現できないのよ」
話は止まることなく次から次へと料理談義へと発展していった。
「そういえば、首里のあの市場の近くにも、知る人ぞ知る天ぷら屋があるわけさ。魚のすり身のやつ!あれ、熱々で食べたら涙出るくらい美味しいよ……」
「え〜、そんなの初耳!どこどこ?帰りに寄ってみようよ!」
「うん、でも売り切れるのが早いから、間に合えばいいけどね〜」
「それ聞いたら、もう口が完全に天ぷらモードになってるよ〜!」
どっと笑いが起き、私は運転しながら思わず顔がほころんだ。
窓の外には、少しずつ見慣れた街並みが過ぎていく。普段なら渋滞にうんざりしそうな道のりだけど、今日は不思議とそれすらも楽しい。叔母さんたちのエネルギーは、クーラーの冷風よりもずっと車内を活気づけていた。
私の車は、笑いと食べ物の話に包まれながら、今日の目的地へとにぎやかに向かった
車は首里城の駐車場にすべり込み、私たちは次々と車から降りた。
今日の参加は、いつもの気功仲間たち八人。そこに良寛さんも加わって、総勢九人。
平均年齢は高めだけど、心は旅する少女のような一団だ。
秀麗の門が見える場所で立ち止まり、私は辺りを見回した。そして何気なく隣にいた順子さんに尋ねた。
「ねえムヌシリ、園比屋武御嶽って、どんな拝所なの?」
順子さんは、ほんの少しだけ目を細めて、懐かしいものを思い出すように微笑んだ。
「園比屋武御嶽はね、琉球の国王が地方を巡るとき、旅の無事を祈って必ずお参りしたって言われている拝所なのよ」
私が「へえ、すごい」と相槌を打つと、順子さんは言葉を続けた。
「これから私たちが、沖縄の各地にある拝所を巡っていく旅に出るでしょ?そういう意味でも、園比屋武御嶽は、旅立ちや転機、挑戦にふさわしい場所だと思うの。始まりの祈りに、ぴったりな拝所よ」
始まりの祈り。
その言葉が、心にしんと響いた。
私たちは、なっちゃんとすずかさんを先頭に、守礼門をあとにして左手にある園比屋武御嶽へと向かった。朱塗りの門を背に、観光客の波をすり抜けるように歩き出す。
目的地に着くと、正面には立て看板があり、そこに書かれた説明が目に入った。
『この石門は神社でいう拝殿にあたり、その背後には『御嶽』と呼ばれる聖域の森が広がっている。石門は琉球石灰岩で造られ、平唐門という形式。アーチの代わりに長方形のまぐさ石を削って仕上げていて、屋根は板葺きを模した石造り。和風と中国風が融合した独特の様式……』
ふむふむ、とは思うけれど、雰囲気に浸るにはちょっと難しい。
私は隣のなっちゃんに声をかけた。
「ねえ、なっちゃん、なんか感じる?気とか、霊的なものとか…」
なっちゃんは肩をすくめて首を振った。
「ぜーんぜん。なにも感じない。こんなに騒がしいのに、何か感じろって方が無理よ」
たしかに。私たちのすぐそばを、外国語が飛び交う団体客が笑いながら通りすぎていく。
子どもたちは叫び声をあげながら走り回り、大人たちもスマホを構えて撮影に夢中。
神聖な場所…のはずなんだけど、今のところ気の抜けた観光地にしか見えない。
そんな中、少し離れたところで佇んでいた良寛さんが、ふと口を開いた。
「ここはね、昔、第二尚氏王統の三代目の王様・尚真が作らせた場所でね、国王が首里城を出て地方へ向かうとき、まずここで道中の安全を祈ってから旅立ったそ言われている」
私たちは自然とその声に耳を傾ける。良寛さんの声は静かだけれど、不思議と人の心に届くのだ。
「それに、この園比屋武御嶽は、最高神女――聞得大君って言うんだけど――彼女が就任する儀式『御新下り(ウアラウイ)』のときにも、最初にお参りする場所でもあるの」
裕子さんが私と良寛さんの間に割り込んできて、興味津々な声でたずねた。
「ねえ、良寛、聞得大君って何?人の名前なの?」
その口調には、宝物を見つけた子どものような好奇心があふれている。
良寛さんは少し笑って、優しく答えた。
「ふふ、そう思うよな。でもさ、聞得大君ってのは名前じゃなくて、琉球王国のいちばん偉い女性の神職のことなのさ。神様に仕えて、国のために祈りを捧げる人。いわば、宗教的なトップってとこかな」
裕子さんは目を丸くして聞き入っている。
「そんな人がいたんだ。どんな人がなるの?やっぱり特別な人?」
「だいたいね、国王の妹とか娘とか、王様の家族の女性が任命されることが多かったみたいだ。王様の力を、神さまにちゃんと伝えるためにも、血筋が大事だったということなのかもしれない」
「神様に伝えるって……すごいね。なんか、聖なるメッセンジャーって感じ」
「そうなんだ。聞得大君は、王様の政治を神さまに報告して、国の平和を願ったり、大事な儀式を取り仕切ったり……王国にとって、欠かせない存在だったんだよ」
裕子さんは、手のひらを合わせて空を仰ぎながら言った。
「うわ〜、なんかもう物語に出てきそう……良寛も昔は聞得大君だったんじゃない?」
裕子さんの冗談に、良寛さんはくすっと笑いながら首を横に振った。
「何言ってるんだ、最高神女と言えばなっちゃんだろう」
その言葉に、すぐ後ろで聞いていたなっちゃんが、ちゃっかり口を挟んできた。
「ちょっと!誰が最高神女よ。私はただの叔母さんよ。でも……」と、ふと目を細めて遠くを見ながら続けた。
「あの時代の女性たちの強さ、信じる力……わかる気がするのよね。人間の力なんて小さいかもしれないけど、でも祈りって、ちゃんと届く気がする」
その言葉に、場の空気がふっと静まった。
そのとき、静かに歩いてきた由美子さんが、微笑みながら言った。
「昔の人たちは、見えないものを信じる力が強かった。神様に祈るってのは、自分の中の一番大事なものと向き合うことだったんだろうな。いまの時代も、そういう心、失いたくないよね」
その言葉に、みんながうなずいた。
雑踏の中にも、確かにこの場所に込められた歴史と祈りの重みが息づいている。
喧騒の背後で、何かがじっと見ているような、そんな感覚。
やっぱり、拝所って、ただの場所じゃないんだと……そう、心から思えた。
そのとき、なっちゃんがふっと口を開いた。その声は、小さかったけれど、私たちの胸の奥にすっと入り込んできた。
「きっとね、琉球の王様の時代には、こんなふうに観光客がひしめき合うような場所じゃなかったと思うんだ。村の人たちも、自由に出入りできるような場所じゃなかったはず」
「森はもっと深くて、木々がこんもりと茂ってて……この辺りだと、たぶんアカギの大木が覆っていたと思う」
ざわめく観光客の声が、少し遠のいたような気がした。
みんなの視線が自然と石門の奥、うっそうとした木立の方へ向かっていく。
