ITCH #1
十八年間灰色一色だった世界が赤く明滅している。
サイレンの音、銃声、怒声、叫声、悲鳴――その全てを置き去りにして、コンクリート張りの無機質な廊下を駆け抜けていく。
撃たれた脇腹が熱を持っているが、アドレナリンが出ているのか不思議と痛みは感じなかった。
横目で傍らを見れば、そこには自分と同じように必死で逃げる の姿がある。
おそらく他の人間はほとんど死んだのだろう。銃声が絶え間なく聞こえるということは、今こうしている時も同胞達が殺されているということだ。
それでも振り返りはしなかった。
此処では命など床に溜まった埃と同等の価値しかなく、生き延びられなかった人間はそれこそゴミとして扱われる。今こうして此処に立っている――それが全てだ。
――そう、ゴミクズ。
奴は今日、ゴミになった。
ついさっき が殺した。
だから、この地獄は今日で終わりだ。
「畜生、どこまで続いてやがるんだ……ッ」
あまりにも長い廊下を死に物狂いで突き進んで行く。
この先に出口があるのかどうかも分からない。地上へ近づいているのか、あるいは地下へ潜っているのか、それさえ不明だ。
ひとつだけ確かなのは、十八年の間この廊下を歩いたことは一度足りとてなかったということ。この廊下は常に鉄格子で閉ざされていて、マシンガンを持った教官連中が見張りに立っていた。
これは賭けだ。
ゴミ同然の命を賭けた、最初で最後の賭け。
廊下の先に出口がなければ、あるいは出口が封鎖されていたら――その時は、このまま沈みゆく地獄と運命を共にするほかない。
「おい、あれ見ろ!」
が前方を指さす。
永遠に続くように思われた灰色の先に長方形の〝白〟が見える。景色を鋏で切り抜いたかのような、小さな空白が。
「出口、なのかよ?」
「行けば分かる」
自然と走る速度が上がった。
近づくほどに白い長方形は大きくなり、涼しい空気が前方から流れ込んでくる。辺りが涼しさを増すにつれ、この場所に染みついていた血と死体の臭いが薄れていくような気がした。
よく見ると、長方形の先には青い空と雲が覗いている。映像でしか見たことがなかった本物の青空だ。
縋るように切り取られた青空へと手を伸ばす。掴めないと知ってもなお、そうせずにはいられなかった。
十八年間、ずっと自由を求め続けた。
この灰色の地獄から抜け出すことを夢見ていた。
それが今日、ようやく叶う。
ようやく――。
……
「……ァ」
ぼんやりとした頭に断続的な電子音が反響する。
〝獣〟は夢の中でそうしていたように腕を持ち上げており、筋張った巨大な手は前方へと伸ばされている。だが、その先にあるのは切り取られた青空ではなく、痩せた男の不気味な笑顔だ。
「おはよう、チーグル君」
薄暗い部屋にざらりとした声が響く。
〝獣〟は持ち上げていた腕を力なく下ろした。その動きに合わせ、太い手首に繋がっている鎖が音を立てた。
〝獣〟の体には鎖だけではなく何本ものコードが繋がっており、右のこめかみに突き刺さった電極からはひときわ太いコードが伸びている。接続されているモニタには先ほどからコーヒーの染みめいた模様が映し出されており、シームレスに変化し続けていた。
「夢を見ていたのかね?」
その問いを投げかけられた直後、抽象的な模様がどこか刺々しい形へと変化する。まるで不快感を露わにしているかのように。
「……多分、そうだ」
「どんな夢だった?」
「覚えてねえ」
「そうかね。それは残念だ」
話はそれで終わった。
この科学者――サーフィットという名の男は、よく喋るくせに話の内容自体にはあまり興味がないのか、面倒な詮索はせず会話をあっさり切り上げることが多い。〝獣〟が数いる科学者連中の中でサーフィットにのみ懐いているのは、その淡泊さが理由の一つでもあった。
〝獣〟は両手首に嵌められている手枷をいとも容易く破壊し、引きちぎって床に放り投げる。だが、椅子から立ち上がろうとはしない。そして、サーフィットもまた〝獣〟の行動に対して特段の反応は見せなかった。
「なあ、博士」
「うん?」
「ヤオって、何だ」
「…………」
サーフィットは少しだけ目を見開いたあと、口の端を吊り上げる。
「君はどう思う?」
「分からねえ。考えると頭が痛くなる」
「ふむ、それは困ったな」
手にしているタブレットに何かを入力しながら、サーフィットは親身なカウンセラーのような、あるいは無慈悲な役人のような、相反する雰囲気を備えながら〝獣〟との対話を続ける。
「だが何かを思い出すことは良いことだ。たまには記憶を深掘り、自分自身の軌跡を辿ってみるのも悪くない。それが痛みを伴う行いだとしてもな」
「思い出して、どうなる」
「己が何者なのか知ることができる」
「……くだらねえ」
「ククッ、そう言うな。意識などある意味では記憶の……つまり情報の集積だ。君の、その壊れかけている自意識もまた記憶によって作り出されている。己についてより深く知ることが出来れば、頭痛も今よりはマシになるだろう」
「本気で言ってんのか」
「まあ、半分は気休めだ」
〝獣〟は露骨に顔をしかめる。
モニタに表示されている抽象的な画像がますます刺々しい形に変化した。
「他に何か気になることはあるかね」
「首が痒い。首の後ろが」
「鎮静剤の量を増やしておこう。他は?」
「頭が痛え」
「申し訳ないが、それは手の施しようがない。鎮静剤の投与で多少は軽減されるだろうが……基本的には耐えてもらうほかないな」
「……クソがよ」
その一声は、獣の唸り声じみていた。
モニタに表示された画像が激しく脈動し、明らかな攻撃性を感じさせる形に変化する。それは〝獣〟が殺意を抱いていることの表れでもあった。
「そう唸るな。もう少しでロシアへの帰還が叶う。あちらに帰り次第、調整を行うように軍部に提案をしてやろう」
「もう任務はねえのか」
「標的の魔法使いたちは消滅した。君の仕事は終わりだ」
「……なら、いい」
モニタの画像が若干の落ち着きを取り戻す。
「今はゆっくりと休んでいたまえ、チーグル君。……誰が何と言おうとな」
サーフィットはタブレットに手早く何かを入力し、〝獣〟が沈黙したことを確かめてから静かに踵を返した。
彼が歩く度、暗い部屋の中に粘性のある水音が響く。
床には、暴れた〝獣〟によって肉片に変えられた元スタッフたち散乱していたが、サーフィットはそれらに一瞥すらくれず、血と臓物を踏みしめながら部屋を後にした。




