5.新しい名前で
階下へ降りると、リンジー様がご機嫌で玄関から入って来たところだった。
「リンジー様、お帰りなさい」
「ただいまぁ」
私にふらふらと抱きついてきたリンジー様からはお酒の匂いがした。
さっき見てしまったのは、酔った勢いでのことに過ぎないのかもしれないと、今は思うことにした。
そもそも、契約婚の妻と未来の正妻が同居しているこの暮らしこそが普通ではないのよね······。
私は内心苦笑した。
リンジー様にだってこの暮らしが面白くないとか、不満になるとか、ストレスもある筈だ。
彼女にも羽目を外したくなることもあるのかもしれない······。
「お話とは何でしょうか」
「ああ、リンジーのことなんだ」
私はドキリとした。
レイリー様はお茶を運んで来た侍女を下がらせた。
「リンジー様が···どうかしましたか?」
緊張で声がうわずってしまった。
「他家へ養女に出す話があったのだけれど」
「決まったのですか?」
その話だったのかと安堵した。
「いや、それが、父上がそれはどうでもよくなったようでね。リンジーを養女には出さなくてもいいってことになったんだ」
高位貴族にリンジー様を養女に出すのは、それなりに支度費用がかかるので、それを避けたいからお義父様は養女に出さなくていいと言うことにしたのかもしれないわね。
持ち直した事業を軌道に乗せる方が優先順位が高いのでしょうね。
「それは良かったですね!」
「ああ。···それでなんだけど···」
レイリー様がこめかみ辺りを指で掻いた。
これは言いにくいことがある時の彼が見せる仕草だ。リンジー様とのやり取りで困っている時にも時々目にしていた。
私はレイリー様が言わんとすることがわかってしまったと同時に、泣きっ面に蜂とはまさにこういうことなのだと思い知った。
「では、私はいつここを出て行けばよろしいですか?」
できるだけ平然を装い、笑顔で尋ねた。
リンジー様との結婚の障害が無くなったのだから、彼が契約結婚をこれ以上続ける必要が全くない。
経済的な立て直しも上手く行っていると聞いているから、三年を二年に繰り上げても大丈夫だろう。
「こちらの都合ばかりで本当に申し訳ない」
「いいえ、おめでたいことですから早い方がいいですわ。離婚届けにサインするので、いつでもおっしゃって下さい」
「それなんだけれど······」
レイリー様が言いよどみ、またこめかみを掻いている。
今日のレイリー様はいつになく歯切れが悪いわ。
「どうかしましたか?」
なおもレイリー様は逡巡し、非常に言いにくそうにしている。
「何か不都合でも?」
「······本当に済まない。実は···この結婚は入籍していなかったんだ」
「······え?」
例え契約結婚でも、入籍をしていないならば契約不履行になる。
それだと違約金が発生してしまう。
未入籍の上で資金援助を得たとなれば不正をしたのも同然だ。
騙したと訴訟になってもおかしくない。
でも、そんなことは誰も望んでいないし、私はもう驚くことも怒る気力も湧いてこなかった。
「なぜ入籍をしなかったのですか?」
「リンジーが白い結婚でも入籍するのは嫌だとゴネて聞かなかったんだ。こんな言い訳は通用しないとわかっている。それから君の将来のためにも戸籍を汚さない方がいいのではないかと勝手に判断してしまったんだ」
この人は本当にリンジー様に甘い。
甘いというよりも弱い。言いなりといってもいいかもしれない。
自分達の愛のためとか、自分の愛する人の意向を最優先にすると、他の誰かの権利や利益を損ねる行為、違法なことすらしてしまう······。
レイリー様のような本来は冷静な思考のできる人、常識的な人であってもそうなのだ。
そういうのは、本当の、本物の愛と呼べるものなのだろうか?