「この御嶽はね、国王が心を込めて守っていた、神の坐す場所だったと思う」
「時代は移り変わって、景色も人もすっかり変わってしまったけど、神聖さが薄れたように感じるのは、私たちの側がその感覚を手放してしまったからかもしれないね」
順子さんが小さく頷いた。
すずかさんは子どもたちの声にちょっと顔をしかめながら、それでもなっちゃんの言葉に耳を澄ませていた。
「でもね、ここには今も『気』があるよ。目に見えない存在が、ずっとここにいて、私たちの祈りや願いを受けとめてくれるはず」
「せっかく九人そろって、旅の始まりにこの場所に立ってるんだから、心をひとつにして、祈ってみようよ。わたしたちの巡礼が、無事に導かれるように」
「そして、もし何かを感じることができたなら、それを素直に受け取って、心に留めておこう」
静かだった。
さっきまで誰かが笑っていたのに、今は誰も声を出さない。
それぞれの胸に、それぞれの願いや祈りが芽生え始めているのがわかる。
ひとみさんがそっと両手を組んだ。
すずかさんは目を閉じて深呼吸していた。
良寛さんは、何かの気配を探るように、石門の上に視線を向けている。
恵さんもいつの間にかおしゃべりをやめ、肩を落として静かに立っていた。
私の中にも、なにかぽつりと灯るような気持ちがあった。
これから巡る数々の拝所のこと、この旅で出会うもの、出会う人たち……そのすべてが、今この場所から始まるのだという、確かな予感。
なっちゃんがゆっくりと手を広げた。
「じゃあ、目を閉じて。深く呼吸して、静かに、この場所に身を預けてみて」
「わたしたちは十人。ひとりでは小さな祈りも、九人でつながれば、きっと天に届く」
私たちはそれぞれの思いを胸に、目を閉じた。
観光客の声が遠のき、足音さえも木の葉に吸い込まれていく。
まるで、ほんとうに、石門の向こうから、何かがこちらを見ているような……。
そんな静かなひとときが、そこに流れていた。
ふとした沈黙のあと、恵さんがぽつりと口を開いた。
その声はかすかに震えていたけれど、しっかりと私たちの胸に届いてきた。
「実はね、私、みんなと一緒にこうして気功や巡礼に参加してるけど、なっちゃんからもいろいろ聞かされてるけど……」
恵さんはそこまで言って、ふっと目を伏せた。風が枝葉をゆらし、陽の光が木立を縫うように降り注ぐ。
「正直、神さまとか、お告げとか……天の声とか……そういうスピリチュアルなこと、信じてなかったの。いや……もしかすると、嫌ってたのかもしれない」
その言葉に、誰も口を挟まなかった。みんな、じっと耳を澄ませていた。
恵さんは唇を噛み、ふいに顔をゆがめたかと思うと、ぼろぼろと大粒の涙をこぼし始めた。
「だけど……今は、なんか……」
そこから先の言葉は、涙にかき消された。声にならない嗚咽が喉の奥でつかえて、言いたいことがうまく出てこない。
しゃくり上げながら、それでも懸命に話そうとする姿に、誰もがそっと見守っていた。
ひとみさんがそばに寄り、何も言わずに背中をやさしくさすっていた。
やがて、恵さんはようやく少し落ち着きを取り戻し、またぽつりぽつりと話し出した。
「私……もしかしたら、ここに来たことがあるような気がするの」
「いつだったかは覚えてない。でも……」
「ここで、お母さんが私のために祈ってくれていたような……そんな気がして……」
その言葉が風に乗って、私たちの胸に染み渡る。
「私は何も分からないまま、小さかった私は、ただお母さんの横にいて……一緒に手を合わせていた……ような……」
また言葉が詰まり、恵さんは小さな子どものように泣き出した。
その泣き声には、思い出せない遠い記憶へのもどかしさと、言葉にできない温もりが混ざっていた。
静かに背をさすっていたひとみさんが、ぽつりとつぶやいた。
「もしかしたら、チュラママは昔、首里の人だったのかもしれないね」
その言葉に、私たちは息をのんだ。
なっちゃんに視線が集まる。
「ねえ、なっちゃん、どう思う?」
なっちゃんはしばらく目を閉じ、風の音に耳を澄ませるようにしていた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「そうかもしれない。でも……今の私には、わからない」
その言葉は、答えではなく、静かな肯定のようだった。
「だけどね、チュラママ――魂ってね、時々、からだよりも先に帰ってくる場所があるんだよ」
「この場所に来たとき、懐かしいとか、涙が出るとか、理由は分からないけど心が動く……そういうときって、魂が『おかえり』って言われてるのかもしれない」
恵さんはまだ涙を流していたが、なっちゃんの言葉に耳を傾けていた。
その頬を伝う雫は、さっきまでの混乱ではなく、少しだけあたたかさを帯びていた。
「お母さんが祈ってくれた記憶……それはね、もしかすると今のチュラママが必要としている『思い出』なのかもしれない。ほんとうに起きたかどうかじゃなくて、心の奥がずっと大事にしてきた『祈りのかたち』なんだと思う」
なっちゃんの声は風のようにやさしく、どこか神聖な響きを帯びていた。
「チュラママは、信じてなかったって言ってたけど……それでも、こんなふうに涙があふれるのは、きっと心が答えてるから」
「信じることって、頭で決めることじゃなくて、心が静かに『うん』ってうなずく瞬間のことなんだと思う」
恵さんはゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、まだ涙が残っていたけれど、どこか晴れやかだった。
まるで、遠く離れたふるさとを思い出したときのような、そんなやさしい光が宿っていた。
なっちゃんは、ふわりと微笑んだ。
「きっとね、祈りって『なにかをお願いすること』じゃなくて、誰かの悲しみや願いに、心を合わせることなんだと思う。言葉がなくても、信仰がなくても、ただ、心が寄り添うこと……それが祈りの本当のかたちじゃないかな」
その言葉は、空気のようにやわらかく、でも確かにその場の空気を変えた。
私たちはその曖昧さを、なぜか素直に受け入れることができた。
恵さんはもう何も言わなかった。
ただ、両手を胸の前でそっと重ね、祈るように目を閉じた。
その指先はかすかに震えていたけれど、その姿にはどこか清らかな力強さがあった。
気づかれないように、目尻をぬぐうその仕草に、私は言葉を失った。
何も言えなかった。何も言う必要がないと思った。
もしかしたら――祈るという行為は、何かを信じることではなく、誰かの願いに、静かに、深く、寄り添うことなのかもしれない。
