第八十話
「私は当子様の女房の近江です。名前をお伝えいただくだけでもお願いできません?」
「女房殿であっても同様です。上皇様の命で誰も通すなとキツく言われておりますので」
「上皇様が?」
当子様を強制的に移動させて女房解雇だけでも不穏なのに、更に誰にも会わせてくれないだなんて。
一体、何があったと言うのだろう。
では文だけでも渡してもらおう。 車で待っている吉野が紙と筆を持っているはず。
そう思って車に戻ろうと足を踏み出した時、ギィーっと門が開き、邸内から大きな牛車がゆっくりと出てきた。
慌てて私は門番の横に戻った。
唐車――
廂屋根のある大きな唐車は、上皇様や皇后様、東宮様、摂政関白様あたりの方々のみ使用を許されているお車だと聞く。
私は檜扇で顔を隠しながら腰を曲げて体勢を低くした。
唐車は通りに出て方向を転換したところで一旦止まった。
「その者は?」
と頭上で声がかかる。
そっと見上げると、若い男性が物見の窓の御簾を片手で持ち上げて私を眺めている。
「は、こちら妹君の女房殿だそうで面会希望で参られたのですが、ご存知の通り上皇様の命で……」
妹君――当子様の兄君?
当子様には兄君が三名いらっしゃる。
そのうち唐車に乗られる身分のお方という事は――第一皇子の東宮様?
「ああ、なるほど、会わせられないのだな。女房殿、当子に会いたいのか?」
「はっ、はい!」
東宮様かも知れないと思うと、緊張して声が裏返ってしまった。
「人も文も一切通さないと母君に言われてな、私も会わせてもらえなかったのだよ」
え、文も?
しかも兄君ですら面会させてもらえないなんて……。
「一体どうなっているのかと、今から父君、つまり上皇のところまで訳を伺いに行くつもりなのだよ。当子の女房なら一緒に参るか?」
「えっ?」
私は驚いて見上げて東宮様かも知れないお方の顔を直視した。
当子様とよく似た睫毛の長い切長の瞳がこちらを見下ろしている。
「是非とも同行させてください。私の車で後ろをついて参ります」
唐車の後について、私の車も進む――ゆっくり、ゆっくりと……って、遅っ!
「唐車って、何でこんなにのろいのよ。これじゃ歩いた方が早いじゃない」
私はあくびをして車の中で寝転んだ。
「まあ、高貴なお方が徒歩移動なんてあり得ないのは分かるけどねえ」
「普通は姫君もなさいませんよ」
吉野は姿勢良く座ったまま、からかう。
私は車の天井を眺めながら、ちらっと吉野を見た。
「そう言えば、吉野と一緒に車に乗るのも久しぶりよね」
「近江から京までの移動以来ですわね。その前に京にいた時にはよくご一緒してましたのに」
「あの頃は市によく出かけたわね。小物など見て回って楽しかったわ。また行きたいわね」
吉野は目をパッと輝かせた。
「ええ、是非行きましょうよ。姫様の髪も伸びてきた事ですし、新しい髪飾りが欲しいですわ」
「私もいいけど、吉野自身のもね。吉野だって年ごろなんだから……」
車が急に止まった。
「どうしたの?」
起き上がって外の牛飼童に訊くと、
「中にいるのは月姫と吉野だね?」
と別の声が返ってきた。
これは――顕成の声?