ATONEMENT#1 /1
酷い頭痛に苛まれながら目を開くと、見慣れないグレーの天井が視界いっぱいに広がった。
少し体を動かしただけで激痛が背筋を走り抜けていく。特に、右の腰の辺りがひどく痛い。
(そうだ、私、撃たれたんだ)
毛布から右手を出し、自分が幽霊ではないことを確認するために顔の上で開閉する。
(……毛布?)
ようやく、シャロンは自分がベッドのようなものに横たわっていることに気づいた。
体にかかっているのはキャラクターがプリントされた子ども用の毛布だ。チェルミ駅で見たものによく似ている。
(私、どうしてチェルミ駅にいるんだっけ……)
周囲を見回してみても子供達はおろか、誰の姿もない。いつも隣で笑ってくれていたロブの姿も。
(そうだ、ロブ――)
刹那、シャロンは記憶の全てを取り戻した。
クラースヌイ駅でサーフィットと話をした後、シャロンはロブを庇ってヤオに撃たれた。咄嗟にロブがチェルミ駅へ飛んでくれたものの、すぐに意識を失ったため、その後どうなったのかはまるで分からない。
ヤオ達は任務を完遂したのだろうか。
ロブは今、どうしているのだろう。
そもそも、撃たれてから一体どれくらいの時間が経過したのか――。
「気がついたか」
部屋の外から聞こえた声にビクッと体が跳ねる。
おそるおそる声がした方へ視線を向けると、そこには青髪の女性が立っていた。
「ヴァネッサ、さん……」
口から零れた一声は笑ってしまいたくなるほどか細い。
一体どれだけの時間眠っていたのかは分からないが、ヤオ達がサーフィットの元へ辿り着いた以上、暗殺の成否にかかわらず《アルケーの火》を取り巻く状況はかなり変化しているはずだ。
加えて、ロブはあの時シャロンとサーフィットの話を影で聞いていた。決定的な話はしていなかったものの、シャロンの目的が別の所にあると気づいていても不思議ではない。
ロブ――いや、《アルケーの火》がシャロンの正体に気づいた可能性は十二分にある。
「君は二日寝ていた」
端的にそう口にし、ヴァネッサはベッドの傍に椅子を持ってきて腰掛けた。
相変わらずの威圧感だ。ただ横に座っているだけなのに銃を突きつけられているような気になる。
「弾は摘出した。内臓もさほど損傷していない。運が良かったな」
「サーフィットは……」
「死んだ」
迷いのない返答に、シャロンの人差し指がぴくりと動いた。
「現れた暗殺者に殺されたようだ。頭に銃弾を三発撃ち込まれていた」
「その暗殺者は、どうなったんですか」
「クラースヌイ駅へ駆けつけたときにはもう姿がなかった。グロームキー駅から侵入してきたようだが……今となっては何もかもが遅い」
ヴァネッサの言葉が正しいなら、サーフィットの暗殺任務はどうやら成功したらしい。
姿がなかったと言っている以上、ヤオとキーンは作戦後無事に地下から脱出したのだろう。シャロンが撃たれるというアクシデントを除けば、理想的な形で任務を遂行できたと言っていい。
あとはシャロンが《アルケーの火》を脱出し、アジトへ帰還すれば当初予定していた作戦は完了だが――。
「やはり、君を《アルケーの火》から追い出すべきだった」
視線を逸らしたまま、ヴァネッサは膝の上で組んだ手を神経質そうに動かす。その声音は冷たく、静かな怒りが滲んでいるようにも思える。
「…………」
刹那、シャロンの表情がふっと変わった。アネット・レンツからB&Bに属する諜報員のそれへと。
もしヴァネッサがシャロンの正体に気づいていた場合、彼女は明確に敵ということになる。そうなれば戦闘行為は避けられない。
相手は熟練の魔法使いだ。シャロンの付け焼き刃の魔法では到底太刀打ち出来ないだろう。
今回の潜入任務では武器を携帯していないため、銃で応戦することも難しい。そもそもヴァネッサは防衛魔法を得意としているそうなので、銃撃は通用しないはず。
つまり、まず最初にすべきはこの場から逃げること。
捕らえられ、情報を引き出されるような事態だけは避けなければならない。
「全ては、指導者などに据えることを許してしまった私の責任だ。私はいつも選択を誤る」
ごくりと生唾を呑む。
心臓の音がうるさい。
それでも、シャロンは傍らの魔女を見据え続けて――。
「……君が撃たれたと聞いた時、本当に生きた心地がしなかった」
(――え?)