そして、それが時を超えて、場所を超えて、心と心をつなぐのだとしたら――
この旅は、きっと、過去と未来を結ぶ小さな巡礼になるのかもしれない。
五.光のさす場所
しずかさんが作った拝所カルタ、あれは本当によくできている。
彼女が作ったその拝所カルタは、読み札こそまだ完成していなかったものの、取り札は見事だった。拝所の写真が一枚一枚美しく印刷されていて、札の下部にはちゃんと拝所の名前も入っている。全体で四十五枚のセットだったけど、しずかさんは「いずれ七十枚くらいにはしたいの」と目を輝かせていた。
読み札ができたら、みんなでカルタ取りをするのもきっと楽しいと思う。
「しずか弁護士、頑張って完成させてね」って、思わず応援したくなる出来栄えだった。
そして今回は、私――鈴木恵が、じゃんけんで勝ってしまった。
二年前、夫の仕事の都合で沖縄に来た。ある日、たまたま公民館に用事があって立ち寄ったとき、二階でにぎやかに騒いでいるおばさんたちの様子が目に入った。興味深く見ていると、リーダーのような女性が「一緒にやろう」と声をかけてくれた。
その女性が、なっちゃんだった。
それがきっかけで、この気功の仲間に加わることになり、みんなと仲良く過ごすうちに、いつのまにか私は「チュラママ」と呼ばれるようになっていた。
じゃんけんに勝った私は、押し出されるように拝所カルタを選ぶ役を任されたんだけど……正直、負けたみんなの方が嬉しそうだったのが不思議なくらい。みんなの笑顔を見てると、「あれ、もしかして負けた方が楽なのかも?」なんて思ってしまった。
でもこれは、前回なっちゃんが言い出したルール。拝所カルタは、じゃんけんで勝った人が引くことにしようって。
前回は、智子さんが勝って首里の園比屋武御嶽の札を引き当てて、それでみんなで首里に行ったのだった。
そう、つまり、今回行き先を決めるのは私。責任重大だ。
私は丁寧に拝所カルタを切り、緊張しながら七枚目をめくった。
出てきたのは――「斎場御嶽」。
「うわあ……」という声とともに、みんなが一斉に歓声を上げた。
やっぱり、斎場御嶽は特別だ。拝所の中でも、なにか格別の神聖さを感じさせる場所。
次の行き先が決まり、私の胸の中にもふわっと期待が広がっていった。
今回の参加者は、なんと二十一名。
気功のメンバーに加えて、その友達や家族まで参加することになった。さすがは斎場御嶽、みんなの関心が高いのも納得だ。
人数が多すぎるので、さすがにみんなでまとまって移動するのは無理。だから今回は、それぞれ自分の車で向かって、現地集合ということになった。
私はというと、智子さんの車に乗せてもらうことになった。もう一人、同乗するのがひとみさんだった。
彼女は気功グループの中でも、ちょっとしたまとめ役のような存在だった。けれど、普段はあまり話す機会がなく、その人となりはどこか謎めいていた。
後部座席に座ったひとみさん、バックミラー越しに話しかけてきた。
「斎場御嶽、行くの初めて?」
「はい、ずっと気になってたんですけど……今回が初めてです」
私が答えると、運転している智子さんも嬉しそうに頷いた。
「一回行くと、また行きたくなるよ。空気がね、まるで違うの」
「わかる。あそこは呼ばれないと行けないって言う人もいるしね」
ひとみさんの言葉に、ちょっと背筋が伸びる。
「呼ばれる、ですか?」
「うん。不思議なんだけど、何回もチャンスがあっても行けない人もいるのよ。でも、急にスッと予定が合って、行ける時は行ける。不思議とね」
「そういうときって、何か意味があるのかもしれないですね」
私は思わず、彼女の方を振り返った。
「サザエちゃん、斎場御嶽にはよく行かれるんですか?」
「いえ、私もまだ二回目。でも、初めて行ったとき、涙が止まらなくなって……自分でも驚いたの」
その言葉に、車内が一瞬だけ静まり返る。
「わかる。あそこは、何かを浄化してくれる場所なのかもしれないね」と、智子さんがしみじみ言った。
「今回は、誰に会えるかな」
智子さんの言葉に、「えっ、誰かいるんですか?」と私が聞き返すと、二人が声を合わせて笑った。
「まあ、行ってみればわかるわよ」
「そう、感じる人には、きっと何かが見えるかもね」
「でも、怖くはないから安心して」
そんな不思議な会話に包まれながら、車は南城市の方へとゆっくり進んでいった。
気功のメンバーって、なんというか――みんなちょっと霊感が強そうで、私からすると少し近づきにくいところがある。でも、ひとみさんは違う。静かで、控えめで、そっと寄り添ってくれるような存在。
その優しさと素朴な雰囲気のせいか、みんなからは「サザエさんみたい」って言われていて、いつの間にかあだ名がサザエちゃんになっていた。
そんな彼女と一緒に車に乗るのは、なんだか少し楽しみだった。
集合場所に着くと、すでにほとんどの人が集まっていて、なっちゃんを囲むように人垣ができていた。
良寛さんも、しずかさんの隣に立って、なっちゃんの話に耳を傾けていた。
私たちが合流すると、しずかさんが「じゃあ、みんなそろったみたいだから、そろそろ行きましょうか」と声をかけ、なっちゃんを先頭に私たちは斎場御嶽へと続く細い道を歩きはじめた。
良寛さんとしずかさんは、列の最後尾をゆっくりと進んでいる。
足元はごつごつした石ころ道で、ところどころに段差もあり、視覚に頼れない良寛さんにとっては決して歩きやすい道ではない。
それでも、しずかさんが細やかに声をかけながらサポートしてくれているおかげで、良寛さんはみんなに遅れまいと、しっかりと歩を進めていた。
細い石畳の道を、私たちは一列になってゆっくりと進んでいく。頭上には緑の葉が重なり合い、ところどころから木漏れ日が差し込んでいる。湿った土の匂いと、どこか凛とした空気に包まれて、ただの観光地とは違う、特別な場所に足を踏み入れたことを肌で感じた。
「ここが斎場御嶽ね」と、なっちゃんがふと立ち止まって言った。「琉球王国で最も聖なる御嶽とされていた場所よ。聞得大君の就任の儀式――お新下りも、ここで行われていたの」
その言葉に、由美子さんがうなずく。
「王国時代、この場所は神女たちにとって特別な意味があったの。男子禁制で、王様でさえ勝手に入ることはできなかったというわ」
「え?王様も入れなかったの?」と、智子さんが驚いて声を上げる。
「うん。ここは、神と繋がる『清らかな場所』だったからね。だから、王様が儀式で来るときも、神女たちの導きがなければ入れなかったのよ」と、なっちゃんが優しく説明する。
道を少し進むと、大きな岩が二枚、V字のように重なっている場所に出た。そこが有名な「三庫理」だった。
