ITCH #2
――銀陵市。
明ノ島の副都心とも呼ばれるこの都市は、中国や東南アジアにルーツを持つ住民が多く、その街並みは上海に極めて近い。急速な経済発展は止まることを知らず、二十年前の上海のように〝魔都〟の異名さえ囁かれ始めていた。
中心部の空ではホログラム投影によって産み出されている龍が悠然と泳いでおり、その光景は明ノ島の新たなシンボルと成りつつある。観光パンフレットなどでもこの〝空煌龍〟は必ずと言っていいほど掲載され、国外の人々の羨望を集めていた。
だが、華やかな都市発展の裏には必ず闇が潜む。
銀陵市もまた中華マフィア〝黒山幇〟の支配下で成長を遂げた街だった。その影響力は市議会にまで及び、明ノ島島警も黒山幇には逆らえない。
市の東部に隣接するスラム・西油地区と、その更に東に位置する歓楽街・紅鶴華路は黒山幇の縄張りであり、銀陵市の発展から零れ落ちた全てがここに堆積していた。
西油地区にほど近い銀陵市東部に一棟のビルが聳えている。
瑞鼎大厦――表向きはただのオフィスビルとしてマップにも記載されているが、その正体は黒山幇のアジトだ。
地上二十階建てのこのビルには数多の企業が入居しているが、いずれも黒山幇のフロント企業に過ぎない。十六階以上は富裕層向けのホテルを装っているが、実質的には組織の社交場として機能していた。
そして最上階――銀陵市の街並みを一望できるその場所に、黒山幇パシフィカ支部ボス、陳明剛の〝玉座の間〟はある。
「――奪取、ですか」
赤と金で彩られた豪奢な室内に、抑揚を失った低い声が響く。
許は背後で両手を組み、デスクで煙草を燻らせる陳明剛を無表情に見据えていた。
「龍頭からの命だ。まったく、好き勝手言いおって」
陳は吐き捨てるように言い、ガラス製の灰皿に煙草の灰を落とした。
デスクにはウイスキーの注がれたカットグラス、龍の金細工の施された万年筆、アラベスク模様の拳銃が並んでいる。陳は肥え太った己の外見も、肥大した自尊心も、豪奢な装飾で誤魔化すことに執着しており、この部屋の意匠もまた、その悪趣味な価値観の表れに他ならなかった。
「だがまあ、ヴォルコフの死で組織が混乱している今、あの化け物を我々の手中に収められれば連中の権威はいよいよ失墜する。そう考えれば悪い話でもなかろう」
「……賛同いたしかねます」
机を叩いていた陳の指がぴたりと動きを止める。
普段一切意見を口にしない男の初めての〝反対〟に、陳はいささかの驚きを露わにしていた。
「ストラースチですらあの男を制御しきれていないように見受けました。安易に手を出すのは危険かと――」
鈍い音が許の言葉を遮る。陳が投げたカットグラスが彼の額に直撃したのだ。グラスは再び重たい音を立ててカーペットに落ち、ゆっくりと転がっていった。
一拍を置いて許の額から血が流れ落ちていく。その血が瞳の中に入ってもなお彼は眉ひとつ動かさず、無機質な眼差しのまま陳と向き合っていた。
「お前はいつから俺に意見できる立場になったんだ、ええ?」
「申し訳ございません」
「意見など聞いていない。俺はお前に『ストラースチが持ち込んだ獣を奪え』と命令しているのだ。わかるか?」
「はい」
「で? 出来るのか」
「善処はいたします」
その曖昧な返事に、陳は深くうなづきながら手招きをする。
許が指示通りデスクに近づいた瞬間、陳は立ち上がって許の髪を乱暴に掴み、顔を引き寄せた。
「これは本国からの命令だ。失敗は許されん」
陳は威嚇するように目を見開き、めいっぱい顔を近づけて凄む。
対する許はこの後に及んでもまだ表情を変えず、切り傷のような目で陳を見るばかりだ。額から流れている血は顔の左側を赤く染め、顎からポツポツと滴り落ちていた。
「例の獣を奪取出来なかった場合、お前の命はないと思え。いいなッ」
「承知いたしました」
忌々しげに鼻を鳴らし、陳は乱暴に許を放す。
許は顔の血も髪の乱れも気にする様子がなく、そうプログラミングされているかのように元の位置へと戻っていった。
「まったく、どこまでも気味が悪い男だな……。龍頭はなぜお前のような奴を寄越したんだ」
独り言と判断したのか、許は返事をせずじっと陳を見つめ続けている。その暗い双眸には何の感情も宿っていない。ぽっかりと空いた穴のようだ。
パシフィカに現れてから半年。その間、許という男の正体を誰一人として掴めていなかった。
許偉賢、三十八歳。四川省出身――はっきりしているのはそれだけだ。
龍頭直々の紹介とあって、誰もが本国での輝かしい実績を想像した。だが、調査を重ねても実績はおろか本国で活動していた痕跡さえ見つからない。まるで、この世に存在しない人物を探すかのようだった。
龍頭の血筋かとの噂も流れたが、それすら確かめようがない。龍頭自身、パシフィカへ送り込んで以来、許について語ることは一度もなかった。
仕事の腕は確かだ。それだけに、その無機質な眼差しと底知れぬ正体が陳の神経を逆なでしていた。陳は仕事の失敗にかこつけて本国へ送り返すことを画策しているが、現状いずれの策も失敗に終わっている。
「老大」
淡白な声が陳を呼ぶ。
「例の男と共に来島した科学者はいかがいたしますか」
「共に連れてこい。だが、抵抗するなら始末して構わん」
「承知いたしました」
許は会釈をし、踵を返す。
ストライプのスーツを着て誤魔化しているようだが、その背中は広く、スーツの下に鍛え上げられた肉体があることを物語っていた。
「許」
「はい」
許は足を止め、静かに振り返る。
「表沙汰にされていないが、ヴォルコフを殺したのはあの悪魔だそうだ」
「悪魔……アーサー・ベイリアルのことでしょうか」
「そうだ。大方、裏ではポローモフと繋がっていたのだろうが……奴がポローモフに忠誠を違っているとは思えん」
灰皿に煙草の灰を落とし、陳は下卑た笑みを浮かべた。
「お前はあの悪魔に気に入られていたようだったからな。魂を差し出すとでも言えば、案外靡いてくれるかもしれん」
「彼に接触しろとというご命令でしょうか」
「そうだ。奴であれば〝兵器〟の情報も多少は持っているだろう」
「彼からの情報が真実である保証はありません」
「こちらに付く気がないと判断した場合はそのまま殺しても構わん。ストラースチが瓦解すれば、ファミリアもどのみち潰れる」
「……承知いたしました」
再び陳に背中を向け、許は今度こそ部屋を後にする。
扉の閉まる音が静かに響き渡ったあと、陳は悍ましいものでも見たかのような声音で、
「――亡霊め」
そう吐き捨てた。




