A DAYING DOVE /2
「――いっ……」
ぐるりと視界が回った後、そばかす顔の青年――ロブは地面らしきものに叩きつけられていた。
目の前に汚れたアスファルトがある。手をついて体を起こそうとするも、空間転移魔法を使った負荷のせいか、目眩が酷くて顔を上げられない。
少なくとも、ここがロトス島だということは臭いで分かった。この石油とアルコールの入り交じったような臭いはロトス特有のものだ。
(海に放り出されなかっただけでもマシかな……)
地面にへばりついているガムを見つめながら、ロブは大きく深呼吸をした。
ロブは昔から空間転移魔法を不得手としており、望んだ場所に転移できたのは人生で数えるほどしかなかった。それでも敢えて一人で飛ぶことを選んだのは、リーダーであるヴァネッサの負担を少しでも軽くしたかったからだ。
空間転移魔法は同行者が多いほど負荷が大きくなる。あの時、ヴァネッサには防衛魔法分の反動もかかっていたはずので、三人を伴っての空間転移はかなりの負担だったに違いない。彼女自身それを分かっていたからこそ、ロブを一人で行かせる決断をしたのだろう。
(とにかく、アジトに戻らないと)
歯を食いしばって、なんとか面を上げる。
視界に入ったのは壁一面に広がる下品な落書きと――。
「……っ!」
――抱き合ったまま呆然とロブを見る男女の姿だった。
慌てて立ち上がるも、脚に力が入らずその場に尻餅をつく。再び空間転移魔法を使おうとしたが、動揺のせいで意識を集中させられず、別の場所へ飛ぶことは叶わなかった。
(他に目撃者は……)
素早く周囲を確認する。
どうやらここは路地裏のようだ。
抱き合っている男女の他には誰もおらず、辺りは静寂に支配されている。大通りのど真ん中や、誰かの家の中でなかったことは不幸中の幸いと言えるだろう。
このまま走って逃げればどうにか――そう考えた矢先。
「まじかよ、初めて見た」
男はズボンのポケットからハンドヘルドデバイスを取り出すと、カメラをロブへと向けた。
「あれ、魔法使いだよな? すげぇよ、本物だ」
(まずい……)
咄嗟に男へと手を向ける。
男は撮影ボタンを押す直前にデバイスを落とし、さらには爪先で蹴り飛ばした。拾おうと身を屈めるも、指先は虚空を掻くばかりでデバイスには届かない。
「ヘンだな、飲み過ぎたか? ……って、何してんだよお前」
興奮している男とは対称的に、女は嫌悪の表情でデバイスを耳に当てていた。
「ケーサツ呼ぶの」
「は? 何で」
「魔法使いがいるからに決まってんでしょ!」
(……ッ!)
男へと向けられたロブの指が、まるで鍵盤を打つかのように複雑に動く。
「えっ……?」
直後、男は女のハンドヘルドデバイスを乱暴に払い落としていた。
「ちょっと、どういうつもり!?」
「いや、俺にもよく……」
<はい、こちらNPCIです>
地面に落ちたデバイスからオペレーターの声が聞こえてくる。
女は男を睨みながらデバイスを拾おうとした。しかし、男は女を乱暴に押しのけると、デバイスを容赦なく踏みつけ始めた。
<もしもし、大丈夫ですか。返事を――>
バキッという音と共にデバイスが完全に破壊される。オペレーターの声はもう聞こえなくなった。
「え? 俺、なんで……」
男は己の行動が理解出来ないようで、壊れたデバイスから足を上げて目を瞬いている。まるで「体が勝手に動いた」とでも言いたげな表情だ。
女はまなじりを決して男の胸ぐらを掴んだが、何かに気づいたのか、目を見開いたまま視線だけをロブへと向けた。
「……アンタでしょ」
ぞっとするほど冷たい声音だ。
女の目には並々ならぬ憎悪が滲んでいる。
「気持ち悪い。パシフィカから出て行けよ、黄土頭」
