BROAD&BLIND#1
「来るな……来るなッ……」
アバブ・マリックはつんのめりながら階段を駆け下り、地下のガレージを走って行った。
常時は恋人のように扱っている高級車達も、今ばかりはただの障害物でしかない。マリックが求めているのはアストンマーティンではなく、身を守れる場所だ。
「何なんだ、あいつは……なんで、こんな」
慌ただしい靴音と切羽詰まった息づかいがコンクリートの壁に反響する。
アバブ・マリックの絶頂が終わりを迎えたのは、つい二十一分前のことだった。
マリックは元々、シンガポールに本社を置く製薬会社で事務員として働いていた。新興企業ではあったが、東南アジアで流行した熱病のワクチン開発に参入するなどして世界からの注目を集めており、待遇は決して悪くなかった。
CEOのアドラ・バーイーは慈善事業に力を入れており、特に貧困地域における子供達の教育に尽力した。彼女が去年〝世界に影響を与えた百人の一人〟に選ばれたとき会社の株価が急上昇し、マリックは同僚から懐が潤ったという自慢話を延々と聞かされる羽目になった。
聖人とまで呼ばれたバーイーの裏の顔を知ったのは、三ヶ月前のことだ。
マリックは隠れた少年愛好家であり、たびたび男娼を買っては自身の欲求を満たしていた。三ヶ月前のある日、マリックはいつも通りフィリピン系の少年を買ったが、その少年が「バーイーとヤったことがある」と口走ったのだ。
詳しい話を聞いたとき、マリックは興奮で手汗が止まらなかった。
バーイーはメディアの前で聖人のように振る舞っておきながら、裏では年端もいかない子供達を薬漬けにし、性奴隷として扱っていた。
その事実をマリックはメディアに告発しなかった。少年の身の安全を考慮したからではない。脅して金をむしり取れると考えたからだ。
狙い通り、バーイーは口止め料として大金をよこした。暗殺を恐れたマリックは資産を持ってパシフィカへと逃げ込み、安全圏からバーイーを幾度も脅迫した。
もちろん、パシフィカへ逃げたあとも暗殺の危険は常に付きまとっていた。だがパシフィカはとある事情からフリーの殺し屋や傭兵が多く、マリックは金にものを言わせて腕の立つ連中を山ほど雇い、二十四時間護衛をさせた。
まさに人生の絶頂だった。
バーイーが何人殺し屋を送り込んでも、全員返り討ちにできる――はずだった。
「ちくしょう、あの役立たずどもッ……!」
腕が立つはずの傭兵連中は今、上の階で物言わぬ死体となっている。
(シェルターに逃げ込んじまえば、いくらアイツでも……)
ガレージを駆け抜け、シェルターの物々しい扉へと手を伸ばす。
その時、劈くような音が地下空間に響き渡った。
「あ……?」
ガクン、と膝が折れる。
一拍を置いて、激痛が右足全体に広がった。
「が、ぁッ……!」
マリックは膝を撃ち抜かれ、シェルターの扉の前で力なく頽れた。
足を引きずりながら、どうにかシェルターの扉に縋り付く。しかしハンドルを回す前に左足の膝も撃ち抜かれ、そのままずるずると床に滑り落ちていった。
「ひっ、ひい……!」
背後から靴音が近づいてくる。
暗がりから姿を見せたのはアジア系の若い男だ。黒いスーツに赤いシャツを合わせ、黒い革手袋を着用しており、右手には拳銃が握られている。
とりわけ目を引くのは、その顔だった。
作り物のように整った顔立ちと、刃物めいた切れ長の目。塗りつぶしたような黒い瞳。思わず息を呑む美しさだが、人間味を感じないその相貌はどこか不気味さすら感じられる。まるでな精巧なマネキンが突然殺意を持って動き出したかのようだ。
「い、いくらだ……」
マリックは男に向き直り、ごくりと生唾を飲んだ。
「どうせバーイーに雇われてるんだろう。いくらだ? 俺ならその倍……いや、三倍は出すぞ」
返事はない。
男は無表情で近づいてくる。
「わかった、五倍……いや、言い値だ。言い値を出す。金ならいくらでもある」
「…………」
「おい、聞こえないのか? 金だ! 金をやると言っているんだ!」
上擦った声ガレージに空しく響く。
(英語が通じないのか? いや、そんなはずは……)
交渉を続けようと口を開いたマリックだったが、男の目を見てようやく置かれている状況を理解した。
――自分は、死ぬ。
――この男から逃れることはできない。
「頼む……殺さないでくれ」
気づけば、マリックは失禁していた。
「ただ金が欲しかっただけなんだ。元はといえばあの女が全部悪いんだよ。だから、頼む、殺さないで――」
銃声。
「――ぉ、あ」
視界が赤く染まり、世界がぐるりと回る。
頭から生暖かいものが流れていくのが分かる。
急速に薄れていく意識の中、氷のように冷たい視線だけがはっきりと見て取れた。
そこに憐憫はなく、同情もない。金に対する欲もない。踏みつけた虫がきちんと死んでいるか確認している――そんな目だ。
(ああ、そうか)
ほとんど機能の停止している頭で、マリックは一つの答えを出した。
この男はフリーの殺し屋ではない。故に金では靡かない。
己が取るべき選択はただ一つ、このパシフィカから逃げることだった。
「B&B――」
二発目の銃声の後、アバブ・マリックは完全に絶命した。