ATONEMENT#1 /2
ロトス島の煙っぽい空気を吸い込みながら人気のない路地裏へと入り込んでいく。一週間ほど地下で暮らしていたため、排ガス混じりの外気ですらどこかありがたく感じた。
周囲に人がいないことを入念に確認し、耳元に通信機を装着する。
「――シモン?」
わずかな沈黙のあと、通信機からは感情の読み取れない声が聞こえてきた。
〈無事だったようで何よりです〉
冷淡な声音だ。あまり無事を喜んでいるようには聞こえない。
だが先輩諜報員のトウコ曰く〝シモンは感情が高ぶっている時ほど表情筋が死ぬ〟とのことなので、本当に心配してくれていた可能性はある。
「心配をかけてすみません。……ええと、その」
〈ヤオさんに撃たれた件ですか?〉
言わんとしていたことを先に問われ、シャロンは諦めたように溜息をついた。
「……そうです」
〈状況については把握しています。君は一緒にいたロベルト君を押し倒したそうですが……ヤオさんを見てしまわないようにするための措置だったと僕の方では認識しています。まあ、そもそも何故ロベルト君と一緒にいたのかという点については、説明をお願いしたいところではありますが〉
「サーフィットとの会話を影で聞いていたようです。私がサーフィットの言葉に呑まれそうになったとき、咄嗟に引き戻してくれて、それで……」
〈タイミングが悪く、ヤオさん達と鉢合わせたと〉
「はい。……信じてもらえるか分かりませんが」
通信機越しに軽い溜息が聞こえてくる。
この場にシモンはいないのに、何故だか空気が重いような気がした。
〈疑おうと思えばいくらだって疑えますよ。……ですが、僕は君の話を信じます〉
「どうして」
〈いや、どうしてって言われましても……逆に僕がここで君を信じないと言ったら、君は裏切り者認定――つまりあの超絶無愛想な血も涙もない顔だけはやたら整ってる先輩が本格的に君を殺しに行くワケですが、いいんですかそれで〉
「良くないです」
〈でしょ?〉
「でも、理由も分からないまま許されるのも気持ちが悪いです」
そう思ってしまうのは、おそらく心の片隅に後ろめたい気持ちがあるからだろう。
確かにヤオの顔を見てしまわないようにと咄嗟に行動したのは事実だ。しかし、突き詰めて言えば、それはロブを助けるための行為である。
シャロンはあの瞬間、咄嗟にロブを庇ったのだ。
結果としてサーフィットの暗殺は成功したものの、もしロブが魔法で応戦していれば作戦は頓挫していたかもしれない。空間転移後、ロブがすぐヴァネッサに報告してヤオ達の撤退を妨げていた可能性もある。
あの時シャロンがすべきだったのは、ロブが撃たれるのをただ黙って見ていることだった。
〈理由ですかぁ……。勘ですね〉
シャロンの思考は緊張感に欠ける一声で霧散してしまった。
「……勘ですか」
〈超絶有能諜報員の勘は結構馬鹿に出来ませんよ? ……そもそも、今の君にはB&Bを裏切るメリットがない。魔法使い陣営につくにしたって《アルケーの火》はさすがに選ばないでしょう。言い方悪いですけど、どう考えても泥船ですしね。君はそういうところはシビアに判断するタイプのはずです〉
シモンの洞察はおおむね的を射ている。
さすがに泥船とまでは考えていなかったが、テロ行為を重ねる《アルケーの火》に骨を埋める気など微塵もなかった。
〈まあ、君が何と言おうと上司としての判断は〝セーフ〟です。どちらかと言えば、ヤオさんの行動の方がまずかったですね〉
「……ヤオの?」
〈ええ。通信が出来ない状況だったとはいえ、現場判断で君へ発砲したのは間違いなく早計でした。諜報員が裏切ったかどうかを判断するのはチームリーダーの僕です。いや、明らかに敵意を向けてるとか、明らかに行動が怪しいとかであれば現場の裁量に任せることもありますが……〉
「私は、ヤオの判断は間違ってはいなかったと思います」
〈じゃあ六対一ですねえ〉
「……どういうことですか?」
〈ヤオさんも珍しく反省してるってことです〉
――反省。
その言葉がずっと頭の中を巡っている。
反省している。珍しく。
あのヤオが。
〈あんなに素直に謝るヤオさんは初めて見ましたよ。一緒にいたキーンさんもだいぶ驚いた顔してましたもん。あのキーンさんがですよ〉
一生懸命思い浮かべてみるものの、全く想像がつかない。
こんなことを言っている場合ではないのは百も承知だが、ヤオの貴重な姿を見逃してしまったことが悔やまれてならなかった。
〈そういうことなので、遠慮なく帰投してください。というか撃たれた怪我は大丈夫ですか。だいぶ今更ですが〉
