もうひとつの太陽
「熱ぅー」
風呂場は蒸気がこもり、熱と湿気が肺へながれる。汚れをとるためオイルへ手を伸ばした瞬間、風呂担当の使用人がさっそうと現れ、湊は大理石の台へうつ伏せにされた。
オイルマッサージで体が温まりよごれも落とされてゆく。オイルを掻くヘラは背中をすべり、最初は恥ずかしかったが至福の時間になりつつある。
「うわっ、前は結構です! 」
目をつむってうつ伏せになっていたら、使用人に体をひっくり返された。慌てた湊はヘラを受けとり自身で隅々の汚れをおとす。オイルを流して熱めの湯につかれば温泉へきた気分、じゅうぶん温まったあと隣の浴室へ移動した。
泳げるサイズのプールを見て心踊る。ぬるめのお湯は火照った体をゆるやかにクールダウンさせる。周囲にだれもいないことを確認し、ここぞとばかりに泳ぎまわった。ひとしきりはしゃいでいたら浴槽の真ん中で足を攣った。心は少年へ帰っても体はおっさんのままだった。
湊は溺れるように水かきして浴槽の縁へ向かった。足が痙攣して沈みかけたところへ誰かが飛びこみ救出された。
「ありがとう、ラ……」
礼を言うため顔をあげるとラルフではなかった。黄金色にかがやく瞳なのに別人が湊を抱きあげていた。ラルフより成熟して雄々しい風体、腕はどっしり重い木材みたいで指も節くれだっている。
「これはこれは、風呂で黒真珠を発見したようだな」
節くれだった指は湊のアゴへ添えられ、黄金色の瞳が細められた。日に透けて金色になるラルフの髪とはほど遠い栗毛の短い髪、湊とおなじくらいか年上の男が見下ろしてる。不敵に笑った男は湊の体を引きよせた。ビックリして押し返したけど、ぶあつい胸板と丸太のような腕はビクともしない。
「放せっ! 」
男の顔が近づき、湊は両腕を突っぱねて抵抗した。男はやや不満そうな表情で首をかしげる。
「溺れるふりは斬新だったが、ずいぶん跳ねっかえりだな。それとも、そのような演技か? 」
か細い体に興味をそそる黒真珠の瞳、そう言って笑った男の手は湊の首すじを伝う。湊が華奢なわけではなく、この国の人間が頑強でデカいだけ。自国では標準的な体格にめずらしくもない黒い瞳だとアンチテーゼを唱えたくなった。
以前うんざりした顔のラルフから、帝国の大衆浴場にはそれ目的の男女が待ちかまえてると聞いた事があった。思いだしてきっぱり否定したが、湊を捕らえた男は獲物を品定めしている。
「アレクッ! ミナトをはなせ! 」
険しい声で叫んだラルフがプールへ飛びこんだ。
今度はラルフの腕へ捕えられ、黄金色の瞳をもつ者同士が相対した。牙をむくラルフに対して相手は余裕の笑み、獲物を奪われた男は肩をすくめ大げさに溜息をつく。
「じつにおまえ好みの色だな。帝都の邸宅へ招待したらどうだ? 愛しい弟よ」
「彼はそんな相手じゃない! 」
ラルフは獅子のまえで虚勢をはる若い狼のようにアレクへ食ってかかる。獅子の瞳はこちらを値踏みしながら見ていたが、ラルフが本国へ戻ることに難色をしめすと口から笑みは消えた。
「いい加減もどってきて我がもとで功績をあげろ。日和見の老人どもを蹴散らして共に栄光をつかむのだ! 」
節くれだった指をラルフの頬へそえた男は尊大にささやく。獅子の口元はふたたび笑みを浮かべ、去りぎわに湊を横目で一瞥した。ラルフは厳しい表情でうつむいていた。心配になって名を呼ぶと、いつもの顔付きになって湊の髪をなで梳く。いままでビクともしなかった彼の足元をあの男が揺るがした気がした。
豚もも肉がハム状にうすくスライスされテーブルへ運ばれる。向こうの席ではキャベツ爺さんとラルフ、加えて風呂で会った男が会話を繰りひろげる。ぼんやりテーブルを眺めていたらヒギエアの声がきこえた。