「ここが御嶽の核心部、三庫理。奥には久高島を遥拝できる拝所もあるのよ。神の島と呼ばれる久高島は、琉球の始まりの場所とされているの」と、順子さんが教えてくれる。
「自然の中に、こんなにも神聖な空気があるなんて」と、智子さんが小声でつぶやいた。
見上げると、岩と岩のすき間から一筋の光が差し込んでいる。その光は、まるでこの場所にだけ神様が降りてきているかのように。
そのときだった。私のすぐ後ろにいた良寛さんが、小さく口を開いた。
「ここに来る前にね、一人であの奥の泉に寄ってきたんだ」
「えっ?泉なんてあったの?」と私が驚いて尋ねると、良寛さんはゆっくりうなずいた。
「この斎場御嶽の奥深くに、小さな湧き水の泉があってね、『ウローカー』って呼ばれている。昔から神女たちが身を清めるために使っていた泉なんだ」
「ウローカー……」私はその響きを心の中で繰り返した。
「清らかな水って意味でね。御嶽に入る前、神に近づく前に、人はそこで体を清め、心を整えてから拝所に向かったというんだ。水は細く静かに流れていて、まわりはしっとりと苔むしてた。……あの空間だけ、まるで時間が止まってるようだった」
「でも、危なくなかった?一人で……杖も持たずに」
そう口を挟んだ私に、良寛さんは少し微笑んで言った。
「うん、大丈夫。音と匂い、それから足の裏の感覚で、なんとなくわかるんだ。道の勾配とか、湿った空気の変化で、泉が近いって感じる。……それに、今日はどうしても一人で行きたかった。あの水に一度触れてから、みんなと一緒に歩きたかったんでね」
その言葉に、順子さんが静かにうなずいた。
「その泉はね、いまは立ち入り禁止の場所に近いから、普通はなかなか行けないの。でも、良寛がそこに導かれたなら……きっと、意味があるのかもしれないわ」
風がふっと通り抜けて、木々の間から光がまたひとすじ差し込んだ。良寛さんの静かな勇気を、自然そのものが祝福しているかのようだった。
なっちゃんが、ふと足を止めて静かに語り始めた。
「さっき少し話したけれどね……斎場御嶽は、琉球王国の時代、最も神聖な御嶽だったの。ここは『神が降りる場所』として、長い間、人々に大切にされてきた場所なのよ」
彼女の声は風に溶け込むように柔らかく、聞く者の心の奥に響いてくる。
「この三庫理と呼ばれるV字の岩の間……そこに、天からの光が差し込む瞬間があるの。その光は、神さまがこの地に降り立つしるしだと言われているの」
私たちは思わず、岩と岩の隙間から差し込む細い光を見上げた。
なっちゃんは、そっと続けた。
「琉球の神女たちはね、『鏡』をとても大切にしていたの。鏡は神を招く道具、神さまと人との間を結ぶ、霊を映すものだったのよ」
「この御嶽には、『チョウノハナ』って呼ばれる拝所があって、そこにはかつて鏡が祀られていたと伝えられているの」
私たちは誰も言葉を発せず、なっちゃんの言葉に耳を澄ませていた。森の静けさが、なっちゃんの語る世界をより深く感じさせた。
「聞得大君――琉球の最高神女が祭祀のときに手にしていた鏡も、きっとただの道具ではなかったはず。あれは、彼女の魂そのものだったのかもしれない。神とつながるための、『内なる光』を映す器――そんな存在だったのではないかと思う」
そして、なっちゃんは優しい笑みを浮かべてこう結んだ。
「今は文化財の保護のために、その鏡はもう見られないけれど……でもね、目に見えなくても、ここには今でも、静かにその『光』が息づいているの。心を澄ませば、きっと感じられると思うよ」
「良寛、聞得大君についてみんなに話してあげて」
良寛さんは少し戸惑いながらも、一歩前に出て、静かに語りはじめた。
「聞得大君は……琉球王国において神女の最高位にあたる女性です。王国の宗教儀礼では、とても重要な役割を担っていました」
私たちは、岩の間から差し込む一筋の光を見上げながら、良寛さんの声に耳を澄ませた。
「この地位に就くのは、王族の女性……特に国王の姉妹や娘たちでした。聞得大君は『霊的な王』とも呼ばれていて、国の守り神のような存在だったんです」
「王族の女性が……神の声を聞く者になるって、すごいことだね」と智子さんがつぶやく。
良寛さんはうなずいて続けた。
「その聞得大君になるためには、厳かな就任儀式があってね、『お新下り(おあらおり)』と呼ばれる儀式です。選ばれた王族の女性は、神女としての修行を経て、この斎場御嶽にやって来る。ここで神の力を受ける神聖な儀式を行い、『神とつながる者』として認められるのです」
「鏡や御神衣が授けられたって聞いたことがあるわ」と、順子さんがぽつりと言った。
良寛さんがその言葉にうなずいて、そっと順子さんにバトンを渡すように後ろへ下がった。
順子さんが、岩にそっと手を添えて、語りはじめた。
「鏡はね、神を映し、神を招く道具とされていたの。だから、聞得大君に授けられる鏡は、ただの道具じゃない。『神の存在が宿るもの』として、とても大切にされていたのよ」
「その鏡を手に、聞得大君は祈りを捧げ、国王や民の安寧を願った。王はこの世を治める者、そして聞得大君は神の声を聞き、この世とあの世を結ぶ者……二人は、一つの王国を支える現実と霊の両輪だったのよ」
順子さんの言葉は、風のざわめきのように静かに私たちの胸に染み込んでいった。
「だからこそ、この場所は特別なの。祈りが何百年も続けられてきた、神と人をつなぐ門のような場所……」
誰も言葉を発せず、そのまましばらく立ち尽くしていた。木漏れ日が揺れる中、私たちはただ、その空気を吸い込むようにして、斎場御嶽の神聖さを感じていた。
「もう少し、ここで静かに――神の気配を感じてみてほしい。風の音、木漏れ日、そして足元から立ちのぼる、この土地の記憶……それらすべてが、神のささやきだから」
そして良寛さんは、ふっと微笑んでつぶやいた。
「男子禁制のこの場所に、私がいるのはやっぱり異物かもしれない」
そう言い残すと、私たちのもとをそっと離れ、良寛さんはひとり静かに斎場御嶽の石の道を下っていった。
その背中は、この聖地の霊気と深く響き合い、まるで目に見えぬ何かと静かに対話しているかのようだった。
そして――
三庫理をくぐり、御嶽の奥へと足を踏み入れたその瞬間、空気がすっと変わった。音は吸い込まれるように消え、風の匂いさえもどこか神々しさを帯びている。
気功の仲間たちは、それぞれの場所に静かに立ち、目を閉じたり、天を仰いだりしている。誰ひとり言葉を発しないのに、その沈黙が不思議と心地いい。私は、その静けさの中に身をゆだねながら、ふと胸の奥を何かが通り過ぎるような、言葉にならない感覚に包まれた。
