暗転
ヒギエアとアレクが目に見えない戦いをくりひろげる間、シハナに案内されてラルフの部屋を訪れた。窓の日差しがヘーゼルナッツ色の髪とまつ毛を煌めかせる。目元はあかるく照らされているのに眠ったまま、ベッドへ横たわった彼は芸術作品みたいで時をわすれ魅入った。
2人の兵士を背負い川のなかで長時間冷えたこと、蛮族との戦闘のくり返しで負担が溜まり回復は数日かかると医者の見とおしだ。
会えば跳び起きてくれるかもしれない、心の片すみで考えていた湊はがっかりした。だけど眠るラルフの顔はとても穏やかで誰もいなければキスしたかった。
「せっかく訪問したのだから、風呂へ入って汗を流すといい」
ヒギエアとの交戦がおわったアレクが湊を上から下までながめて言った。いまの湊はラルフといた時とはちがい、オイルで肌を清潔に整えるどころか何日もあたたかい風呂へ入っていない。
毎日テント近くの川で水浴び、チュニックは兵士の物といっしょに洗いヨレヨレ、おかげで服も髪もゴワついてる。とても貴族のまえへ立つ格好ではなかった。ラルフがいても同じように言われただろうかと苦笑した。
ラルフの兄へ借りをつくるのは気が引ける。しかし嘲笑されてる気がして恥ずかしくなった湊は脱衣所へ向かった。
「はぁ……」
楽しみだった風呂なのに自然とため息がでる。
こっちの風呂は地下が周辺の浴場とつながり、2つの浴槽とサウナみたいに熱気のこもる洗い場があって充実してる。ヴァトレーネ邸の風呂は広いけど湯加減はぬるめだった。
「どうした? 脱がないのか? 」
背後で聞き覚えのある声がして湊はうごきを止めた。
この国の風呂文化はラルフのおかげで慣れたと思っていたが浅はかだったようだ。服をぬぐ音が背後でするけど、うしろをふり返ることは到底不可能。
「君は風呂をたしなむ文化圏だときいたが? 」
「そっ……うなんですけど緊張してしまって……」
「使用人に洗わせるから、はやくその服を脱ぎたまえ」
アレクが不満そうに唸り、すっぽんぽんになった湊は体を隠す手ぬぐいを探した。
心が無になるほど深呼吸をくり返し、大理石の浴場へ踏みだす。アレクはすでに洗い場の台へうつぶせに横たわっていた。樹木の幹のように雄々しく隆起した筋肉と尻が視界へはいる。
「そこへ横になりたまえ」
真横の台をすすめられて、ぎこちなくうつ伏せになった。見た目のりっぱな風呂係がオイルをゴシゴシと塗り、湊はなるべく気配を消して身をまかせた。目を閉じていればムキムキの風呂係も気にならない。
目を開けたとき叫びそうになった。片肘をつき台へ横たわるアレクはこちらを向いていた。黄金色の瞳はオイルを塗られた体のごとき煌めきを帯び、男の象徴を隠そうともせず堂々と曝している。
どうしてこんなに自信があるのかよく分からないが、とにかくすごい自信で湊は圧倒された。
筋肉係――いや風呂係に体をひっくり返された湊はオイルかきのヘラを自身の手におさめ、この時ばかりは勝利した気分になった。怪訝に首をかしげるアレクへ湊の国では体を洗うのにオイルは使わず、個々ですることなのだと説明した。風呂文化における日本と帝国のちがいだ。
「ほほう、庶民の家にも風呂があるのか……それは発達した文化だな」
帝国には『風呂=文化』の認識でもあるのだろうか、うなる彼が足をのばせば風呂係は懸命にヘラかきをしている。風呂の話は尽きないけれど、アレクはどことなく危険な香りがして先進的な話はしないよう努めた。
ライオンの口から出てる噴湯でオイルと汚れをながす。
さきに浴槽へいったアレクは深いところを歩きまわっていたが、石段へ座った湊のとなりへ肘をかけた。水面下にリラックスした彼の雄々しい影が映る。
「本土の入浴場を見せたいものだ。天空へ届きそうな天井、趣向を凝らした飾りと湯の数々、読書に食事、文化と芸術を語ることもできる。ああ……そういえば、どこかで野菜を育てている老人も散財した大浴場を自慢してたかな」