まるで予想していなかった言葉に、シャロンは目を丸くした。
ヴァネッサはやはりバツが悪そうに視線を逸らしたまま、指先を無意味に動かしている。改めて見てみると、その雰囲気はどことなく懺悔をする信徒のようにも思えた。
「……私は、君をこんなことに巻き込みたくなかった。だから追い出そうとした。君はテロに関わっていい人間ではないからだ」
「どうして……」
「――アドミラリィ様だ」
この段に至って、ようやくヴァネッサの瞳がシャロンを捉える。既にこの世を去った別の誰かを思い浮かべながら。
「君は、あまりに似ている。似ているなどというものではない。たとえ事実ではないとしても……私は、君がアドミラリィ様の生まれ変わりだということを疑えない」
以前サミュエルが口にした言葉が脳裏を過ぎる。
――そんなわけあるか。あいつほどアドミラリィ様に心酔してる魔法使いはいない。
(……そういうこと、だったんだ)
シャロンはようやくヴァネッサの突き放した態度の真意を悟った。
今思えば、ヴァネッサは事あるごとにシャロンを《アルケーの火》――いや、テロという行為から遠ざけようとしていた。
スパイであることを疑われているものとばかり思っていたけれど、それは違った。ヴァネッサはずっとシャロンを守ろうとしていたのだ。
今なら、初めて顔を合わせたときのヴァネッサの表情の意味も理解出来る。
何よりも敬愛している人物と瓜二つの人間が〝テロ組織に加わるため〟突如として目の前に現れた。――それは、到底受け入れられるものではない。
「アドミラリィ様は……」
「うん?」
「どんな魔法使いだったんですか」
ヴァネッサは少し意外そうに目を瞬いた。
シャロンは自身がアドミラリィ・リーゼンフェルトの生まれ変わりだという話を信じているわけではない。
サーフィットが牢の中で語っていた話も眉唾物だ。何故本名を知っていたのかはさておき、輪廻云々の話は惑わせるためにそれらしいことを並べ立てていただけだろう。
それでも興味はある。
ヴァネッサがそこまで心酔する魔女はどんな人だったのか。
そして、どんな最期を迎えたのか。
「あのお方は――」
遠い過去を懐かしむように目を伏せ、ヴァネッサは静かに言葉を紡ぎはじめた。
「お強く、美しく、誠実で……幼い私にとってはまさに憧れの存在だった。私だけではない。当時の年若い魔女は皆、アドミラリィ様のようになりたいと願っていた」
軽く唇を噛み、ヴァネッサは懺悔するかのように続きを口にする。
「二十歳にしてリーゼンフェルト家のご当主様となり、学院の運営に尽力される傍ら、魔法の研究にも力を入れておいでで、学院に在籍していた私はアドミラリィ様が特別授業でお見えになるのを毎回心待ちにしていた。当時の学年長様……エルネスト様とも仲睦まじく、御三家間の確執はきっとアドミラリィ様の代で解消されるのだと、みな信じて疑わなかった」
(御三家……確かリーゼンフェルト家とヴァレール家、それからワーズワース家)
以前ロブから魔法使いの歴史について聞いた時に教えて貰った魔法使いの三派閥だ。
「だが、君も知っての通り、戦争が全てを破壊した。二〇〇七年六月八日、連中が欧州の主要都市と学院を襲撃し、魔法使いの多くが殺害された」
ヴァネッサの膝上に置かれた拳がギリ、と音を立てる。
「当時、私はまだ子供だった。アドミラリィ様は学院にいた子供達を率先して救助し、避難させた。連中が迫る中、私たちを学院地下の隠し通路に押し込み、ご自身は……」
まるで涙を堪えるように、ヴァネッサは顔をしかめて項垂れた。
「最期まで、魔法使い達の救助に尽力されていたと聞いた。私はアドミラリィ様のお力になりたかったが、非力な魔女見習いに出来ることなどなく……次にアドミラリィ様を見たのは合同葬儀の時だった」
声が震えている。普段の気丈な態度からは想像もつかないほど。
