男女のホラーの怖がり方の違い。
最近、ホラゲー実況をよく見るので。
よく海外ホラーと日本のホラーは違うと言われる。
海外のホラーは驚かせると言うかゾンビや悪魔的な視覚や聴覚といった感覚に訴えかけてくるホラー。
日本のホラーは、というと幽霊だとか不気味さ、とか言葉では言い表せないホラー。
ホラーは基本的に死への恐怖が根っこにあり、それぞれ海外と日本では古来より、死者の弔い方が異なる文化なので違うと言われている。
土葬と火葬といった違いであったり、あるいは宗教的な魂などの霊魂の考え方。
そうした色々な文化の違いもあるがその根っこにある差はなんなのか、というとそれは女と男の差だと思う。
ホラーではないが虫についても怖さや気持ち悪さを感じる。
大人になった今では虫全般が苦手だが、男の自分も子供の頃はカブトムシやクワガタなど穫りにいったものだ。
しかし子供の頃の女はあまりそうしたものに惹かれる者は居なかった。
これは怖さを何処に対して感じているのか、という男女差の違いとなる。
男が恐怖に感じるのは未知への恐怖である。ソレは裏返せば美的感覚なども空想の中に存在する。
対して女は実害、つまり実際の痛みや苦しみなどへの恐怖。
美的感覚も目で見る世界の中に存在する。
成長することで男は女の性質を得ることで虫に感じていたカッコよさを感じるよりも虫の持つ不衛生さ、毒。あるいはその虫を餌とする鳥や蛇といった存在に恐怖を覚えて遠ざける。
女は男の性質を手に入れることで元々備わっていた想定できる実害への恐怖と想定出来ない未知の恐怖という感覚を手に入れる。
洋画と邦画でのホラー映画の怖さの違いとはどちらの性質が底にあるか。
過去に何度か言っているが日本とは女の性質が根底にある。
社会的な成長の性質とは男寄りの成長が優遇される。
つまりは男の持つ多様性や拘りを削ぎ落とし、それを「男らしさ」と呼ぶ。
そしてその削ぎ落とされ、不要とされた物が日本におけるエンターテイメントだ。
結果として日本のホラー映画の根底にあるのは「未知」「空想」 といった手に触れる事が出来ない物への怖さとなる。
だからこそ学校、小さな村、一つの家庭といった規模は小さな話なのだけど何処か広く深く先の見えない怖さに感じられる。
一方、海外ホラーの定番となっているのは物質的な肉体であったり霊体であったりしても根っこにあるのは「どう対処するか」というものがある。
男の性質が根底にあるため、強さとは日本の男らしさとは異なる。
男とは大きく、力があり、タフである事。
そしてそれが男のみならず人のあるべき強さであるとするために女にもそれを求める。
結果としては未知の物、空想の中のもの、という存在は日本のように触らぬ神に祟りなし的な「恐怖」の対象として遠ざけるもの、逃げるものではなく「解決すべきもの」 という考え方だ。
逆算的に考えればエンターテイメントとしては前提として解決策、答え有りきとなる。
そして解決策、つまりゴールがあるという事はホラーの原因となったスタートがある。
原因と解決策がある状態からその道程をホラーとして描く以上、「山あり谷あり」を描かざるを得ない。
それを一般的にハプニングと呼ぶ。
だからどれだけ話の規模が大きくても解決と対策があり纏まってしまってどこか小さく感じられる。
ホラーそのものは解決される前提なので最終的には「本当に怖いのは人間」のように人間同士のイザコザ、リアリティへと展開したりする。
勿論、エンタメにおいてはどちらが良い、という物ではない。
ただ逆に言えば未知や空想を求めるのは満たされていない事にも繋がる。
実現しよう、解決しようと思うのは満たされている証拠とも言える。
銃より刀にロマンがあるのはそういう事よ。