愛とか恋とか、私はよくわからない。
愛ゆえにという言い訳が、申し訳ないけれど、とても気持ちの悪いものに思えてしまうの。
「ロンダ、ごめんねぇ」
リンジー様はちっとも悪びれない。
何でも口先で謝りさえすれば、それで全て済むと思っている人のようだ。
悪気のない迷惑、それが最も質が悪いのよね。
しかも、魅力的な外見、不自然ではなく人に媚び、取り入ることをいとも簡単にできてしまう人は特に。
自分の責任の所在を魔法のように回避、ぼかしてしまうのは天才的ね。
周りの人間にとってはとても迷惑だけれど。
この二年間で、リンジー様の印象が随分変わった。
「君ならわかってくれる、許してくれると信じていたよ」
そう言うレイリー様も結構な大概かもしれないけれどね。
恋愛ってどっちもどっちなのかも。
彼とは本当の結婚ではなくて正解だったかもしれないわ。
入籍すらしていなかった契約上の夫とは、これ以上同居を続けることはできない。
私は家族ごっこ、夫婦ごっこをやめた。
もう、ごっこのような関係は二度と御免だ。
***
私は平民に変装して、宿泊中の宿から新しい戸籍を買いに某所へ向かった。
髪が見えないように目深にフードを被り、瞳の色を隠すため色つきの眼鏡をかけた。
以前読んだロマンス小説から得た知識が役に立つこともあるのだ。
その小説の題名と主人公の名前はもう思い出せない。歯が浮きそうな題で、読むのが恥ずかしいと感じたことだけ覚えている。
リンジー様が沢山そのような題の作品を寄越して来たからら、似たり寄ったりでもういちいち表題を全部覚えていないのだ。
それでもサーシャなんとかという作者の本に今回は助けられた。
カールソン姓は名乗れないし、ブレイク姓ですらなかった私だけれど、この際だからロンダという名も捨てることにした。
それが私が家族である証だと思い込んでいただけの、空虚な名前だから。
私のこれからの名前はノーマ·コネリー。
中心街から少し離れた裏通りにある、どんなものでも売っている訳あり様御用達の『なんでも屋』、表向きは金貸しの裏稼業。
以前、貴族学園の同窓生の親戚がそういう稼業をしていると、店の名前を噂話で聞いて知っていた。
「紹介者は?」
門前でそう聞かれたので、一か八かでその同窓生の名を出したら通してもらえた。
普通の店とは違う雰囲気がある店に入るには勇気が必要で、足がすくんでしまいそうだった。
目的の売場は三重の扉の奥にあり、ひとつ通される度に内心びくびくしていた。
頬に斜めに傷痕が走る係の男にじろじろと値踏みされるように見られて怖かった。
でも、どうしても必要だったから、最後は開き直った。
薄暗い小さな窓口で店員に提示された金額を渡し、なんとか手に入れた新しい戸籍。
きっと女で素人だと見下されて相場よりも高く買わされたのかもしれない。
今の自分にはこのような店で値切る交渉術と度胸は持ち合わせていない。
とにかく無事に戸籍さえ売ってもらえればそれで良かった。
ノーマという、伝説の魔女と同じ名前が気に入った。
私の遠いご先祖様の名前。
そこにほんの少しだけ繋がりができたみたいで心強かったから。
これから独りで生きていくのに、きちんとしたところで働くには戸籍が必要だ。
カールソン姓を名乗れたら、家庭教師や付き添いもできたかもしれない。
でもそれはもうどうしようもない。
私はもう貴族ではない。それに出自も明かせない。
カールソン侯爵家に引き取られていなければ、孤児として孤児院あたりで育っていただろう。
だとしたらきっと平民として生きていた筈だから、私の本来の生きて行く場所にやっと戻ったということなのかもしれない。
『あなたはあなたで幸せになってちょうだい』
別れの時の母の突き放すような言葉の中にも、私の幸せをそれでも望んでいてくれるのだと感じるのは私が甘過ぎるからだろうか?
私はこれからは平民として、新しい名前で幸せになろう。