序章
さようなら。今まで過ごした仲間に心の内で別れを告げる。今日は私の旅立ちの日だ。
自由と娯楽の国、白月。
私が嘗て住まった、ビルが立ち並ぶ近代的な都市だ。
私は其処に滞在していた曲芸団、“赤風車”の娘で、唄姫だった。
「リハーサル中悪いけど、ライラ、長があたしとあんたをお呼びよ」
ステージで唄っていた私に向かって幼馴染みで獣使いのシルヴィアが言った。
団の長はライラの父で、名をルドルフといった。ライラが産まれる頃、シルヴィアは遠い地から“赤い風車”に、捨て子として引き取られた。その捨て子は美しい銀髪が生え初めていた為、シルヴィアと名付けられた。団員はその殆どが孤児で、家も無く、曲芸団も移動式で、団員は普通、特設のテントに住み着いた。“曲芸団”というのは白月では軽んじられ、貧しい民が最終的に就く、粗末だとされる仕事だった。確かに人々の娯楽となってはいたのだが。今回は都心という事もあり、街の中心から離れた丘陵にテントを設置していた。
「今、行くわ」
唄うのを止め、練習用のスポットライトから外れる。裾が擦れないようにドレスを持つ。シンデレラでも演じている気分だ。足許に注意を払い、暗い階段を駆け下りる。
「私達をお呼び?何かしら?」
「さあ?あたしには分かんないわ」
「そう。さあさ、行きましょ」
舞台用のテントを出ると、夜中だというのに辺りは人工の光で眩かった。その光は離れた丘陵にも届く程だ。丘の下方を、光源を、横目で見る。風が強い。シルヴィアの美しい銀髪が靡いている。私達のテントはとても簡単な造りなのだろう、被せた布がはためく。早足で舞台用テントより更に粗末な父のテントに入る。
「お父様、お呼びですか」
ルドルフは椅子に座していた。部屋の粗末な灯りが煌めいている。ルドルフの白髪混じりの灰色の髪が更に白く映える。ルドルフは視線だけを向け、ゆったりと応える。
「ああ」
「ご用を仰せ下さい」
“赤風車”の団員は、目上の人に対する時は必ず、古めかしく堅苦しい言葉を遣う。それは敬意の証で、古くからの掟だ。最も、シルヴィアのようにそれを忌み嫌う者もいるのだが。
「ライラ、シルヴィア」
ルドルフは二人を見つめ、静かに口を開いた。
「お前達はもう直ぐ十五になる。精進の旅に出ねばならぬ歳だ」
何時になく厳かな口調だった。
「待って下さい。あたしは捨て子だったんだから歳なんてもんは分かりません」
シルヴィアは抵抗する。無駄だ。これは掟なのだ。
「しかしお前も団員だ。此処に留まりたいなら行かぬ訳にはいかぬ。精進の旅は我が団の掟だ。破ると言うなら…」
「分かりました」
シルヴィアはルドルフを制し、強かに頷いた。
「お父様、私達はその旅に、どの国へ参りましょう?」
おそらく白月の西側の巨大都市帯のうちの都市国家のどれかだろう。先人たちがそうであったように。
「この白月の反対側の国、黒点だ」
黒点?
耳を疑う。
シルヴィアはまるで聞こえていないかのようにルドルフの言葉を待っていた。
「あたしたちはどこに行けばいいんですか?」
しかし今度は長の娘が告げた。
「黒点よ」
まさか自分が行くとは思っていなかったが、なんとなく理解できた。其処は地球上で最も危険な国。俗に言う、スラム街なんてものじゃ済まないだろう。戦火が彼方此方で交わり、泣き叫ぶ声や飢えによる嗚咽が毎日聞かれる。其処におとない、生きて帰った数少ない者が皆、生き地獄と口を揃える程である。
シルヴィアは信じられなかった。
あたしはともかくとして、自分の娘を黒点に行かせるなんて。この人、本当に頭が狂ってるんじゃないのか?