まるでこの地に、大きな存在がそっと降りてきているかのような――誰かの身体を通して、それが姿を現しているような、そんな気配だった。
本土から引っ越してきた私は、生活の変化に戸惑いながら、慣れない土地で手探りの日々を送っていた。
そんなある日、たまたま近くの公民館で行われていた気功の会に参加した。特別な理由があったわけではなく、ただの気晴らしのつもりだった。
けれど――気がつけば、私はその世界に少しずつ惹かれ、目には見えない何かに導かれているような、不思議な感覚を抱くようになっていた。
そして、いま――この御嶽に立ち、風と気配に身をゆだねているこの瞬間、その感覚は、確かなものへと変わっていった。
順子さんの後ろに立ったとき、彼女の肩先から、やわらかな白い光がふわりと立ちのぼっているように見えた。
光というよりは、気配――目には見えないのに、周囲の空気をほんのかすかに震わせているようだった。
錯覚……ではない。そう思った。いや、たとえ錯覚だったとしてもかまわない。
でも確かに私は、その瞬間、順子さんを通して「何か」がそこにいると感じたのだ。
ふと横を見ると、しずかさんが天を仰ぎ、何かと語り合っているようだった。
その姿が、ほんの一瞬だけ、琉球王朝時代の巫女――御嶽に仕えていたノロたちの姿と重なって見えた。
まるで土地に刻まれた記憶が、彼女の身を借りてよみがえったかのように。
誰かの深い呼吸の音が、静かに響いた。
もはや誰が誰かもわからないほど、みんなの気配が、この神聖な空間に溶け合っていた。
霊感とかスピリチュアルといった言葉では言い表せない、もっと根源的な『祈りの力』が、今、この場を満たしていた。
そのとき、なっちゃんがぽつりと呟いた。
「ねえ、ムヌシリ……どこの出身?」
順子さんがゆっくり振り返って笑った。
「沖縄市の松本。両親もたぶんずっとそこ。どうして?」
なっちゃんは答えず、海の向こうを指さした。そこには、青く澄んだ海に浮かぶ久高島の姿があった。
「なんとなく、だけどね。ムヌシリが拝所のことや沖縄の行事のことを話すとき、声が変わるのよ。まるで誰かが背中に入って喋ってるみたい」
冗談のように聞こえたが、私は笑えなかった。胸の奥で、なにかがひっそりと動いた。
「たぶんね……ムヌシリの魂は、昔、久高島か、あるいはこの知念の地にいたんだと思う」
「ムヌシリの言葉の奥に、風の音や海の匂いが混じってる。『懐かしい』じゃなくて、『帰ってきた』っていう感じ」
その言葉は、私自身のどこか深い部分に触れるようだった。順子さんのことを語っているはずなのに、なぜか、私の胸の奥がじんわりと熱くなった。
なっちゃんは小さく頷きながら、続けた。
「三庫理をくぐるっていうのはね、向こうの世界とつながるってこと。ここは、始まりであり、終わりでもある場所。だからムヌシリ、きっと今日ここに『呼ばれて』来たんだよ。久高の神さまが、『おかえり』って言ってる」
風がふっと吹き抜けた。やわらかくて、あたたかい風だった。
なっちゃんの言葉が、私の胸の奥深くに、しずかに、けれど確かに染み込んでいった。
私は久高島を見つめた。陽の光に包まれたその島が、私たち全員に微笑みかけているように見える。
「ムヌシリは、久高島には行ったことあるの?」
順子さんは、少し照れたように首を振った。
「ううん。行きたいとはずっと思ってたけど、まだ呼ばれてないのかもしれないの。だから、まだ……行ってない」
そのときだった。風がもう一度、そっと吹き抜けた。
それはまるで――「そろそろだよ」と、誰かが背中を押してくれたような、そんな風だった。
六.普天間のガマ
気功が終わると、私たちはいつものようにファーストショップに流れ込む。もうこれ、もはや儀式。冷たい飲み物を片手に椅子にどっかりと腰を下ろせば、あとは自然となっちゃんを中心に、笑いの渦が巻き起こる。
「でさあ、この前うちの旦那がさ、寝言で『おまえ誰?』って言ったわけよ!」
そのひと言で、もうみんな腹筋崩壊。私は思わず口にしてたさんぴん茶を吹き出しそうになった。
「がじゃんゆんたー、それって絶対黒いやつよ!夢の中で浮気してたってパターン!」
裕子さんが叫ぶように言って、恵さんはテーブルをバンバン叩いて笑っている。
「でしょー!?朝から取り調べよ。本人は夢に出てきたのは君だと思ったけど、声が違ったって……どーいう言い訳よ!」
「夢の中でも声で女を選ぶって、なかなかスキル高いわねぇ」と順子さんが、妙に感心した顔でうなずいてる。
私たちの笑い声が、夏の午後の店内に響きわたる。チラチラとこっちを見ていく高校生たちもいるけど、そんなの全然気にしない。ていうか、気にしてたらこの歳まで生きてこれんさぁね。
みんなは、私のことを『サザエふゃん』って呼ぶ。アニメのサザエさんに似てるらしいんだけど、どうだろうか?名前は佐久川ひとみ。最初はちょっと複雑な気もしたけど、今ではすっかり板について、これがないと呼ばれた気がしない。
誰かが冗談を言えば、誰かがツッコんで、また誰かがオーバーにのっかる。そのたびに笑いが起きる。これが私たちの気功のあとの楽しみだった。
気功のあとって、不思議と心まで緩むんだよね。何でも話せるし、泣いたって笑ったって遠慮いらん。こんな場所があるのって、本当にありがたいと思う。
「じゃー、そろそろ始めようか」
しずかさんがそう言って、鞄から拝所カルタを取り出して、テーブルの真ん中に置いた。
「今日も勝負よー!」
気合の声とともに、全員でじゃんけん。何回かアイコが続いたあと、なぜか私が勝ってしまった。
「え、私なの?……なんか勝って損した気分」
ぶーぶー言いながら、渋々カルタを切って、上から七枚目をめくる。
「あー残念。久高島のフボー御嶽、順子さんの魂のふるさとに行きたかったのに!」
私がめくった札に描かれていたのは、普天間宮の鍾乳洞(奥宮)。
「うーん、これはこれでディープだけど、やっぱりフボー御嶽にはロマンがあるよね」
ふと、智子さんがイタズラっぽい笑みを浮かべて言った。
「ねえ、あぐーねーねー、あの洞窟って狭いって聞いてるけど……入れるかな?詰まったりしない?」
突然の直球に、由美子さんは「ちょっと失礼ね〜」と笑いながらも、少し首をかしげて思い出すように言った。
「うーん、たしか小学生のときの遠足で入ったことがあった気がするんだけど……あの頃はまだ軽やかに通れたのよ。だけど今じゃ、体が当時の五倍ぐらいになってるかも?」
「五倍って、それもう別の生き物じゃない!」と恵さんが大声で笑いながら言った。
