FALLING /2
「愛するプリンシパル様。今日一日の恵みを、ありがとうございます。どうか、この暗き夜に悪しき者が現れぬよう、私達をお守りください」
静まりかえった礼拝堂に、祈りの言葉が吸い込まれていく。
友人らが寝静まったこの時間に、一人でプリンシパル像と向き合うのがアンドレアの密かな楽しみだった。
(こういうことしてるから、余計に魔女っぽいって言われるんだけど……)
黒く長い髪を持ち、瞳の色が透き通った空色のアンドレアは、度々友人達から「魔女のよう」と言われる。けれどそれは悪意があっての発言ではなく、むしろ尊敬や憧れを含んだ言葉であることをアンドレアは知っている。
ただ、シスターだけは違う。
シスターは「魔女」という言葉を酷く嫌い、口にした子を容赦なく叱る。
(まるで魔女狩りみたい……なんて言ったら、きっとシスターは怒るんだろうな)
「――わっ!」
背後から突然抱きつかれ、体が跳ね上がる。
「ひゃあっ!」
「ふふふ、びっくりした?」
「ちょっとリタ、驚かせないで。シスターが起きたらどうするの」
リタは長椅子をぐるりと回ってアンドレアの横に腰掛け、ぐいぐいと尻で押しやった。
「起きたって、なんも言われないよ。……というか、まだ寝てなかったよ」
「うそ、ほんとに?」
「部屋の灯りついてた」
「気づかなかった……」
「どうしたの、夜更かし常習犯のアンディさん? 調子でも悪いのかー?」
「そういうリタだって、夜更かし常習犯でしょ。……で、今日は何の本?」
「ふっふっふ、今日はなんとこれ!」
リタが体の後ろから仰々しく取り出したのは旅行ガイドだった。
表紙には色とりどりのネオン看板が輝く夜景と、高層ビルの群れ、美しい海に大きな橋の写真が載っている。
「これ……えっと、確かニューパシフィックス、だっけ?」
「そんな言い方してたら田舎者だって笑われるよ。みんなパシフィカって呼んでるんだから」
「パシフィカ……うん、パシフィカね」
聞き慣れず、言い慣れない言葉を心の中で何度も反芻する。
「これ、どうやって手に入れたの? シスターは許してくれないでしょ、こういうの」
「カスパルおじさんがこっそりくれたんだ」
カスパルおじさんとは、シュネーシュメルツェ孤児院に食べ物などの物資を届けてくれる人物のことだ。この孤児院はシスターも含めて外に出ることが許されていないため、カスパルおじさんだけが唯一外界との連絡手段となる。
「うわ、すっごい。見てこれ。どうやってるんだろう」
リタが開いたページには、ビル群の真ん中でポーズを決めている巨大な女性の姿が載っていた。
「ホログラムって言うんじゃなかったかな。映像をこう、立体にするの」
「じゃあ、触れるの?」
「分かんない」
「すごいなあ、パシフィカ。きっと何でもあるよ。灯りも電気だし、火も電気。電気ヒーターもあると思う」
「うちは全部ないもんね」
シュネーシュメルツェ孤児院には電気が通っていないため、二〇三六年とは思えない不便な生活を強いられている。カスパルおじさんが持っているハンドヘルドデバイスは、子供達の間ではSF小説に出てくるスーパーテクノロジーのような扱いを受けていた。
「……私、ここを出たらパシフィカに行こうと思ってるんだ」
「えっ……」
リタの突然の告白に、アンドレアの顔が僅かに曇る。
「……パシフィカって海の真ん中にあるんでしょ? どうやって行くの?」
「飛行機でも船でも、何でもあるじゃん。現にこうやって旅行ブックが出てるんだから」
「そっか。確かに」
ずっと孤児院で過ごしていると、どうしても外の世界のことに疎くなってしまう。飛行機も船も、まるで空想の世界のもののように感じる。
(リタは、将来のこと考えてるんだな……)
置いて行かれたような気になり、寂しさがチクリとアンドレアの胸を刺した。
「アンディはどこか行きたいところ、ないの?」
「何も考えてない。孤児院の外にどんな場所があるかも分からないし……」
