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パンドラ-collapse-  作者: 兼明叶多
WITCH HUNT
79/86

LITTLE APOCALYPSE#5 /3

「ここ、は……」

 眩しい。辺りが真っ白に見える。少なくとも地下ではないようだ。

 薄目を開けて周囲を確認すると、どうやら屋内だということが分かった。長椅子がいくつも並んでいるので教会か何かかもしれない。

 いや、それよりも――。

(っ、エディさん)

 咄嗟に腕の中を確かめる。

 エディは――いた。

 依然として出血が酷いが、かすかに胸が上下している。

 まだ死んでいない。

(よかっ――)

 その時、頭の中で何かが千切れる音がした。

「う、ぁ……っ!」

 眼球が押し出されそうな圧迫感が頭蓋の中を埋め尽くす。

 鼻から血が滴って止まらない。まるで脳がそのまま溶け出ているかのようだ。

 呼吸をする度、頭の中に耐えがたい激痛が走った。それでも体は残酷にも酸素を求め、痛みの中で荒い呼吸を繰り返している。

 おそらくこれは、魔法阻害薬が効いている状態で魔法を行使した代償だ。

 平常時でさえ魔法の行使は脳に負担をかける。魔法を封じられている状態で無理矢理に行使をすればどうなるか――考えるまでもない。

「ぐっ……う、ぅ……ッ」

 それでもシャロンは意識を保ち続けた。

 エディの体を必死に握りしめ、霞む視界でどうにか周囲を確認する。

 今になって気づいた。

 ここは、チェルミ正教会だ。

 元々人がない教会だが、今日は神父の気配すらない。地下に潜っている間に人類が滅亡してしまったのではと錯覚するほど、静寂が聖堂内に満ちている。

 シャロンは聖堂の中央――プリンシパル像の面前でエディを抱きかかえていた。

 きっと端から見れば宗教画のような光景なのだろう。

 しかし、ここで殉教する気などないし、エディを殉職させるつもりもない。

 だからこそシャロンは震える手で自身のハンドヘルドデバイスを取り出し、うずくまるような形で救急へと緊急通報をした。

〈こちら000、どのような緊急事態でしょうか〉

 耳鳴りが酷い中、オペレーターの声が耳朶を打つ。

 喉が震えて上手く声が出せない。それでもシャロンは必死に言葉を紡いだ。

「人が、死にそうなんです、頭から、血が……ッ、この人を、助けて」

〈緊急事態の場所はどちらですか〉

「ユーリエフ、地区……チェルミ、チェルミ正教、会」

〈……あなたの位置は特定できました。救急隊はすぐに向かいます。傷病者の近くにいますか? その方の意識は〉

「近くに、います……意識は……ぐっ……ぁ」

〈もしもし? 大丈夫ですか?〉

 自分の腹に刃物を突き刺したかのような体勢で、シャロンはオペレーターとの通話を切った。とてもじゃないがこれ以上会話を続けられそうになかった。

(だい、じょうぶ……すぐに来る、はず)

 そのままどんどんとうずくまっていくと、エディの胸元に額が当たった。

 心臓の音がする。呼吸で胸が上下しているのが分かる。

 命の音を感じながら、シャロンはここで出逢った友人――ロブのことを思い浮かべていた。

 ロブは確かに罪もない人々を殺した。

 サーフィットの言葉に囚われ、狂気に蝕まれていた。

 けれど、あんな風に惨たらしく殺されなければならないほど邪悪な人でもなかった。

 彼は魔法使いの痛みを誰よりも理解していて、だからこそ繊細で優しかった。チェルミ駅の子供達のこともいつも心配して、みんなが穏やかに暮らせるようにと心を配っていた。

 もっと、違う場所で逢えたら。

 お互いに魔法使いなんかじゃなかったら。

 そうすれば、もっと――。

 その時、形容しがたい寒気がシャロンの背筋を駆け抜けていった。

 たった今、遠くで破壊音が聞こえた。壁か何かを蹴破るような騒々しい音が。

(嘘だ、どうして……)

 恐怖と混乱のあまり上手く呼吸が出来ない。

 心臓が狂ったように鼓動を打ち、脈打つ激痛が脳を灼いた。

「う、ぅっ……ぁ……」

 頭の中で何かの千切れる音を聞きながら、それでもシャロンは必死に面を上げた。

 残された僅かな力を振り絞り、エディの体を教会椅子の下へと押し込む。はみ出た足に自身のジャケットを被せて隠すと、教会椅子の背にもたれかかりながらどうにか立ち上がった。