「ちょっと!じゃあ今の私は何なのよ?」
みんなドッと笑い、由美子さんもつられてぷっと吹き出した。
順子さんがやや真面目な顔で言った。
「みんなが想像してるよりは大きい洞窟よ。かなり奥まで続いてて、昔から海に通じてるって言われてるの」
一瞬、場の空気が変わった。笑い声が静まり、みんながその言葉に耳を傾ける。
そんなとき、しずかさんがふと、ぽつりとつぶやいた。
「良寛、来てくれるかな……」
その声は大きくなかったが、不思議とその場にいた全員の耳に届いた。ざわついていた店内の空気が、すっと静まり返る。
「良寛」――その名前が出た瞬間、私たちはふと手を止め、それぞれの胸にあの人の姿を思い描いていた。
あの人は、何かを超えている。誰もが、そんなふうに感じていた。
「一緒に来てくれたらいいのにね」
裕子さんが、ぽつりとつぶやく。
「ねえ、なっちゃん。良寛って、本当に目が見えないの?」
智子さんの問いに、その場の視線が自然と、なっちゃんに集まった。
「斎場御嶽に、一人で来てたんでしょ?あんな足場の悪い場所に、杖も持たずに……」
「苔むした石段や、木の根が浮き出た細道。私たちだって慎重になるような場所なのに、すごいよね」
「しかもね、私が近づいたら、後ろを向いてたはずなのに、ふっと振り返ってこんにちはって。まるで、気配じゃなくて、姿そのものを見てたみたいだったの」
言葉にこもるのは、戸惑いと畏れ、そしてどこか敬意に近い感情だった。
しずかさんが、少し間を置いて口を開いた。
「実はあの日ね、私、良寛の不思議な姿を見たの。私が着いたとき、彼は誰よりも早く斎場御嶽の入り口にいてね……両手のひらを上に向けて、じっと自分の手を見つめていたの」
「何をしているんだろうって、不思議に思って、しばらく見ていたの」
「そのときさ、風が吹いてたのよ。やわらかくて……でもなんか、ざわざわする感じの風。その中をね、急にチョウチョが飛んできたの。どこから来たのかもわかんないくらい、ふいに現れて……それで、良寛の手のひらに、ふわっと止まったのよ」
「え?……うそ?」
「そのチョウチョ、しばらく羽をふるわせて、それからふわっと空へ舞い上がったの。何かを伝えに来たみたいに」
誰も言葉を発しなかった。
ただその情景だけが、胸の奥にそっと広がっていく。
「神さまの使い、みたいだね」
「もしかしてあの人、『見えてる』んじゃなくて、『通じてる』のかも」
しずかさんが、ぽつりとつぶやいた。
その言葉に、誰ひとりとして異を唱えなかった。むしろ、それこそが良寛さんという人を言い表す、いちばんしっくりくる言葉のように思えたからだ。
「ね、なっちゃん、どう思う?」
なっちゃんは少し考えてから、静かにうなずいた。
「どうなんだろうね……これから来ると思うから本人に聞いてみようか」
そのとき――
「あっ、良寛だ!」
裕子さんの声が響いた瞬間、私たちの視線は自然と入り口へと集まった。
午後の陽射しが差し込むガラス戸の向こうに、ゆっくりと歩いてくる姿が見えた。姿勢はまっすぐで、急ぐ様子もなく、時間の流れに身をゆだねるような歩調。その背中には、どこか涼やかな風をまとっているような、不思議な気配がある。
「私、呼んでくるね」
しずかさんが立ち上がって、足早に入り口の方へ向かっていった。
しばらくして、しずかさんに案内されながら、良寛さんが静かに私たちのテーブルにやってきた。
「こんにちは」
落ち着いた声が、広がっていた沈黙をやさしく包み込んだ。
外がよっぽど暑かったのか、良寛さんは、運ばれてきたアイスコーヒーをひと息に飲み干した。そして、グラスをテーブルに置くなり、「はーっ」と、大げさなまでのため息をついた。
その姿はどこか、ビールを飲み終えた中年男のようで、つい私たちは顔を見合わせ、堪えきれずに吹き出してしまった。
「良寛、なんかもう、一杯目のビールが沁みるわ~って顔してる、おっさんみたいだよ」
明るく笑いながら由美子さんがそう言うと、良寛さんは口元に苦笑を浮かべて、軽く肩をすくめた。
「はい、僕は十分におっさんでございます」
その言い方が妙に堂々としていて、場の笑いがさらに広がった。
「それよりさ、良寛。この間、手のひらにチョウチョが止まったって、しずか弁護士がびっくりしてたけど……あれ、どういうこと?」
話題が変わると、良寛さんはふっと目を細め、どこかいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「ああ、あのときのことか。見られてたんだね。実はね、手のひらにそっと蜂蜜を一滴垂らしておいたんだよ」
「えっ?蜂蜜?」
一瞬、場が静まり返る。そして、いっせいに上がる驚きの声。
「ほんとなの、それ?」
良寛さんは、明確な答えを出すことなく、ただにやりと笑った。その笑顔に、何とも言えない含みがあって、それ以上追及する気になれなかった。
「それより……」
良寛さんがふと視線を上げ、話題を切り替えた。
「今度は、どこの拝所に行くことになったの?」
そのひと言で、場の空気がすっと引き締まった。私たちは互いに目を見交わしながら、あらためて次回の訪れについて語り合う心の準備を始めていた。
「今度はね、普天間宮の鍾乳洞――奥宮に行くことになったの」
そう言って、なっちゃんが身を乗り出した。「良寛が行かないわけがない」とでも言いたげな、少し強気な調子だ。
「良寛、一緒に行くでしょ?」
視線をまっすぐに向けられて、良寛さんは少しだけ苦笑いを浮かべた。
手元のグラスを軽く回しながら、ゆっくりと言葉を選ぶように答えた。
「行きたい気持ちはあるんだけど、けど……たぶん、鍾乳洞の中って風も通らないだろうし、空気が淀んでると思うんだ。音も妙に反響するしね……そうなると、音で周囲を感じ取るのが難しくなるから、一人で歩くのは正直ちょっと自信がなくて」
そう言いながら、良寛さんは静かに首を振った。
「今回は残念だけど、洞窟の中は遠慮しておこうかな」
その言葉に、一瞬場が静まった。けれど、すぐになっちゃんが声を上げた。
「だったら、しずか弁護士と一緒に歩いたらいいじゃない」
「ねぇ、しずか弁護士、お願いできる?」
みんなの視線が集まる中、しずかさんはふっと微笑んだ。
「もちろん、大丈夫よ。良寛、私と一緒だったら歩けるでしょ?危ないところはちゃんと声をかけるし、安心して」
その声には、やさしさと頼もしさが滲んでいた。
良寛さんは少しだけ驚いたような顔をしたあと、ふっと目を細めて微笑んだ。
「そうか……そう言ってもらえるなら、ちょっと心強いな。じゃあ――お言葉に甘えて、行ってみようかな」
