西へ
身が軽い。羽根のようだ。頑丈で少し重い防水布のマントも風に翻り、高い位置で二つに束ねた髪が乱れる。風を感じ、地を滑るように緑の丘を駆け下りた。
急に立ち止まり、シルヴィアがいった。
「さあ、もう戻れないわ。これからどうすんの」
ライラは慌てて踏みとどまった。
「まず、西に向かいましょ」
「何故?西は険しい山地よ」
「東は治安が悪すぎるわ」
「どうせ黒点にいくのよ。どっちにしろ危険じゃない。ね、東に行きましょ」
西に行くと都心部を通る事になる。
確かに山地ではあったが、交通も発達していて、なにより治安がよい地域だった。
シルヴィアはそれが何故かとてつもなく嫌だった。
ライラはその様子に気づいた。しかしライラは構わずシルヴィアを説いた。
「野性の勘ってやつ?私は東がいいわ。
貴女は黒点に行く前に死にたいの?私達は東に行けば立派な金持ちよ。襲われて銃弾が尽きるわ。
さもなくば食べ物を奪われるかもしれないわ。対して西方の諸都市は白月程じゃないけれど十分豊かよ。
それに、西の都と呼ばれる場所には私のお祖母様がいらっしゃるの。きっと施しを戴けるわ」
シルヴィアは、ライラが決して屈しないことを思い出し、素直に折れた。
「あんた、意外に計算高いのねぇ」
「なあに、それ?文句?」
不満げなライラの様子にシルヴィアは微笑んだ。
「誉めてるだけよ」
丘を駆け下り、都心に向かった。
都心部は、白月を含む巨大都市帯“ミドル・アース”即ち“世界の中心”の更に核心である。
都心は二十二紀末に行われた道路大整備で大改造され、今では全ての歩道が移動式のものに変わっている。歩かなくとも道路自体が運んでくれると言う便利な代物だ。
歩くのより遥かに早く、大通りでは車と同じ位のスピードだった。気がつけばもうテントは遥か遠く、辛うじて見えるほどだった。
ぼんやりと元来た丘の方を眺めていると、不意にシルヴィアの声を聞いた。
「ライラ、あたし達はもう戻れないのかな」
返事をしなかった。何と言えば正しいか解らなかったからだ。
沈黙が続く。雑踏は五月蝿い筈なのに、私には周囲が恐ろしい程静かに思える。嵐の前の静けさ、とでも言うべきか。
町の人々は私達を物珍しそうに、半ば疎ましそうにじろじろと視る。不快だ。
レグルスを外套で隠し切れていないのだろうか。“異物探査機”に反応してしまったのだろうか。恐らく違う。単に私達が珍しいだけだろう。例えば古拙な服装だ。黒尽くめな上に洒落っ気も無い。それに大荷物ときた。もう私達は大都市白月らしくない、立派な“異端者”である。大体、「ライラ」だとか「シルヴィア」と言う名前自体、この町では珍しい。
そうよ、偽名を使うべきだわ。
スピードは速い。考えているうちにも都心を抜けた。スピードが緩まった。周りが幾ら明るいとはいえ、最早、私達のテントが見えなくなった。
嗚呼、もう戻れないのね。
いえ、きっと戻れるわ。
自分に言い聞かせる。頭では解っていたつもりだったのに、いざその状況に置かれると妙に悲しくなる。必死で涙を堪えた今、隣には魂の抜け殻の様な表情のシルヴィアがいる。テントを見て現実を思い出したためか、さっきのように微笑む余裕はないようだ。
「ねえ、もう直ぐお祖母様のお宅に着くわ。」
反応がなかった。彼女の碧眼は深い闇の様に周りの光を捕らえ、放たなかった。
言葉の通り、幾つかの道を曲がると直ぐに祖母の大邸宅に着いた。
「でかいな」
シルヴィアが感嘆の声を洩らした。否、疎んでいるのかもしれない。
筆舌に尽くし難い豪邸に不意に幼き日々が甦る。
ああ、懐かしい。
この家に来るのは何年振りかしら。
相変わらず夜を感じさせないわ。
あの頃からちっとも古ぼけても変わってもいないわね。
私は偶に今と同じように長かった赤い髪を巻いて、素敵なドレス飾り立ててよくこの家に来たものだわ。今の私にとっては総てが唯の色褪せた思い出でしかないけれど。
無音で門が開く。広い庭を過ぎる。家の扉は開いていた。靴の儘家へ入る。色褪せた記憶が鮮明に甦る。螺鈿の漆器。宝石を鏤めた骨董品の時計。相変わらずだ。もしかするとあの頃に有ったものかもしれない。
シルヴィアは見たことも無い美しさに唯立ち尽くしていたが、やがて顔を少しを歪めた。小さな変化でも幼馴染みの私には明らかな嫌悪だと判る。彼女は絢爛豪華が大嫌いなのだ。今思えば“贅沢疎外主義”は黒点の血筋の為かもしれない。レグルスがマントから這い出る。
その時、黒スーツの使用人が現れ、二人と一匹を導いた。
「さあ、此方へ。ジュリアーヌ様がお待ちです」
床が進む。シルヴィアはひどく驚いた。
「あんたのお祖母様のお宅は都心の小型模型か?」
何時もの皮肉染みた冷笑を浮かべた顔ではなく、真顔で言っているのが余りに滑稽でつい笑ってしまう。使用人も笑っていた、否、嗤っていた。明らかな嘲笑だった。
床が進むと次々とドアが開いてゆく。
ま、今までテントに住んでいたのだから驚くのも無理はないのかもしれないわね。
最後のドアの前で床が止まった。
此処だ。
金の装飾の美しさに嘆息を吐く。緻密な宝石細工のドアには取手が無い。自ら開いてしまうのだ。そしてその先に在るものを想像すると思わず身震いしてしまう。
彼の方は妙に掴み辛い。畏怖を覚える。
レグルスにもそれが感じ取れるのか、白い艶やかな鬣が小刻みに震えている。シルヴィアも押し黙り、辺りには絶妙な緊張感が漂う。
音も無くドアが開く。
目に飛び込んだのは、漆の様に艶やかで黒い髪の若い女だった。