 あの男が近づいてきているのかどうかは分からない。

 だが、先ほどまでいた地下の場所は、地下入口からの距離や方角を考えればチェルミ駅とそれほど離れていないはずだ。

 あの化け物じみた男が壁を破壊できるのなら、最短ルートでチェルミ駅へ出て、地下トンネルを通ってここまで来る可能性は十分にある。

「ぐっ……」

 突然、世界が回るような目眩に襲われ、シャロンはその場に倒れ込む。

 自分が地面を這っているのか、宙を泳いでいるのか分からない。それでも意識だけは手放したくなくて、血が滲むほど拳を握りしめた。

 皮膚に爪が食い込む感覚だけが自分を現実に繋ぎ止めてくれている。

 とにかくここから離れなければ。

 あの男の狙いは魔法使いだ。

そして、あの男はおそらく魔法使いの気配を察知できる。

 ――ここにいては、無関係のエディがまた巻き込まれてしまう。

「おね、がい……動いて……ッ」

 笑ってしまいたくなるほど震えている足でどうにか床を踏みしめると、シャロンは再び教会椅子の背もたれに手をかけた――その時だった。

 床が震えた。けたたましい破壊音と共に。

 建物の外から重たい足音が聞こえる。

 こちらに近づいてきている。

 こめかみを伝っていく冷や汗が顎から滴り落ちたとき、聖堂には扉が蹴破られる音が響き渡った。

「そこにいやがったか」

 講壇の方から低い声が聞こえてくる。

 声の主――黒コートの男は途中ではたと足を止めたようだった。

 後ろを見なくてもその赤い目が何を捉えているのかは分かる。ジャケットを被せただけで隠しおおせられるわけもないのだから。

 その一瞬、シャロンはシュメーシュメルツェ孤児院が襲撃された夜のことを思い出していた。

 あの時も礼拝堂の長椅子の下に隠れ、リタと一緒に危険が過ぎ去ってくれることを祈った。しかし、シャロンとリタはすぐに見つかった。傍で見守ってくれていたはずのプリンシパルは何もしてくれなかった。

 今もそうだ。

 すぐそこにプリンシパル像があるのに、神は何もしてくれない。

 布で覆われた慈愛の笑み。ふんわりと微笑む口元。

 ――そんなもので、一体何が守れるというのか。

「ッ、ァア――!」

 それは、ほとんど本能的な行動だった。

 シャロンは腰からグロック26を抜くと、倒れ込みながら体を(ひね)って背後を向き、大して狙いも定めずに何度も引き金を引いた。

 銃弾のほとんどは椅子や床に穴を開けるだけだったが、数発は確かに男の体を捉えた。しかし、男はびくともしない。傷一つ負った様子もない。

 ただ――男の赤い瞳はエディではなくシャロンへと向き直っていた。

 男が一歩、また一歩と近づいてくる。

 床に這いつくばったシャロンは、なおも引き金を引き続ける。空転する銃声だけが虚しく響く。

 目前に立った男は、鬱陶しげにシャロンを見下ろし――。

「う、ぐッ」

 体がバラバラになったような気さえした。

 シャロンの体は蹴られた空き缶のように宙を舞い、聖堂の扉を破って外へと放り出された。地面に叩きつけられた後も転がり続け、ようやく静止したときには口から血と胃液の混じったものが溢れ出していた。

 それでも意識はまだ残っていた。それが幸いなのか、あるいは残酷なことなのかはもう分からない。ありとあらゆる苦痛と恐怖に苛まれたまま、迫り来る死をただ待つしか出来ないのは、ある意味では一番の不幸のようにも思える。

(でも、まだ……まだ、わたしは、生きて)

 (きし)む体に鞭を打ち、どうにか身を起こそうとする。

 何をしてでも生き延びると決めた。

 孤児院のみんなが、そしてリタが、この世界に生きていたことを証明し続けるために。魔法使いが虐げられる理由を知るために。

 けれど――いや、だからこそ、獣の姿をした死神が迫っている。

 ――魔法使いを殺すために。

「がっ――」

 喉から擦過音が漏れる。

 背中を踏みつけられているのだと分かったのは、背中からミシリと嫌な音が聞こえてきた後だった。

(死ぬ、の)

 指先が動かない。

 頭はまだ生きようともがいているのに、体が死を受け入れてしまっている。

 どうにか抵抗したくて、爪で地面を掻いた。けれど弱々しい爪痕が土に残っただけで、逃れるなど到底出来そうになかった。

 背骨が軋む。

 生きたいという願いごと、自分が潰されていくような気がする。

 壮絶な苦痛に体が意識を手放そうとしたその時――。

「ぐぉッ」

 頭上でひゅっと風を切り裂くような音がした――かと思えば、黒コートの男はシャロンの上から姿を消していた。

 壁を破るような派手な音。

 木くずの落ちるパラパラという音。

(なにが、起きて……)

 地面に肘をついて上体を起こし、どうにか状況を確認する。

 黒コートの男は教会の外壁を突き破る形で仰向けに倒れていた。何が起きたのかは分からないが、おそらく吹き飛ばされて壁に衝突したのだろう。

 問題は、何に吹き飛ばされたのかということ。

 周囲には誰もおらず、何もなかった。少なくとも男の巨体を吹っ飛ばせるようなものは。

 ふいに、体が浮遊した。

 いや、違う。誰かの小脇に抱えられている。

「だ、れ――」

 返事はない。

 ザッザッ、と地面を踏みしめる音が聞こえてくるばかりだ。

 顔すら上げられないまま、視界の中で揺れる自分の手を眺めていると、突然細長い台か何かにうつ伏せで乗せられた。それがバイクのシートだと気づいた時、シャロンはようやく目の前の人物の姿を捉えた。

 霞む視界の中にいるのはライダースジャケットを着た華奢な人物だ。顔はヘルメットに隠されていて見ることができないものの、その体格には見覚えがある。

(まさか……)

「ヤオ――」

 そう口にした瞬間、世界が揺れた。


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