SCARFAITH#4 /1
隣の部屋からは相も変わらずうめき声が漏れ聞こえている。最初の内は吐き気を感じていた臭いも、今ではすっかり気にならなくなってしまった。
リタと再会を果たしてから、おおよそ二日が経過した。
この二日間、追手から逃げるために見知らぬ土地を転々とした。あの殺し屋らしき三人組だけではなく、警察、スーツの男達、果てには一般人にまで狙われ、休む暇がなかった。
しばらく会わないうちに、リタは随分と魔法を使いこなしていた。瞬間移動の魔法がなければ二人とも今頃とっくに捕まっていただろう。
だが、瞬間移動の魔法も万能ではなかった。
リタが言うには、瞬間移動の魔法は転移先を厳密に指定することが出来ないらしい。行きたい場所、あるいは会いたい人を強く思い浮かべることで転移が出来るそうだが、思いも寄らない場所へ飛ぶことも少なくなかった。
昨日もそうだ。二人組の女に追われ、リタは瞬間移動の魔法を使った。だが移動した先は屋外ではなく、ガラクタとゴミで埋もれた狭い部屋だった。
雰囲気から、アジア系住民が多く住む集合住宅であることはすぐに分かった。リタは一人で追っ手から逃げているとき、この雑多な集合住宅をよく利用していたのだという。理由は分からないが、追手の多くはこの集合住宅に入ってこられないらしい。
だが、問題もあった。
隣の部屋には薬物中毒者らしき男がおり、一日中暴れていた。ゴミ部屋から出るにはその部屋を通るほかないが、男の側を通り抜ける勇気はアンドレアとリタにはなかった。
仕方なく、二人はゴミ部屋で一日を過ごした。
とても身を休められる環境ではなかったが、追っ手が来ないだけでも十分ありがたかった。それに、今の二人にとって〝親友〟が側にいるということは、何にも代えがたい幸福だった。
水も食べ物もない。
隙間風が入ってきて酷く寒い。
それでも、また離ればなれになるよりはずっと――。
「――アンディ、やっぱり手が熱いね」
ふいに、ひんやりとしたものが左手に触れた。リタの手だ。
リタの方へと顔を向けた刹那、強烈な目眩に襲われた。それでもアンドレアは笑顔を崩さなかった。
「ちょっと暑いだけだよ」
左手をリタから離す。体が沸騰するように熱いということをリタに悟られたくなかった。
「やっぱり、また熱が上がってきてるんじゃないの? 正直に言って」
「大丈夫だって。私よりリタの膝の方が心配だよ」
ヤオという男に撃たれた膝には痛々しい穴が開いている。平気そうな顔をしているが、相当に痛むはずだ。
「壁をつたえば何とか歩けるから心配しないで。いざとなったら魔法を使うし」
「魔法だって、何度も使ったら体に良くないんじゃないの?」
「…………」
「ねえ」
リタは顔を背けた。誤魔化しというにはあまりに分かりやすかった。
二日前、あの屋敷で初めて魔法を使ったとき、脳に強い負荷がかかっているような感じがした。魔法の原理は分からないが、少なくとも際限なく使っていいものではないのだろう。
「……私のことはいいの。まだ魔女になったばかりだから魔法を使い慣れてないだけ。そんなことより、アンディのことが心配だよ」
「少し休んだら良くなるから、気にしないで」
「うそ」
「うそじゃない」
「うそだよ。見れば分かる。……酷い顔してるもん」
今度はアンドレアが口を閉ざし、顔を背けた。
この二日間、アンドレアの体調はみるみる悪化していった。
背中の火傷が原因であることはなんとなく分かっていた。孤児院で暮らしているとき、大きな火傷を放っておけば菌が入り込んで大変なことになるとシスターが言っていたのを覚えている。
とはいえ、この状況ではどうすることもできない。
大きな通りに出れば追っ手に見つかる。そもそも、言葉すら通じない異国の地でどうやって病院を探せというのか。
自然に治るのを待つか、あるいは野垂れ死ぬか――今のアンドレアには、この二つしか選択肢が残されていなかった。
「……あの日、私がパシフィカに行こうだなんて言わなければ、こんなことにならなかったのかな」
消え入りそうな呟きを耳にし、アンドレアはおもむろにリタの方を見た。
「これは天罰なのかな。私、そんなつもりじゃなかった。アンディを巻き込むつもりなんか」
「リタのせいなんかじゃない!」