そう言った良寛さんの声は、どこか嬉しそうで、そしてほんの少しだけ照れくさそうだった。
そのとき、順子さんが静かに語り出した。
「沖縄では自然洞窟を『ガマ』って呼ぶの。普天間のガマは古代の御嶽信仰と深くつながっていて、今も神聖な場所とされてるのよ。入口は神社の本殿の下にあって、申し込めば中に入ることができるの。中には祭壇もあるし、天井からは鍾乳石が垂れ下がっていて……とても幻想的よ」
「へえ……」と、恵さんが息をもらす。
「中には神井と呼ばれる井戸もあってね。昔は雨乞いや病気平癒に使われていたの。霊水として、飲んだら病が癒えたっていう話も残ってる」
「さすが、むぬしりだね。よく知ってる」
私が感心して言うと、良寛さんも話に加わった。
「普天間のガマには、天から降りた女神が住んでいたって伝説もあるんだ。彼女は村人に雨をもたらし、病を癒してくれた。でも、あるときその姿を盗み見た者がいてね……それ以来、彼女は姿を消したって。ガマは今も神が再び降りるのを待つ場所とされてる」
「昔からノロやユタたちが神を感じる場所として大切にしてきたって話も聞いたことがあるよ」
「それだけじゃないんだ。あのガマは、沖縄戦のとき、避難場所としても使われていたんだ。年寄りも子どもも、みんな必死で身を隠していた。外は砲弾と焼夷弾の嵐で、どこにも逃げ場なんてなかったから……」
良寛さんの声が、だんだん低く沈んでいく。
「それでも助からなかった人たちもいた。中で息絶えた人、火に巻かれた人、いろんな思いを残したまま……。今でもあの場所では、静かに供養が続けられているんだよ」
一瞬、私たちは言葉を失った。
「ねえ、なっちゃん。今回行く拝所では、戦争で亡くなった人たちの供養も込めて、花をお供えして、祈りを捧げようよ」
私の提案に、なっちゃんはうなずいた。
「うん、そうだね。ちゃんとお供えして、そのお供え物は持ち帰らないといけないけど……きっと、そういう作法を大事にする気持ちも含めて、神さまにはちゃんと届くと思うよ。私たちがこころから手を合わせれば、その想いはきっと受け取ってもらえるはずだから」
なっちゃんの声は、いつになく静かでやさしかった。
あの日、あの時、洞窟の中で命を落とした人たちの無念を思うと、私にできることはただ祈ることだけ。でもせめて、この手でできるささやかな供養を――そんな想いで手を合わせたい。
少しの間を置いて、なっちゃんが続けて話した。
「『神井』ーーあの奥の水場ね、あそこには特別な力が宿ってるって、昔から言われていてね、干ばつの年に村の人たちがその水を畑に撒いたら、間もなく雨が降ったっていう伝承もあるし……。病気の人がその水を飲んで元気になった、なんて話もあるの」
語りながら、なっちゃんは遠い記憶をたぐるように、目の前の景色ではなく、鍾乳洞の奥にあるその水場を見つめていた。
「だから、ただの水じゃない。祈りと一緒に、その水の力を借りられたら亡くなった人たちにも、きっと何か届くと思う」
私たちはしばらくの間、グラスの中の氷がカランと鳴る音にだけ耳を澄ませていた。静けさが、やさしく場を包んでいた。
ふいに、裕子さんが茶目っ気たっぷりに口を開いた。
「ねぇ良寛、その神井の水で目を洗ったらもしかして、見えるようになるんじゃない?」
「ばか言え。そんなうまい話……でも、あったらいいよな」
良寛さんが肩をすくめて苦笑する。その様子を見て、智子さんはすぐさま次の冗談を飛ばした。
「あぐーねーねーもその水を飲んだら、ちょっとはやせられるかもよ?」
「ほんと?やせられるんだったら、私も飲んでみようかな」
由美子さんがさらりと受け流し、場はまた、くすくすと笑い声に包まれた。冗談のやり取りが、気のおけない仲間同士のぬくもりを感じさせる。
そんな笑いの余韻の中で、しずかさんがふと声を落とした。
「でも今はもう、その水も、安心して飲めるとは言えないかもしれないね。農薬とか、基地からの汚染物質が地下に染み出してるって話もあるし……」
空気が、ふっと静まり返った。冗談が飛び交っていたその場に、一滴の哀しみがそっと落ちたようだった。
誰も、その沈黙に言葉を添えることはなかった。ただそれぞれが黙ったまま、心の奥で祈りのかたちを思い描いていた。
その日、私たちは気功を終えたあと、普天間神宮の駐車場に集合した。
良寛さんはまだ来ていなかったけれど、「駐車場で落ち合う」との約束になっていたので、誰も慌てる様子はない。
しずかさんが「迎えに行こうか?」と声をかけたらしいのだけれど、良寛さんは「大丈夫だから」と、きっぱり断ったそうだ。
まったく、あの人は意地っ張りなのか、意固地なのか、それともただの照れ屋なのか。何となくつかみどころがない。けれど、その不思議な距離感が、なぜかみんなに嫌われないのも事実だった。
空気がほぐれ、おしゃべりに花が咲いていたそのとき、向こうから良寛さんがゆっくりと歩いてくる姿が見えた。
恵さんが大きく手を振りながら、「良寛、こっちこっちー!」と呼びかけると、私たちもその声に重ねるように応じた。良寛が迷わずこちらへ来られるように、皆で声の道しるべをつくるように、「こっちこっち!」と呼び続けた。
今回の参加者は、良寛さんを含めて七人。前回よりずいぶん少ない。
洞窟が怖いとか、狭い場所はちょっと……とか、暗いところは苦手でとか、それぞれに理由をつけて見送った人たちもいたけれど、逆にこの七人は、何だかんだ言って好奇心に勝てなかった面々というわけだ。
良寛さんが合流すると、私たちは顔を見合わせてうなずき合い、いよいよ普天間宮の奥、鍾乳洞の入口へと歩き出した。胸の奥には、静かな期待と、ほんの少しの緊張が息をひそめていた。
がまの前で一礼し、私たちは静かに中へと足を踏み入れた。
入り口から数歩進んだだけで、空気が変わったのがわかる。しんと静まりかえった洞窟内は、ひんやりとした湿気に包まれ、灯りに照らされた天井には、銀色に輝く鍾乳石が垂れ下がっている。何千年もかけて形成されたその石柱は、大地の記憶が凍りついたようで、どこか神々しさすら感じさせる。
足元に注意しながら、岩肌に沿ってさらに奥へと進んでいくと、やがて岩のくぼみにしつらえられた小さな祭壇が姿を現した。丁寧に積み上げられた石の前に、私たちは持参した黄色と紫の菊の花をそっと供えた。
順子さんが一歩、静かに前へと進み出て、胸の前で手を合わせ、そっと目を閉じる。やがて、祈るような低い声が、ゆっくりと空間に満ちていった。
