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新しい自転車

作者: 笠原たすき

「あらあら大変、パンクしちゃったのね」

 市民プールからの途方に暮れるような帰り道、自転車を押してやっと家に着くと、母親はあわてて祐太ゆうたを出迎えた。

「干からびるかと思ったよ」

 祐太は、ほっとして冷蔵庫へ駆け寄った。

「明日、山本やまもとさんのところへ行ってらっしゃいな」

 祐太がアクエリアスを飲んでいると、母親は言った。

 山本さんというのは、地元の自転車屋のことだ。この近所では馴染みの店で、駅前の駐輪場の半分には、“山本サイクル”のシールが貼ってある。

「ついでに、前カゴもこの間転んだときに歪んだままだったから、替えてもらいなさい。あと、ベルも揺れただけで鳴っちゃうから、調整してもらわないと。念のために、ブレーキも点検してもらった方がいいわよ。」

「そんなにあちこち直すなら、新しいのを買っちゃった方が早いんじゃない?」

「何言ってるの。新品の自転車の方が高くつくのよ」

「でも、せっかくお金を払っていろいろ直しても、いつまた壊れるか分からないよ。新しいのを買って、大事に使った方が経済的だよ」

「それもそうねえ。でも、惜しくないの? いろんな思い出のある自転車でしょ。みんなでピクニックに行ったり、お父さんと海に行ったり……」

「そりゃあ思い出はあるけど、惜しくはないよ。今度は、新しい自転車で、新しい思い出を作るよ」

「そうねえ……でも、大事に使うのよ」

「今度は大事に、使うからね」


 そうして、次の週、祐太は新品の自転車を手に入れた。

 早速、新しい自転車で市民プールに向かった。友だちがうらやましそうにギア付きの自転車を眺めるのを見て、祐太は、前の自転車がパンクしてよかったなと思った。

 帰り道、少し遠回りをして、みんなでコンビニに寄ってアイスを買った。アイスを食べながら、次の遊びの予定を決める。といっても、祐太もみんなも、今週からおじいちゃんおばあちゃんの家に遊びに行く予定だったから、次に会うのはもうちょっと先だ。

「じゃあな、お土産楽しみにしてろよ」

 そう言って、祐太はみんなに手を振った。祐太の家は、みんなが住んでる団地や住宅地から少し離れている。みんなと別れると、一人で家に向かった。

 途中に“山”と呼んでいる、上り坂のあとに下り坂になる道がある。下を線路が通っている道だ。

 いつもは坂を上り切れずに、途中で自転車を降りてしまう。今日は早速ギアを試してみようと、ギアを一段階軽くして上り始める。いつもと違って、ペダルが軽い。これなら頂上まで行けるかもしれない、と祐太は思った。

 でも、頂上に着く寸前で、まったく進まなくなってしまった。ハンドルをぎゅっと握り、足に全力をこめるけど、前に進まない。頭から湯気が出そうだ。

 あとちょっとだったのに。そう思ったけれど、同時に、ギアがもう一段階軽くできることを思い出した。

 少しふらつきながらギアを操作すると、ガコンと音がして、ペダルが軽くなった。

 ペダルを踏み込むと、固いアスファルトの向こうに、明るい空が見えた。

 祐太は今、“山”の頂上にいた。目に映るのは、遠く続く下り坂、そして、祐太の住む町の家々。その向こうには、青い空と白い入道雲。

 やった。

 すがすがしい気持ちで、祐太は下り坂を走り下りた。ブレーキをかけるのなんて、忘れていた。汗だくになった体が、風を切って進む。

 そのとき、足元でまたガコンと音がした。

 何だろう、と思った瞬間、世界が回転した。

 目を白く光らせた黒猫が、一瞬だけ祐太の目に映った。



 気がつくと、祐太は、どこかに横になっていた。

 ここはどこだろう。祐太は考えた。

 保健室のベッドかもしれない。天井に丸い穴がたくさんある。

 いつか具合が悪くなって保健室で寝ていたとき、眠ることもできず、天井の穴の数を数えていた。あのときの天井だ。

 でもおかしいぞ。祐太はすぐに気がついた。今学校は休みのはずだった。なんで保健室になんているんだろう。

 祐太は起き上がろうとした。でも起き上がれなかった。

小林こばやしくん! 気がついた!?」

 祐太の名字を呼んだのは、白い帽子を被った女の人だった。保健室のおばちゃんではない。祐太は、問いかけに答えようとした。でも、答えられなかった。祐太の口には、ガラスの呼吸器がはめられていた。

「先生を呼んできて! ご両親も!」

 女の人は慌てて誰かに声を掛けている。

 祐太は何が何だか分からなかった。


 その後、祐太は両親にこれまでのことを聞いた。

 あの日、自転車のチェーンが外れて、車輪に引っかかって転倒したこと。下り坂でスピードが出ていたため、そのまま車道の宅配トラックに激突したこと。

 その衝撃で、首の神経を痛めて、首から下が動かなくなったこと。

 母親も父親も泣いていた。

 祐太は、まだ何が何だかわからなかった。


 2学期が始まっても、祐太は病院のベッドの上だった。

 母親は、毎日毎日、仕事が終わると病院へ通った。いつも遅くまで仕事をしている父親も、土日には必ず会いに来た。

 両親は、自転車屋に整備不良を訴えた。でも、こちらの操作が悪かったと取り合ってもらえなかった。

 そうして月日が経ち、10歳の誕生日は病院で迎えた。この日は、両親とも仕事を休んで、一日中一緒にいてくれた。

 けれども、誕生日を少し過ぎた頃から、今まで毎日病院に来てくれた母親が、ときどき病院に来なくなるようになった。週末になっても、父親が来てくれないこともあった。

 日に日に、両親とも、病院に来る頻度が少なくなった。

 そして、事故から1年経つ頃には、母親も、父親も、まったく姿を見せなくなった。

 それでも、今は忙しいだけで、きっといつかまた来てくれる。祐太は、そう信じて両親を待った。

 そうして、11歳の誕生日になった。今日こそは来てくれる。祐太は願った。

 病院の人たちが、朝いちばんに、誕生日カードを持ってきてくれた。カードを祐太の目の前に持ち上げて、メッセージを読み上げてくれようとしたが、祐太は断った。

 お昼を過ぎた。お母さんも昼間はお仕事だから、夕方にはきっと来てくれる。

 カーテンの外が暗くなってくる。仕事が長引いたのかも。お父さんと待ち合わせて、夜に来てくれるのかも。

 夜の虫が鳴く声が聞こえる。お父さんも、仕事が長引いてるのかも。

 消灯時間になっても眠らないまま、日付が変わるまで、祐太は待った。


 その次の週。

 病室のドアが開き、待っていた足音がした。病院の人とは違う、スリッパをパタパタさせる音。

 お母さん。ずっと待ってたよ。どうして来てくれなかったの。祐太は声にならない声をあげた。

 いつもは、枕元まで来てくれるのに、今日は来てくれない。

祐太は、わずかに動く首を動かして、母親の姿を見た。

 母親の腕の中には、静かに眠る、赤ん坊がいた。

「ずっと内緒にしてたけど、弟ができたの」

 自分の弟。でも、祐太はぜんぜん嬉しくなかった。

「この子と新しい思い出を作るわ。今度は大事に、育てるからね」


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