腕を天井へかかげ語ったアレクは皮肉めいた顔で笑った。
「髪と目は黒なのに肌は白いのだな」
とつぜん話題が逸れて反応がおくれた湊はアレクに捕まってしまった。大きな猛獣が小鹿をもてあそぶように逞しい腕に押さえられる。彼は熱さでピンクになった湊の肌をバラの花びらにたとえた。
「君はいろいろと面白そうだ。青くさいラルフではなく、私のところへ来る気はないかね? 心配しなくとも優しくしてやろう」
たまには弟のものを奪い取るのも一興と、アレクは高言する。湊はきっぱりと辞退したが解放されない、ことわった数だけ興味をもたれる。石段のすみへ追いつめられ、傲慢な猛獣と真正面から対峙する。
アレクの声音が低くなりラルフについて語った。ラルフの母親は北の国から連れてこられた北方の光りと謳われる美しい女性、等しく父の血でつながり太陽のごとくかがやく弟はアレクにとって替えのきかない唯一無二の存在。
「わが家の栄光と象徴だ。いまだにあの美しい髪を『蛮族』などと呼ぶおろか者がいる。私が皇帝の座を欲するのは、そのような輩を黙らせることができるからだ。君はラルフのために何ができる? その非力な腕でヴァトレーネを奪還してみるかね? 」
力の化身は湊のあごを持ちあげた。
「ヒバリのように鳴いて私を篭絡すれば力を貸してやらぬこともない」
ひくい声でささやかれて血の気が引く、だが湊は獅子を睨みつけた。力いっぱい両腕をつっぱね、ビクともしない巌の体を押しかえす。
もがく姿を見ていたアレクに嘲られ、血がのぼった湊は彼を平手でうった。距離が近すぎて掠ったくらいだけど皇帝の座をねらう男へ危害をくわえた。後もどりできない状況に青ざめながらも全力で睨みつけると、アレクはついと口元をゆるめる。
「ククク、最初に会った時から跳ねっかえりだと思っていたが、どんな事になるか理解したうえで反抗するのか。じつに面白いな」
湊を解放したアレクは浴槽からあがり一瞥する。
「……いまは弟とディオクレスを敵にまわす気はない。ここへの立ち入りを許可しよう、だが己の立場はわきまえろ」
身をひるがえしたアレクは浴室から去った。嵐が過ぎ呆然とした湊はフラつきながら冷水のところまで歩く。脱衣所へ着いたところでダウンしてしまい、風呂係によって1階のソファーへ運ばれた。
ヒギエアはケガ人のもとへ呼び出されていた。扇いでくれたルリアナはアレクに呼ばれて用事を申しつけられる。あますところなく力関係を見せつけられ悔しさがにじむ。
屋敷を飛びだした湊はヴァトレーネの兵士たちがいるテントへ走った。カバンから差し入れを渡しラルフの状態を伝えたら、眼帯をしたツァルニは安心した様子で口をひらいた。
「……そうか良かった。ミナト、俺たちは前線へもどる」
「え……? 」
ケガも完治してないヴァトレーネ兵は前線へかりだされる。大がかりな奪還作戦が立てられ多くの兵が動員される。目的地の北城塞都市には大型兵器が待ちかまえている。帝国は兵士による人間の盾も辞さない作戦を遂行する気だ。
「そんな……人は使いすての道具じゃないんだ! 」
拳を握りしめてノドの奥から声をしぼりだせばツァルニに頭をなでられた。肩を落としてテントを出るとシヴィルが待っていた。頭をかき眉をしかめながら笑うシヴィルは、いままで見たことのない表情だった。
「今度はさすがにダメかも……ミナトたちは生きのびろよ」
シヴィルにも頭をなでられた。
「なにか……なにかか方法はあるはずなんだ!! 」
走っていたらヴァトレーネが見える丘にいた。町は鎮火して、夕方の鐘のようにカタパルトの稼働する音がきこえる。
空は黄昏にそまり太陽は彼方へしずむ、湊は唇をかみしめてヴァトレーネをながめた。
「「あっ」」
目が合って同時に声をあげた。
ヴァトレーネへつづく森のあいだから白い顔がこっちを見ていた。見覚えのある白いキツネ。おどろいて声をあげるとキツネは逃げ、湊はあとを追ってはしった。