「あと二年しかないんだよ? 別に十八歳を過ぎたらすぐ追い出されるわけじゃないけど、せっかくなら外に出ないと」
「わかってるけど」
「だからさ、その」
リタが珍しく口ごもる。人差し指で頬を掻くのは、照れているときの癖だ。
「アンディさえよかったら、あたしと一緒に、パシフィカ――」
その時、建物全体を振るわすような、大きな音がした。
「え、なにっ!?」
ドカドカと荒々しい足音。
一瞬シスターの声がしたが、何かが爆発するような鋭い音にかき消されて、聞こえなくなった。
「誰か、来た……?」
「アンディ、下! 隠れないと」
慌てて礼拝堂の椅子の下に隠れる。リタの体がカタカタと震えているのが分かった。
少しだけ開いた扉の隙間から、男達の姿が見える。少なくとも五人――足音から察するに、もっといるだろう。
「歳いってるのには気をつけろ。魔法を使うかもしれない」
「殺しちまっていいんですか」
「上物なら捕まえろ。そうじゃないなら殺していい」
男達は寝室の扉を開け、無遠慮に中へと入っていく。物音に目覚めた少女達が驚嘆の声をあげるも、それはすぐさまくぐもった声に変わった。
(魔法? あの人達は何を言ってるの)
数分もしないうちに、寝室から少女達が連れ出されていく。みな顔に袋を被せられていて、中には気を失ってぐったりとしている者もいた。
「ア、アンディ……」
リタが震えながらぎゅっと手を握ってくる。
アンドレアも恐怖でかじかむ手をどうにか動かし、握り返した。
「二人足りないな。探せ」
「はい」
足音が近づいてくる。
扉が開き、すぐ目の前まで革靴が迫る。
(プリンシパル様……どうか、どうかお守りください)
リタの手を強く握り、目を瞑る。
「……いないな」
ほっと安堵のため息をついた刹那――。
「なんて、言うとでも思ったか?」
目の前に、邪悪な笑みを湛えた男の顔がぬっと現れた。
「いっ……!」
髪を引っ張られ、椅子の下から引きずり出される。リタも一緒に引きずり出され、羽交締めにされた。
「ランタンの灯は消しておくべきだったな。馬鹿なガキどもだ」
「結構歳いってるな、魔法を使うのか?」
「さあな。ほら、どうだ。魔法で抵抗してみろよ」
頬を何度も叩かれ、焼けるような痛みが広がる。泣いてる場合ではないのに、勝手に涙が滲んだ。
「顔はやめろ。商品価値が落ちる」
「そうだったな。……さて、これで全員だな。撤収するか」
男達はアンドレアとリタを抱え、礼拝堂を出て行こうとする。
「離してッ」
腕に噛みつかれた男が咄嗟に手を離し、リタの体が床へと落ちた。
「このガキ!」
腹部に蹴りを入れられたリタの口から、聞いたこともないような擦過音が漏れる。
「あ、あ……」
十一年ぶりに目にした本物の暴力に、アンドレアはすくみ上がることしかできない。友人を救いたくとも、指先一本さえ動かすことができなかった。
「薄汚え魔女どもがよ。人間様になんだ、その態度は」
「おら、どうしたよ。お得意の魔法を使ってみろよ」
複数人の男に体を蹴り続けられ、リタはぐったりと動かなくなった。
「やだ、やめて……リタ、リタ!」
ようやく絞り出した声も、リタには届かない。
アンドレアは再び抱え上げられ、礼拝堂から連れ出されていった。
(魔法? 魔女? 何を言っているの)
ランタンの灯に照らされたプリンシパル像がみるみる遠ざかっていく。
ふと、開いた扉の隙間からシスターの姿が見えた。シスターは床に横たわり、額に開いた穴から血と、薄茶色の何かを垂れ流していた。
(どうして。私達が何をしたの。どうしてこんな目に遭うの)
男に抱え上げられたまま、アンドレアは決して出ることが許されなかった孤児院の外へと出た。全てを包み込んでくれるはずの暗闇は、車のライトに照らされ、何の力も持たないただの森に成り下がっている。
(どうして。どうしてお助けくださらないのですか、プリンシパル様!)
心の中で叫び声を上げた直後、アンドレアの視界は黒く塗りつぶされた。