漫画やアニメの考察は面白いが吐き出すのは勇気がいる。
最近、漫画やアニメの考察まとめ動画みたいな動画がオススメされる。
考察は面白い、というスタンスだ。
作品の中に描かれた100の要素があったとして、考察によって更に細分化されていき、200、300、あるいは1000と認識出来るものが増えていく。
その細分化された物の中に共通点を見出し、作者が本当に伝えたかった事などが手に入る。
また、そこから計算して作中で描かれなかった事などを夢想できる。
一方でまるで見当違いな場合もあるが案外それが自分にとっての生活や仕事、何かのきっかけになることがある。
なので考察などをしたら書いてみれば良い、と思うのだが勇気がいる。
最近とある漫画の考察をしてコメントをしてみたら割と斬新な考え方だったらしく面白いという反応を貰ったのだがそれ以外にネタかどうか分からない返信がいくつかあった。
例えば「コレは酷い」という返信。
考察なので妄想に近いのは当然であるのだがこのコメントが賞賛も含めた「コレは一見とんでも無い考察だが一応の筋も通っていて一理ある」という意味なのか。
あるいは言葉の通り酷いというだけの侮蔑的な言葉なのか。
考察は半ば妄想としてそうしたコメントは気にしないように自分はしているが、ある程度の根拠と要点をまとめた考察に具体的な指摘もなく、たった数文字で非難されたら嫌になるのは当たり前だし、それを考えたら考察コメントそのものを書きたくなくなる。
考察は正解ではなく、あくまでそうした考え方もあるというものに過ぎない。
作品の正解はあくまでも作品の中か、あるいは作者の中にしかない。
考察をする側は正解を探すためにしているのだがそれを他人がとやかく言う権利もないし、正解を求めるのであればそもそも他人の考察なんて見るのが最も無駄で見当違いなのだ。
考察した側を非難するのはその考察をあたかも正解として装った場合のみ。
「コレはこうなんじゃないか?」と言ってる内は黙って聞いておくか、あるいは矛盾点を指摘したりする分に留めておき、考察そのものは否定はしてはいけない、ってのが考察を受け取る側の姿じゃなかろうか。
例え考察がその部分、あるいはその時点では間違っていたとしても、別の話やあるいは新情報で繋がりがでる事もある。
考察すること自体は正解を探すための行為。
それを受け取る側はあくまでも考察を受け取るか、受け取らないかを選ぶのみ。
漫画などのフィクションの考察において正解不正解を決めるのは作者であって読者や考察を受け取る者ではない。
…と言えば「無駄な情報が多過ぎるのは如何なものが」みたいなお気持ちが出るんだけど、そうした取捨選択はそもそもが趣味の延長線に向けるべきものなのかな?ましてや他人の考えに対して。
というお気持ちエッセイ。
スッキリしてた方がデータとしては見やすい、という意見自体は分からなくもないのだけど、考察してる人間は他人のために正解を出そうとしているわけではなく、あくまでも自分の欲求のため。
オナニーと変わらんし、そのオナニーを進んで見に行って非難を浴びせるのはツイフェミ的な行動に似てるよね。
それを男がやってるのだとしたらツイフェミ的な、女の性質を帯びた男、極めて「男らしい」行動だ。
だから正解を求める以上は考察なんか見るだけ無駄なんだから黙って去れば良い。男らしく。
けれど考察を楽しいと感じてしまう欲求があるなら、考えてみて吐き出してスッキリしようぜ、という話。