「カエサル・フラヴィオス・アレクサンドロス」
湊が覚えきれずに聞きかえせば、葡萄を口へ放りこんだヒギエアは説明をつづける。年の離れたラルフの異母兄、いままさに分裂の危機にある帝国において強大な軍事力を所有する男。古代の英雄の名を冠したアレクサンドロスは野心的で策略家、冷酷さも兼ねそなえている。
「どうしてあんな男と鉢合わせちゃったのかしら? ラルフがあとで荒れなきゃいいけど」
ヒギエアの話を聞くかぎり兄弟仲はあまり良くなさそうだ。ディオクレスを取り巻いた席では和やかな交流がおこなわれている。ふだんと変わらない様子のラルフにもやもやした湊は目の前にあったワインを飲み干す。
ディオクレスの招いた劇団は歌や踊りを披露して客人のいるフロアはにぎやかだ。万年雪の山から運ばれた氷が展示され、使用人がテーブルをまわり氷をワインへ投入する。冷えて喉ごしのよくなったワインがすすみ、酒に強くない湊はあっというまに酩酊して眠たげな顔になった。
「ご婦人はうわさ話かな? 」
バリトンより低音の声が近づき、ラルフと同じ瞳をもつ男がヒギエアのとなりへ腰を下ろした。ソファーへ片肘をつき、もたれる姿は堂々としたライオン。ヒギエアの片眉はわずかに動いたが社交的な会話を交わしている。
西海諸国の情勢に帝国の行事、湊には理解できない話がつづく。ヒギエアと杯を合わせたアレクサンドロスは、遠征後の凱旋で馬に引かせる戦車競技へ出ないかと誘った。
「わが弟も戦車の強者で熱烈な支持を得てる。君が参加すれば、大会はさぞ華やかになるだろう」
「遠征は終わっていないのでしょう? すでに正帝の座へついた気でいるのね」
棘のついた言葉にアレクサンドロスは唇のはしを上げた。黄金色の瞳は野心的な笑いをふくませ、自信に満ちた姿でソファへ横たわる。
「来たるべき未来の話だよ。となりの君もラルフの勇姿を見たくはないかね? 」
高慢な男の瞳から黄金が流れ出しまとわりつく、年数を経たオリーブ幹のような腕がこちらへ伸びる。
「ミナトは私の大切な友人だ。ぞんざいに扱うな」
口を真一文字に結んだラルフがアレクの手を払いのけた。斯くして酔った湊は宴のフロアから無事連れ出された。
度数の強いワインでまともに頭がまわらない、宴の会場から抜け出せたのはありがたかった。ゲストルームで就寝準備をした湊はベッドの上でかるく伸びをする。ラルフのことが気になってマクラへ突っ伏しながら考えてると、入り口付近に人の気配がした。
立っていた気配はすぐ無くなり、いそいで後を追う。
「ラルフ! 」
暗い廊下で大きな背中が動きを止め、ヘーゼルナッツ色の髪がふり向いた。
「夜遅くにすまない、ちょっと顔が見たかった」
さっき会ったばかりなのにラルフの瞳は暗闇にかげっていた。憂いの原因となる人物はわかる。湊は大きな手を引っぱって部屋へ連れていき、ひとつベッドへ横たわる。本宅とおなじ体勢で彼と見つめ合う。
「ミナト……私が帝都に嫌気がさして逃げてきた、と言ったら軽蔑するか? 」
息子には無関心だった父、功績を挙げのし上がることに必死な兄、自分への票にしか興味はなく隙あらば優位を保つため利用しようとする貴族たち、そんな帝都が嫌になってプラフェ州へ移動したとラルフは話す。
「この瞳の色や戦車に乗る私を太陽だと称える者もいるが本当はちがう。はやく沈んでしまいたい、夜の静かな場所へ」
言葉は夜の闇へ深く吐かれた。湊が伸ばした指先は大きな手のひらへ触れる。向こうから握りかえされて脈打つ血汐が伝わる。湊は只々息づき眠る正面の闇を見つめた。