「《アルケーの火》の方々が処置をしてくださったので、動く分には問題ありません」
〈そうですか。よかった。今はどこに?〉
「ロトス島のユーリエフ地区です。話すと長くなるので結果だけ言いますが、《アルケーの火》から脱退しました」
〈完璧じゃないですか〉
そう、完璧だ。――ここで終わっていれば。
けれどシャロンにはどうしても見過ごせない――言わば、やり残したことが一つだけあった。
〈……シャロン?〉
神妙な声音だ。
通信機越しだというのに、シモンは部下が憂いと迷いを滲ませていることに気づいたらしい。
〈ああ――ロベルト君、ですか〉
溜息交じりのその一声に、シャロンはぐっと下唇を噛んだ。
「もっともらしい理由を挙げるなら……彼はヤオの姿を目撃した可能性があります。もしそうなら、B&Bの掟に従い彼を始末しなければならない」
〈それはそれとして、友人を止めたい……そんなところでしょうか〉
シモンの言い方が少し引っかかった。
確かにシャロンはロブを止めたいと思っている。サーフィットに惑わされたロブは、おそらく取り返しの付かないことをしでかすだろうから。
だが、サーフィットとロブのやり取りをシモンは知らないはずだ。だというのに何故「止めたい」という表現を選んだのか。
「……シモン」
〈はい〉
「もしかして、私が寝ていた二日間に何かあったんですか」
長い沈黙のあと、シモンは低い声で答えた。
〈殺人です〉
「え?」
〈ロベルト君はイーストヘイヴン島民とロトス島民、それからロトス島警警察官、合計で十二人を殺害し、現在NPCI凶悪犯罪捜査課に指名手配されています〉
「は……?」
耳朶に流れ混んできた言葉が理解出来ず、シャロンはただ瞼を上下させることしかできなかった。
言葉は一字一句聞き取れたのに、それがどういう意味を持つのかが分からない。
いや、脳が理解することを拒否している。
十二人を殺害――あのロブが?
「今、なんて」
〈彼は人を殺して回っています。おそらく、一人で〉
言葉が出ない。
嫌な汗ばかりが背中を湿らせていく。
〈これは僕の勝手なプロファイリングですが、どうもロベルト君はNPCIを挑発しているように思えます。事実、ロトス島の警察官も一人殺害されている〉
「殺害というのは……」
〈警察官は携帯していた銃を乱射した後、自身の頭に向けて発砲しました。最後の瞬間まで、『体が言うことを聞かない』『誰か助けてくれ』と叫びながら〉
「それは……」
〈おそらくですが、君が報告してくれた人体操作の魔法を使用したのではないかと推測されます。NPCIも三週間前にノヴォヴィチキ地区で起きた事件と同一犯と判断し、一連の事件の容疑者を〝チェルミの傀儡師〟と呼称しているようです〉
死亡した警察官が狂気に落ちたのでなければ、やはりシモンの言うとおり人体操作の魔法を使われた可能性が高い。
三週間ほど前にロトス島ノヴォヴィチキ地区で発生した事件も、男性の方が自分で自分の首を折っており、何者かによって人体操作魔法を使用された可能性が極めて高かった。
――ロブはね、人の体を操る魔法が使えるんだよ。
以前、チェルミ駅で耳にした言葉が脳裏を過ぎる。
人体操作魔法を得意とするのはワーズワース家の系譜。
オランダ出身のロブはワーズワース系の魔法使いであり、やはり人体操作魔法が得意だった。
「シモン。本来、すぐアジトに戻って報告をすべきなのは分かってます。……でも」
〈アンソニー・サーフィット暗殺の任務は無事完遂されました。報告の義務は確かにありますが、現在の君は任務外の状態です。私的な行動に関して、それを止める権限は僕にはありません〉
そして、とシモンは語気を強めて付け加える。
〈任務外だからこそ、君の身に何かあっても僕は助けることができない。その意味は分かりますね?〉
「……はい」
〈僕としては、怪我もしていることですし早々に帰投してもらいたいところですが……君は結構頑固ですからねぇ。まったく誰に似たんだか〉
ギッ、と何かの軋むような音が聞こえた。
おそらくシモンが椅子の背もたれに体を預けたのだろう。
〈これは上司ではなく、君を拾い上げた人間としての発言ですが……危なくなったらすぐに魔法で逃げてください。友人を止めたいという気持ちは分かります。ですが、他人の狂気を君が背負う必要はないし、その義務もない〉
「分かりました」
〈結構です。では、用事が済んだらすぐアジトに帰投してください。訊きたいことが山ほどあるので〉
プッ、と短い音と共に静寂が訪れる。
それ以上、通信機からシモンの声が聞こえてくることはなかった。




