まくら営業なんて言わないで
長いソファーベッドが置かれたラウンジへ腰かけた。風呂ではしゃぎ少々疲れた湊はそのまま横たわる。兵舎のベッドとは比べ物にならないクッション性の良さを堪能し、チュニックも肌ざわりがきめ細かく湊はため息をつく。
「はぁ~、こんなの元の部屋に戻れなさそう……」
「ではここへ住むか? 」
湊の目は点になった。
すかさずラルフが後ろへ横たわる。シングルベッドほどの幅しかないので、でかい男が乗ると非常にせまい。
「あっち、空いてますよ」
ラウンジには長イス兼ソファーベッドが幾つか置いてある。湊が抗議の声をあげると、ラルフは忍び笑いをした。
「近い」
「そうか? 」
「俺の国の文化ではパーソナルスペースって言葉があるんです」
「次からは気をつける」
反応がおもしろいのか後ろでラルフが笑ってる。ピッタリくっ付いてはいないけど相手の体温を背中に感じるくらいに近い、くやしいことにそれが心地よく感じる。初めての世界で初めて会ったはずなのに、どこか懐かしくて安心する。
「ラルフは、どうして親切にしてくれるの? 」
そぼくな疑問だった。道ばたの民衆にも称えられるラルフ、片や民衆に埋もれてしまう平凡なミナト。
平凡な男が一方的に神々の彫像のごとき男に目を奪われただけ、それとも向こうもなんらかの心緒を抱いているのだろうか、ただの憐れみや利益のためかもしれない。湊の歳にもなると自身の純粋な心さえ疑ってしまう。
背後の笑う気配が消えた。しばらく考えるように押し黙っていた口がひらく。
「親近感……? 以前から知っている気持ちになる」
お互い会ったこともないのに変な話だと、ラルフは笑った。
湊が抱いた思いとかさなる答えが返ってきて心は揺れうごく。これまで仕事ひと筋、ロクに恋人もつくって来なかった男はいきなり心のざわつく状況に放りこまれた。施しや憐れみ、カバンの中にあるめずらしい物が必要だと言われた方が楽だった。
うつむいていたらラルフが湊を包み、今までどこかで諦め心のすみに沈んでいたものが温かさで浮かび上がる。
ラルフは待機していた使用人を呼び、木製のテーブルへカップが運ばれた。黒曜石で作られたカップ、コーヒーや紅茶が飲めそうな取っ手つきの器は宝石や真珠の貝殻で色とりどりに装飾されている。
海をこえた砂漠の国の物とロマス帝国で模して作られた物、宝飾とともに研磨された黒曜石は光沢を帯び、光を吸いこむ色なのに輝きをはなつ。
ラルフが小さいころ祖父から譲り受け、ひと目見て気にいり集めているコレクションだった。彼はカップを持ちあげ賛美の言葉をつむぐ。カップを置いた手は湊の髪を梳いた。ドキリとして一瞬かたまったものの、髪を撫でる手が気持ちよくてクッションへ顔を沈める。
「奥ゆかしいのに艶やか、夜の闇のなかにある美しさ。黒の特権だと思わないか? 」
しずかにささやく低い声にふるえ、耳がくすぐったくなって湊は目を閉じた。
中庭が橙色に染まり建物の色がおちる。夕刻も過ぎて太陽が没する時間だと気がついた。
「もう日が暮れてる! 帰らなきゃ! 」
湊が立ち上がろうとしたら、夜は極力出歩かないほうがいいと引き留められた。松明を灯してる場所もあるけど足元は危険、おまけに路地の多い町中は迷いやすい。
「でもシヴィルやエリークが心配するかも……」
「シヴィルたちはミナトの行き先が私の邸宅だと知ってる。遅くなったら泊まるとわかるだろう」
安心して起こしていた上半身を再びクッションへ沈める。だが数秒後ハッとしてふたたび顔をあげた。このままラルフの家へ泊まれば、シヴィル達にあらぬ疑いをかけられそうだ。
「やっぱ帰る! 」
「なぜだミナト! まだそのカバンのつづきも聞いてないぞっ。ミラッ、ルリアナ! ミナトをもてなせっ、なんでもいい美味い菓子でも食事でも持ってこい!! 」
太い腕で湊の腰を羽交い絞めにしたラルフは召使いへ食事を持ってくるよう要求した。けっきょく御馳走に釣られ邸宅で一夜を明かすことになった。