行き先は同じでも行く道は普通違う。単独行動が当然だった。
おかしい。
「あたし達が?彼処はとんでもない国だと聞き及んでおります。一人で旅など…」
シルヴィアは尚も拒む。声が震えている。恐れているのだろう。初めて見る表情だ。
「案ずるな。お前達は二人で旅をしても良い。芸を磨くのだ」
あんな場所で芸を磨けるわけがない。足や腕などを失い、辛うじて生き延びるのが関の山だろう。
「ですが…」
「そこまで不安ならお前にはレグルスも付けよう」
レグルスはシルヴィアが扱う雄ライオンの名だ。レグルスは他のライオンより大きく、立派な鬣を持つ、美しく獰猛なライオンだ。
「幾らあの国とはいえ、ライオンなんか連れてたら捕らえられてしまいます」
シルヴィアは必死だった。震える、今にも消え入りそうな声で只管に手向かう。其処まで行きたくないのか、と思う。
「黒点では犬もライオンも同じことだ。お前達は今日の内に此処を発て」
命令だった。絶対だ、と目で語っている。ここまで厳粛なルドルフは見た試しがない。
「今日はもう暗いです。ね、長、明日にしましょ」
シルヴィアが言う。しかし構わずライラは言った。
「分かりましたわ、お父様」
「待った!冗談じゃないね!あたしはあんな所には行かない。レグルスも危ない目には遭わせたくない。あたしは行かない。こんなとこ、辞めてやるわよ!」
部屋の灯りが揺らめく。シルヴィアはウルフ・カットにした髪を振り乱し怒りと恐れが混じった複雑な表情をしていた。
「私は止めない。辞めたければ辞める。悪くないと思うわ」
「違うな。黒点へ行くべきはシルヴィア、お前だ」
「なっ…!」
動揺を隠しきれない、理解不能、といった様子だ。
「何故なら彼処こそお前の産まれ落ちた地だからだ。自らの同胞に会うがいい。」
「あたしの…?」
「手紙が届いた。会いたい、と」
シルヴィアは黙ってしまった。
部屋中が静まり、彼女の返答を待っている。
会ったことのない肉親がいるのだ。
気を引かれるに決まっている。
「なによ、今更。あたしを捨てたくせに」
唾棄するように呟く彼女は、少し悔しそうでもあった。
「シルヴィア…」
沈黙が再び訪れる。
ドン、とシルヴィアは壁を叩いた。花瓶の水が揺れる。彼女は言葉を吐き捨てた。
「いいよ、行ってやろうじゃないの」
屈強な決意だ。先程までのシルヴィアは其処に居なかった。
「じゃ、早く行きましょ。では直ぐに行って参ります。さようなら。お父様と我が愛する団の益々の健勝をお祈り致しますわ」
ルドルフに一礼し、テントを駆け出す。
この旅が終われば、漸く一人前と認められるのだろう。わくわくする。
「ライラ!あたしを置いて行く気か?しかもその服で、服も金も持たずに!」
シルヴィアき引き留められ、振り向く。その通りだった。着ていたのは、大袈裟な舞台用のドレスと走る事も儘ならないピカピカの真っ赤なハイヒールだった。
「あら、そうね」
「先が思いやられるわ」
自分達の部屋で、シフォン天鵞絨製のドレスを脱ぎ捨て、ルドルフが用意した衣服を纏い、長い赤毛を高い位置で束ねる。用意されたのは特別な布で作られた黒い長袖のシャツと長いズボンだ。軽くてドレスなんかよりずっと動き易い。靴は少し重みがあって、登山用のものに似ている。外套は不思議な翠色をしていてしなやかなのに、なかなか頑丈な作りだ。革の鞄には保存食だけでなく、煌めくナイフ、更には銀色の拳銃まで用意されていた。黒点では電気が無いという。そこでは旧型の銃の方が優れた新型の電動式の光線銃よりは役に立つだろう。
それを手に取ってみる。
「凄いわ。初めて見た…」
銃の重みに思わず呟く。ズボンに着いていた鞣し革とメリヤスで作られたガーターリングに差し込んだ。
「ライラ、あんたこれがどういう事か、わかってんの?」
シルヴィアが叫ぶように、喚くように言う。
「ええ。危険な国なんでしょ?」
銃がキラリと閃く。綺麗。シルヴィアの長い髪と同じ色だ。
「そうよ!あんた良く笑って居られるわね!」
首を傾げる。
だって楽しみじゃない。
漸く一人前として認めて貰えるのよ。
貴女だってお兄様に逢えるのでしょう。
それに、危険なのは当然の事。
「このサーカスの人は皆、精進の旅を経て此処に戻ってきたの。一人残らず、生きて、ね。私達だって…」
「今まであたし達は黒点に行った人を見ていない。多分あたし達は死出の旅に行くのよ。あたし達、あたしかあんたが最初の死者になるかもしれないのよ」
「私は戻るつもりよ。無傷とはいかないかもしれないけれど」
シルヴィアが呆れた、とでも言いたげに嗤った。
「きっと致命傷ね。もうここで働けないほどの、よ」
「あら、酷く弱気なのね。貴女らしくないわよ」
「あんたが楽天家なだけよ、ねぇ。ライラお嬢様?」
楽天家、私が?そうかも知れないわね。
「お喋りは止めてそろそろ出発しませんこと?」
「そうね」
二人は勢い良くテントから出た。
テントから出るとルドルフとレグルスが待ち構えていた。光を岡の下からうけてテントが光っている。
「儀式は執り行わぬ」
精進の旅に行くにあたり、儀式を行うのは当然の事だった。
「あたしはそれで結構。葬送の儀なんてごめんだね」
シルヴィアの乱暴な言葉に反し、声は恐怖を孕み震えていた。武者震いか、いよいよ怖じ気づいたのか、ライラには掴めなかった。
「そうか。ではさらばだ」
レグルスがシルヴィアの許へ寄り添う。
「さようなら」
声を揃える。一礼し、夜の街に駆け出す。
都市の光がゆっくりと私達を飲み込んでいった。