LITTLE APOCALYPSE#4 /1
どろりとした空気が肌にまとわりついている気がする。まるで、静寂と闇が粘性を伴って辺り一面を埋め尽くしているかのようだ。
この辺りは《アルケーの火》のメンバーが常駐するアジトもなく、主要なトンネルへ通じる細道も封鎖されているため、普段から人の気配がほとんどない。
だからこそ、ロブは一人で過ごしたい時、度々このS-28線を訪れていた。
つい先ほどまで、トンネル内には扉を叩いている音が響き渡っていたが、今はもう何も聞こえない。音が届かないほど遠ざかったのか、それともアネットが諦めたのか。どちらにせよ彼女があの部屋から出ることはないだろう。
可哀想だとは思う。申し訳ないとも。
魔法阻害薬がどれだけの苦痛をもたらすのかはロブも知っている。
魔女狩りによって母が殺された後、ロブは逃げ延びた先で民間の魔法使い保護施設に保護されたが、脱走と反抗を防ぐため毎日のように魔法阻害薬を投与された。拷問めいた騒音と苦痛は絶えずロブの脳内を蹂躙し、ヴァネッサ達に救出されるまでずっと芋虫のように床を這いずり回る日々を過ごしていた。
その過去があるからこそ、ロブは静かな場所が好きだった。
深海の底のような静寂。宇宙に放り出されたかのような孤独。それらは確かに寂しいが、同時に辛い記憶を忘れさせてくれる力がある。
その泥濘のような安らぎを打ち破ったのは、アネットの瞳に宿る蒼穹だ。
アネットを初めて目にした時、ロブはその空色にどうしようもなく魅入られた。孤独ごと自分を肯定してくれるかのような薄い青に。
それはある種の崇拝に近かった。
故にロブは、アネットが聖女として崇められることを心底厭った。その崇拝がどこまでも無責任なものであり、アネットという個人を無視する行為でもあることを、痛いほど理解していたからだ。
そんなロブの焦りと自己嫌悪をあざ笑うかのように、アネットは日に日に神のごとき扱いを受けるようになっていった。その熱狂はアネットを利用しようとしていたサミュエルや、アネットに〝聖女〟を重ねていたヴァネッサでも制御しきれないほどだった。
ロブはずっと、アネットをそこから掬い上げたかった。
いや、違う。引きずり下ろしたかったのだ。
そうしてまた自分の友達に戻って欲しかった。同じ傷を抱えた、同年代の魔法使いとして。
転機となったのはアンソニー・サーフィットの見張りを務めたあの日だ。
サーフィットは、まるで講義でもするかのように〝運命〟について滔々(とうとう)と語った。その内容はどこまでも非科学的だったが、ロブは何故かその話をすんなりと受け入れていた。
アネット――アンドレア・アーベルは運命の鎖に縛られている。〝聖女たれ〟とする呪いが彼女を苛み、偶像という立場に押し込めてしまっている。
そしてその運命は、片割れの存在によってさらに強固なものになっているらしい。
その片割れを消すことができれば、彼女は聖女の呪いから解放されるかもしれない――サーフィットはそう語った。
だからこそロブはアネットの〝片割れ〟を探し続けた。
運命が定めた伴侶。原初の番。たった二人の生き残りであり、始祖たる男女――サーフィットが語る言葉の数々に、言いようのない嫉妬を燃やしながら。
分かっている。
言ってしまえば、自分はただ片思いをしているだけに過ぎない。
それでも、もう一度こちらを見て欲しくて。
もう一度笑いかけてほしくて。
もし、アネットを縛る運命を壊すことができるのなら。
アネットが振り向いてくれるのなら。
自分は――。
「止まれ」
背後からの鋭い声に、ロブは足を止めてゆっくりと振り返った。
薄闇の中に浮かび上がっているのは体格のいい男の姿だ。はっきりとは見えないが、白いジャケットを身に纏い、銃を構えているように見える。どことなくラガーマンを彷彿とさせるのはその体格故だろうか。
「まさか相棒より先にお前を見つけることになるとは思わなかったぜ」
男は銃を構えたまま慎重に歩みを進める。
足音がトンネル内に響くにつれ、男の姿はより鮮明に浮かび上がってきた。
男が纏っているのは白い生地に水色のラインが入ったジャケット――NPCIの制服だ。ただし、下は制服ではなく普通のスラックスを履いている。おそらくは島支部の刑事か、本部の捜査官だろう。
ロブは男の顔に見覚えがあった。
先ほどイヴァノフカの倉庫付近でNPCIを襲撃した際、ラガーマンめいたこの男も現場にいた。しかも、ロブがずっと狙っている赤毛の捜査官と仲が良い様子だった。
NPCIが地下まで追いかけてきたのは想定外だったが、あの男も一緒に来ているのであれば好都合だ。
あの赤毛の男さえ殺せば、アネットはようやく自由になれる。
「…………」
ロブは大人しく従うふりをして両手を頭の位置に挙げた。
右手の指が少しずつ傾き、まるでお辞儀をするかのように倒れていく。ラガーマンめいた捜査官は、いつの間にかその指先に捉えられていることにまるで気づいていなかった。
「お兄さんは、ひとりだけですか?」
ようやく口を開いたロブに対し、捜査官はますます警戒の色を強める。
「ひとりだったら何だって言うんだ?」
「あの赤い髪の捜査官は一緒じゃないのかと思って」
「なんだ、あいつのファンかよ。心配すんな、大人しく捕まりゃ嫌でも会える」
余裕がある風を装っているが、その声音には分かりやすく焦燥が滲んでいた。
おそらくだが、ふたりは地下を捜索中にはぐれたのだろう。申し訳程度ではあるが、この辺りにも結界魔法が敷いてある。魔法を使い慣れていない人間は見えない壁が見えたり、逆に梯子や階段が見えなかったりと、空間認識の歪みに苦しむことになる。
「とりあえず署までご同行願おうか。ああ、妙な真似はするなよ。NPCIに喧嘩を売ってきたクソ連続殺人鬼とはいえ、ガキを撃ち殺すのは気分が悪い」
捜査官はじりじりと距離を詰めながら、銃把を握っていない方の手を腰の後ろへと回す。手錠を取り出そうとしているのはその仕草から明白だ。
ロブはかすかに目を細め、捜査官へと向けた指先をゆっくりと動かした。
相手は銃を持っている。ならば簡単だ。
その銃口をこめかみへと向けさせ、トリガーを引かせてやればいとも簡単に――。




