LITTLE APOCALYPSE#5 /4
「チッ……!」
ヤオは即座に後方へと飛び退いた。
直前まで立っていた場所にはクレーターが出来上がり、その衝撃でシャロンの体がバイクのシートから滑り落ちる。
黒コートの男は地面に叩きつけた拳を開き、ゆらりと立ち上がる。
血のように赤い瞳はシャロンとヤオを交互に捉え――。
「……どいつもこいつも邪魔しやがって」
死にかけの魔女ではなく、闖入者の排除を優先したようだった。
男は一歩、また一歩と、よろめくように歩を進める。その姿が一瞬、霞んだかと思うと――。
消えた。
いや、違う。
地面を蹴り、肉食獣のごとくヤオに飛びかかっていた。
岩をも砕きかねない拳が、獲物の頭部へと振り下ろされる。
だが、その先にヤオの姿はない。
まるで蛇のように、ヤオは一瞬で男の肩へと乗り上げていた。躊躇なくナイフを振り上げ、その刃を男の太い首へと突き立てる。
刃が引き抜かれるのと同時に、鮮やかな血飛沫が灰色の空に舞い上がる。
男はそのままぐらりと傾き倒れる――はずだった。
「……ってぇな」
くぐもった低い声が漏れ聞こえる。
男が忌々しげに腕を振るのと、ヤオが咄嗟に飛び退くのはほとんど同時だった。いや、弾き飛ばされたと言った方がいいかもしれない。
ヤオは地面に手をついて摩擦で勢いを殺し、その体勢からさらに身を低くする。
一方、男は両腕をだらりと垂れ下げながらヤオを振り向いた。首には赤い刺し傷が残っているが、出血はほとんど止まっていた。
刹那、ヤオは地面を蹴った。
一瞬のうちに距離を詰め、そのしなるような蹴りを男の脇腹に叩き込む。
だが男は肘で蹴りを受け止め、立ったまま地面を滑っていくばかりだ。先ほどのように吹き飛んでいき、教会の壁に叩きつけられることはない。
男が地面を踏みしめたその瞬間、今度は土煙を裂くようにナイフを振り下ろす。
しかし響いたのは男の呻き声ではなく金属音だ。
ナイフは巨大な拳に弾き飛ばされ、回転しながら宙へと舞い上がっていた。
「く、そっ――」
咄嗟に後退する。
しかし遅かった。
「……ッ――!」
ヤオはその細首を掴みあげられ、凄まじい勢いで地面へと叩きつけられた。
ヘルメットの割れる音が響く。
頭部への衝撃で視界が揺れる。
自身にかかる影に気づき、ヤオは咄嗟に右手を薙いだ。
ヤオを踏みつけようとしていた男は、反射的に目元を手で守る。そこに突き刺さっているのは三本のダガーナイフだ。
その隙にヤオは身を翻し、土煙だけを残して一瞬のうちに男から距離を置いていた。
「てめぇ、普通じゃねえな。何モンだ?」
男の赤い目はすぐさまヤオの姿を捉え、わずかな苛立ちと共に細められる。
ヤオもまたヘルメットの破損部から殺気立った視線を男へと向けていた。
ナイフの場所は遠い。
かといって、銃が通用するとは思えない。
となれば――。
「…………」
指先を揃えた手を胸の前に構え、ヤオは少しだけ姿勢を低くする。
男は獣じみた咆哮と共に地面を蹴り、ヤオに殴りかかった。
拳が振り下ろされたその一瞬。
ヤオは最も力が作用する場所に左手を添えて軌道を逸らすと、体勢を崩した男の胸へと右手の掌底を叩き込んだ。
鉄製のマスクの中からくぐもったうめき声が漏れる。
男は体をくの字に折り、ゆっくりとうずくまって――。
「クソみてえな真似しやがって」
その声は、すぐ耳元で聞こえた。
「ッ――」
右手が動かない。
手首を掴まれている。