オーカーヘッド――主にイギリス、オランダ、ベルギーあたりで使われる魔法使いの蔑称だ。
しばらく耳にしていなかったその言葉は、ロブが封じ込めていた忌まわしい記憶を容赦なく呼び起こした。
――黄土頭だ。ガキも一緒だぞ。
――魔女狩り部隊に通報しろ。
――火を付けろ。燃やしちまえ。
「あ……」
男へ向けたままの手が小刻みに震え始める。
十年前のあの日もこうして手を伸ばした。自分をかばって捕まった母を助けたかった。
けれど母は村人達によって串刺しにされ、生きたまま焼かれて死んだ。
「なあ、どうなってんだよ。どうしちまったんだ、俺」
「ちょっと黙ってて!」
困惑している男を押しのけ、女は地面に落ちている男のデバイスを拾い上げる。再びNPCIへ通報をしようとしているのだろう。
欧州と異なり、パシフィカの警察は単に〝魔法使い〟という理由だけでは逮捕しない。しかし相手がテロリストとなれば話は別だ。カリンスク港の襲撃に関与したロブには、NPCIによって拘束される正当な理由がある。
「ロック解除して。早く!」
「わ、わかったよ」
女に怒鳴られ、男はデバイスのロックを解除しようとした。しかし、伸ばした手がデバイスには触れることはなく、そのまま流れるように女の細い首を締め上げた。
「――ぅ、グ」
女の手からデバイスが滑り落ち、地面へと落下する。
男は自分の行動が理解出来ず、情けない声を漏らすばかりだ。
「おい、何なんだよこれ!」
男の意識を置き去りにして、筋張ったた手は容赦なく女の首を締め上げていく。女は必死に足掻いていたが、瞳が瞼の裏へ潜るやいなや全身から力が抜けた。
「嘘だろ、ふざけんな、頼むよ、ああ……」
男の手がゆっくりと首から離れていく。
女はどしゃりと膝から崩れ落ち、地面に倒れた。
「なんで……なんで、こんな」
(なんでって……)
ロブは強く下唇を噛む。今まで受けた苦痛と屈辱を噛みしめるように。
十八年間、ずっと自問し続けてきた。
どうして自分たちは迫害されるのか。
どうして母は殺されなければならなかったのか。
どうして住む場所を追われなければならないのか。
どうして――やり返してはいけないのか。
「……お前たちが、先にやったんじゃないか」
ロブは虚空を強く掴み、ドアノブを捻るように手を回した。
「あ、がっ……」
ロブの奇妙な動きに呼応して、男は文字通り自分で自分の首を絞めている。手の甲には筋が浮き上がり、相当な力を加えていることが見て取れた。
「やめっ……だず、げ」
締め上げられた男の喉から擦過音めいた声が漏れる。口の端からは泡が漏れ、見開かれた目は今にも眼球が飛び出してしまいそうだ。
それでも、ロブは手を緩めなかった。
「ア――」
ゴキ、という嫌な音。
男は自分の手で自分の首の骨を折り、白目を剥いてその場に倒れた。
「……っ、ハァ……ハッ……」
一拍の後、ロブは荒く呼吸をし始める。
(人を殺した……しかも、魔法で……)
先ほどのカリンスク港襲撃でもロブは人を殺せなかった。戦わなければ殺されると分かっていてもなお。それはおそらく、亡き母の言葉がずっと胸に残っていたからなのだろう。
――愛してるわ、ロベルト。
――どうか、貴方は悪い魔法使いにはならないで。
母は何度も「良い魔法使い」でいるようにとロブを諭した。迫害されていても、良い魔法使いで在り続ければプリンシパル様がいつか助けてくださるから、と。
しかし今日、ロブは母との約束を破った。
「――なぁんだ」
男へ向けていた手をおもむろに下げる。その仕草は、指揮者が役割を終えて腕を下ろす動きに似ていた。
「人って、こんなに簡単に死ぬんだ」
ロブの口元には、うっすらと笑みが浮かんでいた。