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小鳥が鳴いて中庭のこずえを揺らす。
「この世界にもスズメっているんだ」
鳴き方はほぼ同じなのにスズメでさえも強そうに見えるのは湊の心もちだろうか、スズメに混ざってハトへ乗ったおっさん――もとい妖精が視界へ入ったけど見なかったことにした。
この世界へ来てから変なものを見るようになった。エリークの近くにいる光、ヴァトレーネの川にいたぶよっとしたなにか、エリークは『妖精』と呼び、湊もひとくくりに呼んだ。
迷いこむ原因になったのはキツネの妖精を追いかけたせい、しかし身のまわりの方が大変で妖精どころではないのだ。湊がアゴへ手を当ててうなっていると勢いよく扉がひらいた。
「ミナト! 起きたか! 」
身のまわりのトラブルが1人帰ってきた。日が昇ると同時に町の公衆浴場へ行ったラルフは、オイルマッサージで肌がツヤツヤになっていた。寝ていた湊も誘われたが体の痛くならないベッドへしがみ付いた記憶はある。
街で買ってきたパンがテーブルへならび、召使いのルリアナが茶とハチミツを用意した。
「甘い……」
兵舎の食堂はひたすら塩味だったので、ほのかに甘いパンを噛みしめる。兵士は朝と昼にしっかり食事をしていたけど、貴族であるラルフの生活はちょっと異なる。
「邸宅にも風呂があるのに、公衆浴場へ行くんだ? 」
「町人との交流でもあるんだよ。ついでに市場や店にも立ちよれば、取引している品物や品質がわかるだろ? 」
感心した湊はラルフの話に聴きいる。庶民の家には風呂がなく、入浴の習慣ができたヴァトレーネの人にとっては重宝する施設のようだ。ついでにパンへハチミツを塗るギリシア彫刻像はそれだけでいい男で見惚れる。
スプーンですくったハチミツはラルフの瞳の色、庶民にとっては贅沢で値段も高い。
「食堂の親父ごめん……俺そっちへ戻れるかな」
琥珀色のハチミツを口へ含んでつぶやいた。
昨晩ひと騒動あって歯ブラシがなくなり、木の棒で歯みがきして歯間ブラシを使った。目ざとく見つけて近づいて来たラルフが震えている。きっと武者ぶるいに違いない。
「ミナト……そのブラシは昨日の『歯ブラシ』とは違うのか!? 」
ラルフがこんなに歯みがきに熱心だとは知らなかった。帝国の貴族は歯みがきに熱心なのだという。
きのうの夕食後に何気なく歯みがきしていた時もラルフは震えながら湊へ語りかけ、奪い取った歯ブラシと歯みがき粉を両腕でかかげた。湊の制止をふりきりラルフが使用したため、歯ブラシの所有者はラルフになった。
言うまでもなく、阿鼻叫喚の図だったはずだ。
歯ブラシを他人に使われてしなびた湊へ、ラルフは高級馬毛歯ブラシの作成を約束した。
「これは『歯間ブラシ』、木のつま楊子とそんなに変わらないよ」
「尖った先に細かい毛がついてるぞ……!? 」
3メートル離れてるのにムダに視力はいい。湊は噛んでささくれた木の繊維だと説明して逃げた。
「ミナト、昨日の話は考えてくれたか? 」
「昨日って? ……あー……」
ここへ住まないかと言った事は本気みたいだ。ラルフの邸宅での暮らしはきっと快適でいいことづくめ、しかし決断できない。
「今日は、エリークやみんなの顔が見たいし帰り……ます」
目の前の金貨に跳びつけないのは湊の悪いクセだ。チャンスをみすみす見逃しているようなもの、安全な道を選ぶゆえの過ちに思えて下を向いたら名を呼ばれた。
「ミナト」
顔を上げるとふたたび名前を呼ばれる。ギラギラした太陽じゃない、あたたかい木もれ日の顔でほほ笑んでいる。大きな手のひらに顔をつつまれおでこへキスされた。
「何時でも待ってる。来なかったら迎えに行く」
太陽のようにかがやく瞳が湊を照らした。兵舎へ向かう兵士の馬に送られてるあいだ、ずっと動悸がおさまらず部屋へ帰っても放心した。