STAKE#5 /2
その時、扉の開く音が聞こえた。
誰かが近づいてくる。ぼやけた視界でも分かる鋭い目つきと、華奢な体つき。そして、研ぎ澄まされた殺意。
ゆっくりと歩いてくるのは、以前アンドレアを保護してくれたスーツの男性――ヤオだった。
(ああ、あの人なら……)
アンドレアは穏やかな心持ちで目を伏せた。諦めたわけではない。むしろ安堵しているのだ。
ヤオという男が何者なのか未だに分からないが、命を終わらせてくれる相手としてこれ以上の人物はいないように思える。死神の手であの世へ送ってもらえるなど、魔女にもったいない贅沢だ。
靴音がすぐ近くで止まる。銃を構えたのか、衣擦れの音がかすかに聞こえた。
しかし、銃声が二度鳴った後もアンドレアは意識を保っていた。
(え……?)
おそるおそる目を開ける。
銃口が捉えているのはアンドレアの額ではなく、床に倒れたナギーブのこめかみだった。
「********」
ヤオは耳元に手を当てて何かを呟き、アンドレアの腕を乱暴に掴んで立ち上がらせる。右手の銃がアンドレアへと突きつけられることはない。
(なん、で)
気づけば、アンドレアはヤオを突き放していた。
一人では立っていることすらままならず、その場にへなへなとへたり込む。ヤオは舌打ちをしてからアンドレアを小脇に抱えようとしたが、弱々しく身をよじってそれも拒絶した。
「******」
不機嫌そうな声音だ。
モニタにはアラビア語の翻訳が表示されている。おそらく「なんのつもりだ」あたりのことを口にしたのだろう。
「ここで、殺してください」
モニタに表示されたのはやはり英語ではなくアラビア語だったが、それでも構わず続けた。
「私ひとりだけ生きていたって仕方がない。それに、私にはもう居場所がない。貴方だったら私は満足です。殺してください」
モニタの表示がアラビア語から英語へと変わる。会話しているのがドイツ語話者と英語話者だと判断されたらしい。
面倒臭そうに眉を顰めていたヤオだったが、翻訳が英語に切り替わった瞬間、その漆黒の瞳がリタを捉えた。
魔女の死体を見て、死神が何を思ったのかは分からない。
ただ、ヤオの顔がほんの少しだけ同情を滲ませたのは気のせいではないようだった。
<言いたいことは何となく分かりました。では、これを>
ヤオが差し出してきたのは血で汚れたナイフだ。
アンドレアはよく分からないまま両手でそれを受け取る。見た目以上にずっしりと重く、手に力が入らない今の状態では持っているのがやっとだ。
<死にたいと言うのであれば止めません。私の仕事は貴方を無事に連れて帰ることですが、上司には私から説明をしておきます>
つまり、「死にたいなら自分で死ね」ということだろう。
あまりに血も涙もない発言だが、アンドレアはヤオの言葉に確かな優しさを見出していた。
そもそも、本来なら死ぬことすら許してもらえないはずだ。〝魔女〟が死んだら任務失敗となる以上、手足を折ってでも生きたまま連れ帰ろうとするのが普通である。
それを、ヤオは「責任を負ってやるから、死にたいのなら死ね」と言ってくれている。
「……どうして」
<地獄で生きていく覚悟がないのなら、ここで死んでおいた方がいいでしょう。死を選ぶことは悪いことではありません。貴方が敬虔なキリスト教徒だというのであれば、話は別ですが>
「同情、してくれるんですか」
<多少は>
「……貴方はどうして、地獄から這い出すことを選んだんですか」
以前、ヤオが口にした言葉がずっと頭の隅に引っかかっていた。
――私もかつては地獄にいたので、貴方の気持ちは多少分かります。
こんな苦しみを味わって、全てに絶望して、それでも生きることを諦めなかったのはどうしてなのだろう。まして、純粋な慈悲として死を勧めるこの男が。
<……何も残さないまま、終わりたくありませんでした>
ヤオはもう一度リタの死体へと視線をやった。
<それに、死んでしまったら、知人のことを覚えている人間がいなくなってしまう>
意外な返答だった。
まさかこの男が、他人のために生きることを選ぶとは。
「後悔はしてませんか」
<分かりません。まだ地獄から這い出て一年しか経っていないので。後悔するにしても、もう少し先のことになるでしょうね>
こうして会話をしている間にも意識が途絶えてしまいそうだ。ナイフを使うまでもなく、体力の限界を迎えて事切れるかもしれない。
それでも、アンドレアは必死にヤオの言葉を噛み砕き、自分なりの答えを出すべく頭を働かせた。強烈な頭痛と目眩、そして息苦しさに苛まれてもなお。
(死んだら、楽になる。もう二度とこんな思いはしなくて済む。お父さんやお母さん、シスター、みんな……そしてリタに会える)
力の入らない手でどうにかナイフの柄を握る。
(でも、私が死んだらみんなのことを覚えている人がいなくなる)
シュメーシュメルツェの孤児院はなくなってしまった。あの場所でひっそりと暮らしていた魔女達は、欲深な人間達に弄ばれ、誰の記憶に残ることもなく世界から姿を消した。
父も母も、シスターも、友人達も、サーカスにいた娘達も、リタも。みんなみんな、この世から消えた。無いものとして扱われた。
もしここで自分が死んでしまったら、彼女たちを誰が記憶し続けるというのだろう。みんなの生きた証を、誰が保証するというのだろう。
忘れたくない。忘れさせたくない。
自分一人が地獄に居残ってでも。
「……私も、何も残せないまま死にたくはありません」
アンドレアはナイフを持つ手を膝の上に置き、代わりにもう片方の手をヤオへと伸ばした。引っ張り上げて貰わなければ立ち上がることもままならない。
<構わないんですね?>
「貴方より先に私が後悔をしたら、その時は笑ってください」
<分かりました>
ヤオはアンドレアの腕を掴み、乱暴に立ち上がらせた。そのままふらつくアンドレアを支えて扉の方へと歩いて行く。小脇に抱えようとしないのは、地獄から這い出ると決めたアンドレアの意思を尊重しているのか、あるいは単純に抱えるのが嫌なのか。
ただ、今ばかりはヤオの突き放した態度が救いだった。
ここで下手に優しくされては、意地で繋いでいる意識の糸が切れてしまうだろうから。
(ごめんね、リタ。私はまだそっちに行けない)
リタの笑顔が、怒り顔が、泣き顔が、そして最期の顔が次々に脳裏を過ぎる。だがアンドレアは振り返らず、扉へと足を進め続けた。
魔女が生きた証を証明し続ける。
そして、何故魔女がこんな目に遭わなければならないのかを明らかにしてみせる。
そのためには手段を選ばない。
(……何が何でも、生き続けてみせる)
ヤオに支えられたまま、アンドレアはようやく部屋を後にした。
扉の閉まる重たい音を耳にした直後、抑えていた涙がボロボロと零れたが、それでも決して下を見ることはなかった。




