男は2を求めたがる。女は1を求めたがる。(いつも通り)
男はその性質から2を求める。
2とは前後、左右、上下に。
あるいは明暗、高低。緩急。
強さ、美しさ、多様性。
そうした差を求める。差を作る。
一方で女は1を求める。
1とは唯一無二の正確さ。
正か否か。
生きるか死ぬか。
出来るか出来ないか。
日本の精神的な根底にあるのは女の性質であり「生きるために必要かどうか」がある。
その土壌は狭い。1しか入らない容器の中に男の2は入らない。
結果として日本の男は女性化し、シンプルさを追求する事にシフトせざるを得ない。
女の指標は生活だけだ。
それに応えるために男は自分の持つ武力や強さへの渇望、美意識の追求。
そうした女の容器から溢れた物が結果として空想、性癖、趣味といったものに多様化される。
一方、海外の男の性質で作られた2が入る容器に対して女は1しか存在しない。
だから男はせっかく2が入る容器に1しか入れないのは勿体ない、と女に2を求め、結果として女の男性化。
女はそれに応えるために最低限の生活力のみならず強さ、美意識をもとめる。
結果的にはそれが容器の中に収まっているために日本の女からするとスッキリと綺麗に見える。
しかし実際は男は2、女は1。
日本も海外も変わりはない。
その一つの違いとして格闘技がある。
基本的に現代の格闘技は武道や武術の延長にあるが日本の最古の格闘技といえば相撲だ。
しかし相撲は身体をぶつけ合って競い合うという意味では格闘技ではあるのだが、決定的に違うものがある。
それはあくまで「力比べ」という事。
多くの格闘技が「生き延びるための術」から発展してきた「力比べ」のなかで相撲というものは最初から「力比べ」を目的としている物。
強い者に対して打ち勝つ術としての技術ではないし、戦場で武器を相手に徒手空拳で戦う術でもない。
かと言ってエンターテイメントとして成り立っている物でもない。
加えて言えば「横綱相撲」などと言われるように力をつければつけるほどルールの中で定められた技術から使える技術を削られていく。
作戦ではなく技量で、そして技量ではなく純粋な力で。
格闘技だけではなく料理などでも日本の性質は似たような物を感じる。
究極的に言えば当事者以外、興味がないのだ。
役割が最初から決めつけられている。
それは性別であったり、体格差であったり、そうした生まれ持ったもの。
相撲は男がやると決まっているが、さらに言えば「強い者」がやる行為であり、一般人にとっては無関係。別世界。
そして求める物は最低限。
最低限だからそれは義務であり、やって当然。
最低限を超えるクオリティを目指すのはただの遊び。
遊ぶくらいなら別の仕事をしろ、と言われる。
神話などを見ても日本は英雄譚的なものがないように感じる。
海外の神話における英雄は試練を乗り越え成長していく。
日本の場合、英雄というよりも最初から実力のある者が依頼や命令を事務的にこなす、というように感じる。
現代ではフィクションでは逆転している。
ハリウッドなどのアクション映画、あるいはゲームでは筋骨隆々、経験豊富なおっさん達が暴れまわる「リアリティ」が求められている。
一方で日本はなろう作品は勿論だが、人気作品は至って普通の未熟な若者達が主役となって成長していく「非現実」。
それぞれ正反対だが求めていることは同じ。
「自分の道を否定しないでほしい」という事の現れだと思う。
フィクションに「リアリティ」を求めるのはそれまでの自分を認めて欲しい。正しい事だと言ってほしい。
「非現実」を求めるのは歩みたい自分の道を認めほしい。応援してほしい。
現在立っている場所が男の性質の不安定な土壌だからこそ、女としての性質である安定を求める。
現在立っている場所が女の性質の自由がない土壌だからこそ、男としての性質である挑戦を求める。
そうした事の現れだと思う。