それは沖縄の古い言葉だった。意味はわからなかったが、そのひとつひとつの響きが、大地の奥底から湧きあがるようで、どこか懐かしく、胸の深いところに静かに染み込んでいった。
時が止まったように、まわりの世界がすうっと静まり返る。
彼女の声だけが、空間に柔らかく響き、ゆっくりと祈りの波紋を広げていく。
神に語りかけているのか、それとも神と交わっているのか――
私たちはただ息をひそめ、その神聖な時間をそっと見守っていた。
やがて、順子さんの祈りが静かに終わると、今度はなっちゃんが前へ出た。
彼女は一歩、すっと踏み出し、静かに目を閉じて、呼吸を整えるように胸がふわりと上下し、やがて右手を空に向かってゆっくりと掲げた。指先が風を探るように微かに揺れ、左手は胸の前でふわりと広げる。手のひらから、何か目には見えないものをそっと送り出すような動き――それは、まるで空間と対話するようなしぐさだった。
彼女の周りだけ、空気がやさしく波打っているように見える。
その仕草には、誰も逆らえないような深い祈りの力が宿っていた。
ふわりと柔らかな気の流れがなっちゃんのまわりに広がり、空気が澄み、岩肌の冷たささえも和らいでいく。
音という音が吸い込まれていくような静けさの中で、私たちはただ、その場に立ち尽くしていた。
「どうか、魂が光の懐に抱かれますように……」
なっちゃんの祈りが、静かに、でも確かに、天の領域へと舞い上がっていく。
「還りたいと願う想いが、高次の存在に届きますように……」
「迷いの波動が浄化され、魂が本来の光の道へと導かれますように……」
「肉体は大地へ、魂は星のふるさとへと還りますように……」
「そして、この地上に生きる私たちの心にも、やすらぎの風がそっと吹きわたりますように……」
その声は小さかったが、どこまでも澄み切っていて、耳ではなく心に届いた。
私たちの胸の奥に、静かに祈りの炎が灯ったのを、誰もが確かに感じていた。
なっちゃんは、供え終えた花を静かに手に取り、持ち帰る支度を始めた。
「この花たちも、あの世とこの世をつなぐ“橋”なんだよ」
なっちゃんが、やわらかく、でもどこか芯のある声でそう言った。
それは、目に見えないけれど確かに存在するつながりへの信頼の言葉だった。
良寛さんは、そっと手を伸ばして鍾乳石に触れていた。まるで、そこから何かを確かめるように。
指先が石の冷たさを受け止めながら、唇が微かに動いている。何かを話している――けれど、その声は小さすぎて、私には何一つ聞き取れなかった。
けれど不思議と、「誰かと話しているのだ」ということだけは、はっきり伝わってきた。いや、誰か、ではない。もしかして……鍾乳石と、会話をしているのだろうか?
「みんなの祈り、届いているかい? もし届いているなら、ほんの少しでいいから、震えてみせてくれないかな」
そんな言葉が、ふと心に浮かんだ。良寛さんの心の声だったのか、それとも私の想像だったのか……境目が曖昧になるほど、場の空気は澄んでいた。
彼はゆっくりと手のひらを鍾乳石から離し、その表面を優しくなでるように撫でた。そして、何かを感謝するように、あるいは「またね」と別れを告げるように、鍾乳石をとん、とんと二度、静かに叩いた。
それからふっと表情を緩め、私たちの方を振り返った。
もう、いつもの良寛さんだ。けれど、その瞳の奥には、どこか深いところとつながってきたような余韻が残っていた。
もしかしたら、本当に話していたのかもしれない。
鍾乳石と――いや、この土地の記憶や、そこに宿るものたちと。
目に見えるものだけが、会話の相手とは限らない。
そう思わせる何かが、確かにそこにあった。
洞窟を出ると、外の光がまぶしくて、一瞬まぶたを閉じる。
振り返ると、鍾乳石に宿ったわずかな光が、名残を惜しむようにキラリと揺れていた。
あの奥深くに湧く神井の水は、静かに、今日も流れ続けている。
かつて干ばつを癒し、人の病を和らげたというその水は、時代を超えてもなお、祈る者の心を映す鏡のようだった。
命を抱きしめ、別れを受け入れ、そしてまた歩き出す――
私たちがこの地に立つ意味を、あの静かな泉は何も言わずに教えてくれているようだった。
しずかな風が、ふと頬を撫でていった。
それはきっと、神の息吹。
そう思ったとき、私の胸の奥にも、小さな光がそっと灯っていた。
あとがき
目には見えなくても、たしかにそこにあるもの――
風のささやき、大地のぬくもり、波間にひそむ静かな気配。
木々のざわめきにまじって届く、遠い祈りの声。
それらはふいに訪れ、耳を澄ませたとき、そっと心に触れてくる。
なっちゃんは、そうしたものに気づく力を持っていた。
目に見える世界の奥にある、もうひとつの静けさ。
音ではない響き、言葉ではない語りかけ――そうした「気配」の言葉を、なっちゃんは受け取り、そして、私たちにも手渡してくれた。
拝所は、ただの祈りの場所ではない。
そこは、目に見えないものと私たちをやさしくつなぐ、静かな扉。
時にそれは忘れ去られそうになり、時代の波にさらわれそうになるけれど、誰かの祈りがその扉を支え、誰かの想いがその場を守ってきた。
そして、詩に託された心もまた――言葉を超えた想いとなって、その扉の奥へとそっと続いていくのだろう。
かつて、琉球の人びとは天と地、海と森、精霊ーー「しじま(沖縄ではシジメーとも呼ばれる)」と共に生きていた。
祈ることは、願うことではなく、耳を澄ませ、受け取ることだった。
その静かな祈りの風景は、長い年月をかけて島にしみこみ、今も風の匂いや、潮の満ち引き、鳥の羽ばたきのなかに息づいている。
この小説はフィクションです。
けれど、ここに描かれた拝所や人びとの姿、祈りのかたちは、かつて、そして今も、この島に生きる多くの人々の中に、たしかに存在してきたものです。
わたしたちは今、過去と未来のはざまに立っています。
文明の光がまぶしくなるほどに、影もまた濃くなり、祈りの声や見えない世界の気配は、時として聞こえにくくなってしまう。
だからこそ、私たちにはその静かな祈りの場所を、過去のものとして遠ざけるのではなく、未来へと手渡していく責任があるのだと思う。
なっちゃんがそっと語ってくれた拝所の物語は、見えないものを信じる力と、見守りつづける心の美しさを、私たちに教えてくれました。
そして私は今、胸の奥で静かに確信しています。
拝所は、これからもずっと――時が流れても、暮らしが変わっても、
決して変わることなく、私たち一人ひとりの心の奥に、静かに息づきつづけるのだと。
耳を澄ませば、きっとまた、あの声が聴こえてくるでしょう。
風のなかに、木漏れ日のなかに、そっと寄り添うようにして。