人生の春夏秋冬は冬春夏秋の順らしい。
自分は過去に人生を四季に例えたけれど実際は20歳までを冬、そして春、夏、秋としていく説があるらしい。
冬は植物が枯れて辺り一面が雪で隠れて何もない、それを未成年の子供の期間に当てはめて考えたらしい。
しかしその考え方に当てはめると冬の次の春の季節。
春の字が入った人生における青春という言葉があるがそれを20から40代に当てはめるのは少し無理がある。
単純にこの「冬春夏秋」という考え方の時代と今の時代「春夏秋冬」では完全に考え方が違うわけだ。
また、冬から始まる考え方を創り上げた人というのはまず間違いなく貴族のような類の人間だろう。
生まれながらの貴族なのか、はたまた何かの偉業を成して高貴な身分になり得たのか、それは知らん。
ただ「冬春夏秋」の順にしても、「春夏秋冬」の順にしてもどちらも「力のない期間」を「冬」と捉えている点。
冬から始まる方は「子供」をそれに当てはめ、冬で終わる方は「老人」をそれに当てはめる。
これはつまり現代の人間が「若い世代に大人らしさ」を求めているにほかならない。
さて学校という物はもはや当たり前のものではないあるが昔はそんな制度はない。
しかし学校は何か、と問われれば社会で生きるための準備期間。
学業、人とのコミニュケーション、運動能力など、様々な準備が必要だ。
だがそれが本当に春という時期にするべきなのか。と問われれば改めて考え直すと素直に全てを肯定するのは難しい。
春夏秋冬の考え方で考えてきた自分だが当然だが春の前は冬。
そしてゲームのようにフィールドを一歩跨げば冬のフィールド、春のフィールドと明確に分けられているわけではない。
まだ冬ではあるが春が近づけば雪が溶け、所々に地面が見える場所が出てくる。しかしまだ冬である以上は天候によって吹雪で地面が隠れたり、あるいはまた見えたりと変化する。
一言でいえば曖昧なのだ。
しかし、管理しやすいように社会的に分けられている。
社会のシステムとして分けられているからそれに従うのが楽だが全員が全員出来れば問題はないが出来ないからシンドいのだ。
個人的にはやはり「拘り」が足を引っ張る。
冬で解消すべき拘りが、春で解消すべき拘りが、いつまでも解消されないまま夏を迎え、秋になり実を結ぶ。
社会は管理しやさのために区切りを明確にする。
個人は拘りを解消するために区切り伸ばしたい。
このエッセイで毎度の事になるが「家庭」、つまりは若い時代における親が重要なのだ。
「いつまでも親の所為にする子供」ではなく、「いつまでも責任から逃れる親」が問題だ。
子供というのが親にとっての「秋の実り」とするのであれば親の拘りのために子供が犠牲になった。
植物でも苗木の側に大樹が重ねれば大樹の葉が光合成や遮り、大樹の根が地下の養分を奪う。
だが大樹がなければ動物はやってこない。
草や葉、あるいは大樹の実を求めてくる動物、そしてその動物を食らうための肉食動物。その肉食動物が死に分解され大地に還る。
生命の循環はうまくいかずに結局、枯れる。
しかし親、というより大人の世代は仕事のためにも拘りを持たなくてはならない。
自分の拘りを社会の区切りと天秤に掛ける。
親子の関係はさらに社会でバランスをとるために削られた拘りをさらに子供の成長と天秤に掛けるという2段階の削り取る工程に分けられる。
だから自身の拘りを捨てられる親というのは偉大ではあるが現実的に考えて過半数以上が偉大な親に当てはまらないと思う。
引きこもりの8050問題。
また70代でも90代の親を憎む者、憎むまで極端な感情を持たずとも思うところがある「いい年の大人」も大勢いる。
恐らくは「冬春夏秋」は理想である。
しかし現実として求められているのは「春夏秋冬」である。
というよりもいえば「実りの秋」しか求められていない可能性がある。そして「不毛な冬」は求められていない。
そしてそれは経済やビジネスを考え方の根っこに持った者達が非常に顕著であり、彼らは今現在待っている。
日本における「冬」とは未熟な子供や芽吹いたばかりのネットビジネスやネット文化ではなく、「高齢者」であり、「田舎」だからだ。
過去にはそうした人間達は「冬の象徴」の人間や文化を「金の力」で排除しようとしていたがその必要もない。
自分の地元では以前は4つあった小学校が一つの小学校に合併する。
それだけ子供も大人も少なくなった。
空き家も増えて駅は無人、バスも減った。
金の力、そして労力をいくらかけても消えなかった人間達が時間の力でドンドン消える。
冬春夏秋も、春夏秋冬の順番も結局のところは繋がっていく。冬が到来し、その年が終わってもまた来年の春夏秋が来る。勿論来年の冬も。
ただ、はっきりしている事は「生まれる」そして「死ぬ」事。
生まれるのも、死ぬのも冬。生まれたばかりの子供は力がなく、そして力がないから死ぬ。
それだけは裏切らない。
春夏秋、その力が強く求めれば冬も強くなる。
強い冬に対抗するためには個人が、家庭が、社会がそれぞれ強くなる必要がある。
しかし、社会は弱肉強食、家庭は旧態然、個人は拘りを求めてバラバラである。
だから社会も家庭も個人も一つになる必要があり、それはデストピアになりかねない。
何故ならその一つになったときの核となるものが現状の日本は宗教でも王族の血筋でもなく「経済」。つまりは金しかないからだ。
愛で結びつく必要がある。
金と時間と労力。
そのためには残念ながら田舎の人間こそが拘りを捨てて文化の継承を金と時間と労力を使った愛の籠もった「現状維持」ではなく最低限の「保護」に切り替えて余った愛を現実の現在の人間に向ける必要がある。
田舎こそ春夏秋冬から冬春夏秋への意識の変化。
秋の実りは自分の冬のためではなく次世代の冬の蓄えに。
そして死ぬ事をネガティブに捉えず、ポジティブにも捉えない。
「春夏秋、自分は良くやった。」
春夏秋冬としての冬はそれだけ言えれば充分だ。
良いお年を。