そのことに気づいた時、ヤオの体は凄まじい勢いで投げ飛ばされていた。
近くの納屋の壁に背中から激突し、そのまま壁を破壊して内部へと叩き込まれる。
舞い上がる土埃で視界が悪い。
そんな中、風の動く音と共に突如視界が開け、そこには岩のような拳が迫って――。
「くっ……」
骨の軋む嫌な音がした。
ヤオは顔の前で腕を交差させ、間一髪で男の拳を受け止めていた。
しかし、力の差は明らかだ。拳を受け止めている細腕は激しく震えている。
咄嗟に交差した腕を引き寄せ、男の体勢を崩す。
その隙に身を翻すと、ヤオは瞬時に納屋から脱出した。破壊された納屋には男と土煙、そしてパラパラと落ちる木くずの音だけが残されていた。
地面に落ちていたナイフを拾い上げ、男――ではなく停めてあるバイクへと走る。
いつの間にかシャロンは意識を取り戻し、バイクを支えに立ち上がっていた。
「乗れ!」
怒鳴り声が灰色の空に響く。
シャロンは肩を跳ね上げた後バイクに跨がろうとしたが、何かに気づいて再びヤオの方へと顔を向けた。
背後から迫る気配。
奴がすぐそこまで来ている。
「――ヤオ!」
シャロンの警告が鋭く空気を切る。
ヤオはナイフを握りしめ、身構えて背後を振り向いた。
だが、視界に入ったのは予想していたものとは違う光景だった。
(なんだ……?)
男は目を見開いたまま、まるで機能が停止したかのように動きを止めている。
その赤い瞳は動揺に揺れているように見えた。
何かに反応したのだろうか。
――いや、今はそんなことを考えている場合ではない。
ヤオは一切の躊躇なくナイフの切っ先で男の顎を突き上げた。
しかし肉を突き刺す感触はなく、代わりに聞こえてきたのは金属が弾かれる鋭い音だ。どうやらマスクに阻まれてしまったようだが、それでも男は頭を大きく仰け反らせている。
深追いはすべきではない――そう判断し、ヤオは踵を返してバイクへ駆け寄った。
「ぼさっとするな、さっさと乗れ!」
もはや立っているのがやっとのシャロンを抱えるべく、脇を掴んで持ち上げる。
背後からは再び足音が迫って――。
「しつこい奴だな……ッ」
振り返った時、ヤオは絶句した。
「な……」
全身から血の気が失せていくような気さえする。
頭の中が一瞬で白紙になってしまったかのような。
先ほどの一撃で鉄製のマスクが弾け飛んだのか、男の素顔は露わになっていた。
東洋人を思わせる顔立ち。
どこか獣性を感じさせる口元。
顎から唇にかけて走る傷。
「お、まえ」
ヤオはナイフを握ったまま、完全に凍り付いていた。
男が拳を振り上げているにもかかわらず。
「まさか、ジウ――」
――刹那、灰色の空に銃声が響き渡った。
ヤオの視界に入り込んでいるのは、見慣れない細腕と、見慣れた愛銃だ。
銃弾がこめかみを掠めたようで、男は額を押さえて再び動きを止めた。
何者かに後ろから抱きつかれている。
それがシャロンであり、ヤオの腰から銃を抜いて咄嗟に撃ったのだと気づいたのは、薬莢の落ちる音が耳に届いた後だった。
「ヤオ、早く!」
もはや考えている時間はなかった。
ヤオは今度こそシャロンを抱え上げてシートに乗せ、自身もその前に跨がった。
右足でギアを乱暴に踏み込み、エンジンを唸らせると同時にクラッチを解放する。
「掴まってろ、死んでも離すな!」
そのまま背後を振り返ることなく、急発進する。
背後から風を切り裂くような音が聞こえたが、それがヤオとシャロンを捕らえることはなかった。




