飛ばされたリーマンは無職になった
昨夜、取りしらべを受けた建物へ通された。壁ぎわの棚へたくさんの書物が置かれ、事務的な仕事をおこなう部屋のようだ。背もたれのあるカウチへ腰をおろせば、いままで座っていた木の椅子がガラクタに思える。
ツァルニは筒状の書類をひろげ、金属製の尖ったペンで文字を綴っている。トルコを彷彿とさせるオリエンタルな顔立ち、無愛想かつ鋭い表情なので気づかなかったがこちらも見惚れるほどいい男だった。
湊がぼんやり眺めていたら、ニコリとも笑わないツァルニは1枚の紙を差し出しサインをするよう求めた。
「ここへ署名を」
「へあっ!? ……あのぅ、書かれてる内容が読めないのですが」
ローマ字に似た字だというのはわかるが、単語や文章としてはまったく読めない。困っているとツァルニは書かれた文章を読みあげた。ここはロマス帝国に属するプラフェ州と呼ばれる地域、内容は住む上で守らなければならない帝国の法律への同意と湊の情報だ。
「いまのミナトの住所は兵舎に隣接する建物だが……、兵士になる気はあるか? 」
ツァルニの問いかけに湊は首がとれるくらい真横へブンブンふった。ジム通いで鍛えた身体だが、軍隊経験もなければ格闘をしたこともない平和な国のサラリーマン。そもそも昨日から出会う男たちとは体格に差がありすぎ、きっと肩がぶつかっただけでも吹き飛んでしまう。
あわてた様子の湊に目元を緩めたツァルニは他の案を提示した。
「そうなると、あの建物からは転居しなければならない。町へ住むにしても働き口を探す必要があるが、新しく生活を始めるならヴァトレーネの町は最適だ」
現在の部屋は兵士たちに用意された国の住宅、町の中心から離れた場所にある。出ていくまで余裕はあるけど町で暮らすのも色々と費用はかかる。
身元不詳の男をしばらく置いてくれるのはありがたい。しかし持ち物もなく着ていた服だけ、大使館があれば自国へトンボ返りできるかもしれない。
「ほんとうに東の果てに日本という島、ないんですかね? 」
「ラルフ様から聞いている。東方の知人にも尋ねたが、東のはしに水耕栽培で生計を立てる民はいるが大陸内だそうだ。南の沿岸部にある小さい島を除き、国を建てられる海の島は数えるほどしかないが日本という国はないな」
「あー……やっぱりそうですか」
ダメ元で聞いてみたが帰ってくる答えは同じだった。確かめに行くにしても何カ月もかかり、準備も必要になるとツァルニは説明する。ガックリうなだれた湊は書類へサインしたあと退室した。
見たことのない場所、現代と異なる服装、古い式典でもないのに馬車や馬へ乗る習慣。最初はタイムスリップしたのかと思ったけどわからない、湊は外側の回廊から空をながめた。遠い上空にうかぶ雲のかたまりは、あきらかに異質で神殿のようにも見える。視界へ入ってしまった湊の世界にはなかったもの。
「どこなんだよ……ここ」
迷子のつぶやきは風にのって消えた。
「……気を取りなおして情報収集だな」
飛ばされたサラリーマンは無職になった。ツァルニの情報から他の職をさがす必要がありそうだ。
回廊を歩きまわれば3階建ての住居がみえた。湊の世界でいうところのアパートだ。訓練を終えた男たちが回廊をぞろぞろと歩いてくる。この国の人は平均的に背が高く、湊は汗くさい群れに埋もれた。まったく癒される光景ではない、男たちは気にする様子もなく湊ごと移動する。
その足元へ可愛らしい少年が懸命についてくる。
「エリーク! 」
「お兄ちゃん! 」
天使のごとき少年を見つけて声をかけた。太もも丈のチュニックから伸びるむさ苦しい大腿筋の群れにまざって歩いている。
「エリーク、知ってる人? 」
兵士のなかでは若く細身の青年が口をひらいた。エリークが説明すると青年は握手を交わし湊を引きよせる。細いと言っても兵士のひとり、力は強い。
「うわっ!? 」
「僕はシヴィル、よろしく」
ハグされて頭上から声が聞こえた。突然の行動でビックリしたけど、こちらの挨拶の仕方みたいだ。気さくなシヴィルと会話しながら歩いていると数人の兵士たちが水浴びしていて、彼もチュニックを脱いで水浴びを始めた。これが美女ならうれしいけど実際は筋肉の群れ。
兵士たちに倣ってシャツを脱ぎ水浴びをする。しかしキレイな川から引かれた水は冷たく、文明的な生活を送ってきた湊にとっては少々辛い。
同じシャツを着ようとしたら、シヴィルが兵士の支給品の服を持ってきてくれた。紐止めのトランクスに木綿布を重ねて縫っただけのチュニック、腰元を紐で縛るとサイズが大きくだぶついた。服を洗濯へ出せるようだが、一張羅のスーツは手洗いして部屋へ干すことにした。
「ミナトの髪、夜色だね~」
手ぬぐい布で髪を拭いていたらシヴィルが手伝う。染めてない黒髪は自国では珍しくもない色だがこの国では少ない、ツァルニのように黒っぽい毛色の人もいるけど灰褐色のまざったブルネットだ。
「お風呂みたいなのって無いの? 」
「風呂? 風呂ならあるよ」
丈夫な兵士と違って毎日水浴びはきびしい、ところがあっさりした口調で答えが返ってきた。兵舎の向こう側に浴場があると聞き、ムダな水浴び時間を過ごしてしまった湊はうなだれる。田舎の村出身のエリークに至っては風呂の概念すらない。
「えぇ……じゃあここで水浴びしてるのは何でだよ? 」
「住居とは反対側だし、メンドウクサイから? 僕も寒い日しか入らないかなぁ。ツァルニは暑い日も寒い日も長風呂だよ」
シヴィルは肩をすくめて浴場まで案内してくれた。銭湯に似た石造りの浴室を兵士たちは利用している。武士のごとく湯へ浸かったツァルニを発見して親近感がわいた。
兵舎のまわりは兵士の住居と入浴施設、近くの山には見張り台がある。街道を南へ下れば町が見えた。周辺を調べてるうちに夕食の時間になり食堂へ向かう。
夜警を除き、明るくなれば起き、暗くなれば寝る生活の兵士は多い。活動時間中にたくさん食べるため夜の食事は質素。昼間の物より薄くて食べやすいパンへチーズが添えられ、葡萄酒は浴びるほど用意されていた。
朝は麦粥を食し、だいたい毎日同じメニューらしい。ここにはグルメはいないと湊は確信した。
「うまい食事だって? 僕は酒があったら充分さ! 」
酔ったシヴィルは湊と肩をくむ。細面のイケメンなのに手づかみで食べる様は荒々しい。湊の国の食事情を話すと身を乗りだし、タコやイカ料理について熱心に聞いている。この国も海側の一部で食べるものの、内陸出身のシヴィルは見たことがないようだ。
「ヌルヌルの足だらけを食べるの? なにそれ、おもしろ~い。ツァルニ、こんどお土産に買ってきてよ~」
「気をつけろミナト、シヴィルに変な物を教えると収拾がつかなくなるぞ」
チェシャ猫のように笑うシヴィルの横で黙々と食べていたツァルニが忠告した。その後、底なしの酒飲みたちに付き合わされそうなところをエリークに助けられ無事部屋へ帰った。