戦争がどれほどの規模だったのかは分からない。ただ、合同葬儀という言葉から分かるとおり、学院は甚大な被害を出し、名家の当主すら個別の葬儀が行えないような状況だったのだろう。
そんな経験をしたヴァネッサが魔法使い至上主義に走り、テロに身を投じた経緯は何となく想像が付く。彼女は拠り所を失い、その心の傷が膿んで、いつしか怒りと憎悪に乗っ取られてしまった。
それでもなお幼い魔法使いを保護していたのは、おそらくアドミラリィへの憧れを捨てきれずにいたからだ。
ヴァネッサは誰より優しかった。
だからこそ怒りと絶望も深かった。
何か一つでもボタンを掛け違っていれば、別の道があったかもしれないのに。
「アネット」
呼びかけられ、ヴァネッサの方を見る。
「確かに私は君にアドミラリィ様を重ねている。だが、君はアドミラリィ様ではない。聖女として振る舞う必要もない」
あまりにも――あまりにも真っ直ぐすぎる視線だった。
ヴァネッサがテロ組織の一員として多くの人を殺したことは事実だ。しかし、その目は誠実であろうという意思に溢れている。
「君はこれ以上テロなどに関わるな。《アルケーの火》を去って、ただの人間として暮らせ」
「ですが、他の人達は……」
「私が説明をしておく。なに、サミュエルもわざわざ君を捕まえに地上へと出るような真似はしないだろう。それに……私達も少しやり方を変える必要がある。何かを盲信し、力でもって現状を変更しようとしても、良い結果は産まれない」
ヴァネッサの言うとおりだ。
テロを繰り返したところで憎悪の連鎖にしかならない。今の欧州もそうやって地獄と化していった。
「……分かりました」
子ども用の毛布をぎゅっと握り、言葉を絞り出す。
「今まで、お世話になりました」
「ああ」
話は終わりと言うようにヴァネッサが音もなく立ち上がる。
踵を返し、部屋の出入り口へと向かうその背中を見て、シャロンはふと大事なことを思い出した。
「待ってください」
ヴァネッサは立ち止まって軽く体を捻る。
「ロブは、どうしているんですか」
「彼は……」
言いかけ、ヴァネッサは表情を曇らせた。
「君の手術が済んだあと、あまり姿を見せなくなった。やらなければならないことがあると言っていたが……」
「他の見張りの人達みたいに……というわけではないんですよね?」
「発狂している様子ではない。だが普通とも言いがたい。君が撃たれてショックを受けているのかもしれないな。ロブは君のことを大事な友人だと思っているようだから」
「……そう、ですか」
あの地下牢で、ロブはサーフィットの言葉に呑まれている様子だった。
サーフィットの口ぶりからするに、二人は以前から何度も話をしていたのだろう。しかし、ロブは他の見張りのように発狂しなかった。
それはロブの精神が強靱だったためか、あるいはサーフィットが何らかの理由でロブを発狂させなかったのか――。
気になるのはサーフィットが最後に告げた言葉だ。
――彼こそが〝アダム〟だ。……君が忌々しく思っている彼こそが、な。
(アダム……)
あの時のロブの表情が忘れられない。
まるで、どれだけの犠牲を出しても目的を達成する――そう考えているかのような顔だった。
「ロブのことは気にするな。さっきも言ったが……君はもう私たちに関わらない方がいい。何もかも忘れて、平穏に生きろ」
そう言い残して ヴァネッサは今度こそ部屋から立ち去っていった。
「…………」
シャロンもまた強く握りしめていた毛布をめくり、ベッドから出て床に両足をつける。動く度に傷が痛むが、耐えられないほどではない。
ふいに、入口の影から一人の幼い少女が顔を出す。
「アネットおねえちゃん……?」
何度か共に魔法の練習をした少女に対し、シャロンは罪悪感と寂しさの入り交じった微笑みを返した。
次の瞬間には、シャロンはここではない場所へと空間転移をしていた。




