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パンドラ-collapse-  作者: 兼明叶多
WITCH HUNT
55/86

SPELL OF THE SAINT#5 /2

「――さて」

 足音がすっかり聞こえなくなり、車のエンジン音が遠ざかっていった頃を見計らって、ベイリアルもフロアを後にする。

 薄汚れた工事シートを踏み越えて外へと出ると、待機させていた車の側では側近のシャッヘが相変わらずの無表情で上司の戻りを待っていた。

「なんだ、ずっとそうして待っていたのか? 車の中にいればいいものを」

「何かあった時、すぐに動けるようにと」

「まったくお前は過保護だな。私を小さい子供か何かだと思っていないか」

「思っておりません」

 シャッヘはにこりともせず、流れるように後部座席の扉を開ける。ベイリアルが車に乗り込むと、自身は運転席へと身を収めた。

「……ポローモフと話をしたばかりだと、ますますお前の野心のなさが心配になるな」

「野心、というのは」

 表情一つ変えず、シャッヘは慣れた手つきで車のエンジンをかけ、ハンドルを操る。

 マハーハ島の舗装が済んでいない道路は、乗り心地の良さに重きを置いた高級車を容赦なく揺らした。

「本来であれば、お前がパシフィカ支部の次の首領になるはずだった。だが大首領(ファーザー)の気まぐれでパシフィカとは何の縁もない私が首領の地位に就いた。――不服とは思わないのか?」

「自分は首領の器ではありません。命令に従う方が性に合っています」

 バックミラーに映るシャッヘの目は真っ直ぐ前を向いている。後部座席にいる悪魔を見ることはない。

「真面目だな。時折、何故お前がこんな仕事をしているのか疑問に思う。軍人にでもなればよかったものを」

「首領と同じです」

「ん?」

「魔法使いどものせいで自分は人ではいられなくなりました。連中がこの世からいなくならない限り、人らしく生きられる日は訪れないでしょう」

 少し意外そうに目を瞬いた後、ベイリアルは諦観の混じった苦笑を浮かべた。

「そうか。ならば仕方がないな」

「はい」

 静寂が車内を支配する。

 ベイリアルはバックミラー越しに部下を見据えるのをやめ、退屈そうに窓の外へと視線をやった。

「……ポローモフは、なんと言っていたのですか」

 シャッヘの問いに、ベイリアルは端的に返答する。

「お前の言うとおりだった……と」

「傭兵を差し向けたことについては」

「別に何も」

「よろしいのですか?」

「あの程度、謝罪を要求ほどの事でもない。B&Bの小蝿と勘違いして〝お喋り〟をしてしまった私にも多少の非はある」

 シャッヘの眉根がかすかに寄る。

 そこに刻まれているのはポローモフに対する怒りではなく、凄惨な拷問を加えられた傭兵へ憐憫と、それを指示した上司に対する畏怖だった。

 ストラースチと同盟を組んでからしばらくして、明らかにB&Bの諜報員ではない連中がファミリアを嗅ぎ回り始めた。何人かを捕らえて尋問したところ、連中は揃ってポローモフの名前を吐いた。

 ポローモフは〈アルケーの火〉との関係を疑っていたのだろうが、信頼関係に傷を付ける行為であることに変わりはない。特に、数名の傭兵は明らかにベイリアルの命を狙っており、それが余計にシャッヘ達の不信感を強めた。

 だが当のベイリアルは命を狙われることをまったく気にしていない様子だ。それどころか、刺客が差し向けられることを愉しんでいる節さえあった。

「今後、ポローモフは人質奪還のために動くつもりなのでしょうか」

「そのようだ。……しかし、難しいだろうな。奴に魔法使いどもと渡り合う力があるとは思えない」

「首領が人質のおおよその居場所を掴んでいることについては」

「伝えると思うか? 言えば面倒なことになるのが目に見えている」

 ベイリアルはシートに身を預け、面倒臭そうにため息を漏らす。

「そもそも、見当がついている程度で人質を奪還することはまず不可能だ。不意打ちでもしない限り連中は間違いなく空間転移人質ごとで逃げる。内部に協力者でもいれば話は別だが」

「例の男は」

「例の男? ああ、彼か。あれはただの友人……いや、違うな。後輩のようなものだ。彼の方が年齢は上だろうけども。――まあ、どちらにせよ彼と顔を合わせることはもうない」

「良好な関係を築いているように見えましたが」

「彼は現在、聖女とやらを擁して組織内の実権を握ろうと画策しているらしい。分裂しかかっていた組織をまとめなおす狙いなのだろうが……ああなってしまってはお終いだ。権力は〝怒り〟からほど遠い場所にある」

 シャッヘは何も言わない。だが彼もまた〝怒り〟によって化け物になってしまった一人である以上、ベイリアルの言わんとしていることは理解しているのだろう。

「CIAがアントニー・サーフィットの暗殺を目論んでいる以上、がB&Bが動いている可能性は高い。しばらくは余計な手出しをせず静観した方がいいだろうな」

「サーフィットは大首領(ファーザー)のご友人と聞いていますが、構わないのですか」

「ミスター・サーフィットに関して大首領が私に命じたことはただひとつ――〝手出しをするな〟だ。私はその命令を忠実に守っているに過ぎない」

 ふいに、ベイリアルの顔から笑みが消えた。まるで嫌なことを思い出しているかのように。

「……正直なところ、関わらずに済むのであればその方がいい。あの男とは一度顔を合わせたことがあるが、どうも好きになれそうにない」

「首領がそうおっしゃるのであれば、自分は構いません」

「何か思うところがあるのなら、言ってくれて構わないが」

「何も――いえ、ひとつだけ」

 この段にいたってようやく、シャッヘはバックミラー越しにベイリアルを見た。

「やはり、敵対組織の幹部と一人で会うのはやめてください。待っている間、生きた心地がしなかった」

「――は」

 呆気にとられたように目を丸くした後、ベイリアルは顔をくしゃりと歪めて破顔する。その無邪気な笑顔は、普段とは違う素朴な魅力があった。

「はははっ、言うに事欠いてそれか。別に私が死んだところで困りはしないだろうに」

「貴方の身の安全を確保することも自分の仕事の一つです」

「そうか。では大事な部下から仕事を奪ってしまわないよう、次からは気をつけるとしよう」

 口元に置かれていた手が離れるが早いか、ベイリアルの表情は普段の蠱惑的な微笑へと戻っていた。


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