思わず出てしまった大声に、慌てて口を覆う。嫌な汗が滲んだが、隣の部屋にいる家主は相変わらずうめき声をあげるばかりで、侵入者の存在には気づいてないようだった。
「自分を責めないで、リタ。悪いのはあいつら。孤児院を襲ったあの連中」
「そうかもしれないけど……じゃあ、あいつらはなんで孤児院を襲ったの? なんでシスターは殺されちゃったの。なんで私達はこんな目に遭うの」
語尾が震えている。
リタは顔を背けたまま肩を震わせていた。
「私、パシフィカってもっと楽しいところなんだと思ってた。何でもあって、賑やかで、綺麗で、新しくって……そんなところでアンディと二人で暮らせたら、どんなに幸せだろうって。なのに、こんな、こんなの、まるで」
――地獄。
ヤオという男が言っていた通りだ。
最果ての楽園。極東にある天国。あらゆるものがそこへ集まり、そして全てがそこから始まると言われている黄金郷。
そんなものは全てまやかしだった。
ここは地獄だ。
自分たちは魔女に成り、そして地獄に堕ちた。
「――アンディ。私にね、一つだけ考えがあるの」
乱暴に涙を拭い去り、リタは親友に向き直った。
少し赤くなったその目には、怒りと憎悪、そして並々ならぬ覚悟が滲んでいた。
「実はね、アンディに会う前……警察の人に会ったの。このジャケットを貸してくれた人」
リタが着ている白いジャケットには、確かに〝POLICE〟と書かれたワッペンがついている。
リタは何度もジャケットを着るように言ってくれたが、アンドレアはヤオという男のジャケットを着たままだったので、毎回首を横に振った。
「あの人、悪い人じゃなさそうだった。もしかしたら、私達のこと保護してくれるかも」
「でも、警察はリタのことを追ってるんでしょ?」
「うん。――人を、殺したからね」
アンドレアはじわりと目を見開いた。けれど殊更に驚きはしなかった。
離ればなれになってから再会するまでの間、リタがどんな目にあったのかはおおよその見当がつく。今、五体満足でここにいるということは、リタは死に物狂いで地獄から這い出してきたのだろう。――それこそ、人を殺めてでも。
「よくよく考えれば、刑務所の方が安全かもしれない。少なくとも殺し屋に追われるよりよっぽどいいよ」
「もし、死刑とかになっちゃったら……」
「その時は魔法で逃げるから大丈夫」
リタはニカっと笑った。無理矢理に繕ったものだと分かっていても、リタの笑顔を見ると、なんでも上手くいくような気がした。
「ちょっとの間、また離ればなれになるかもしれないけど我慢して。アンディはまず病院に行かないと」
「上手くいくかな」
「分からない。でも、あのお兄さんなら大丈夫な気がする」
不安じゃないと言えば嘘になる。リタとまた離ればなれになってしまうのも本当は嫌だ。
けれど今のままでは足手まといになってしまうことも分かっている。リタがその警察官を信じるというのなら、賭けてみるのもいいかもしれない。
「その警察の人、どうやって探すの?」
「一か八か、あの人を思い浮かべて瞬間移動してみる。上手くいくか分からないけど……」
二日前、リタが突然現れたときも、リタはアンドレアのことを強く思い浮かべて魔法を使ったらしい。まさか周りに見知らぬ大人が三人もいるとは思っておらず、ものすごく驚いたと言っていた。
「警察の人には一度しか会ってないから、顔もはっきりと覚えてないの。だから、もしかしたら変な場所に飛んじゃうかもしれない。それこそ、今よりも悪い場所に……」
「いいよ、リタ。やってみよう。私はリタを信じる」
リタの手を両手で握り、ぐっと顔を近づける。
「あの時だって、リタは助けにきてくれた。私に会いに来てくれた。こうしてまた会えた。だから大丈夫。上手くいくよ」
「本当に、いいの?」
「いいよ。行こう」
リタは不安げに唇を噛んでいたが、意を決したのか面を上げた。
「……分かった」
隣の部屋のうめき声が激しくなる。暴れているのか、振動が床を伝わってきた。
「アンディ、私に抱きついて」
言われたとおりリタに抱きつく。何があっても離れないように白いジャケットを強く掴んだ。
「絶対に離さないで。私も離さない」
リタもアンドレアが着ているジャケットをしっかりと掴む。
「さん、に、いち、で行くよ。いい?」
「いつでもいいよ」
「……さん。に」
アンドレアはぎゅっと目をつぶった。
「いち!」




