男女の性質を持つ者。その3
サイコパスやソシオパス、ゲームのプレイヤーになった気持ちに例えるなら自分以外の存在は「NPC」、社会は「ゲームシステム」。
欲しい物があれば家の壺を割ったりタンスを調べる。
NPCがいくら泣き叫ぼうがそうしたモーション、イベントでしかない。
ゲームシステムには従うがそれは自分に都合よく生きるために利用するために従うだけだ。
有益な物は使う。不要な物は捨てる。
自分がそのゲームをクリアする事が目的のため、エリクサーは普通に使うし、一点物のレアアイテムでも躊躇なく使うし金になれば売り払う。
ダンジョンは無駄なく、効率的に。マップ埋めなんてクエスト報酬がないならしない。
攻略情報も一周目から見る。どうせ2周目なんてやらないから。それなら効率的にプレイしたほうがいい。
そんな効率だけを求めたプレイスタイル、何が面白い?と思う人もいるだろう。
似たようなプレイスタイルはRTA走者はいるがあれは早くプレイする競技だ。
その他では女のゲーム実況者とかを見ると同じようなプレイをしている。
勿論個人差があるとはいえ、それはやはりゲームをプレイすることそのものに拘りを持つのではなく、それを通じて自分をチヤホヤしてほしい、といった承認欲求、自己顕示欲といった物がある。
それをサイコパスはゲームを通してではなく直接人間相手にやっているだけだ。
さて、コレだけでは「NPC」と判断した他人に承認欲求や自己顕示欲をぶつけるのは矛盾しているように思える。
実際、承認欲求や自己顕示欲とは違うのだろうがNPCにチョッカイを出して変化が生じる、それが天秤の錘として「自己」とは反対の受け皿に乗る事で楽しくなる。
男と女の両方の性質を合わせて癒着し、肥大化した「自己」という錘。
天秤は常に偏っている。そのため変化はない。
しかし他人を刺激して反対の受け皿に上がらせる事でその衝撃で反対側の「自分」はフワリと浮かぶ。
だがそれは衝撃の一瞬のみだ。絶対的に重い自己に対して単なる他人は錘として釣り合わない。
他人、「NPC」一つの錘だけでは。
ならもっと巻き込めば良い。
一つ、2つと増やせば自分の欲求、シーソーゲームを楽しめる。
そして刺激をもっと増やすためには自分もまた力を着ける必要がある。
趣味でも仕事でも拘りを持つ者ならわかる筈だ。
他人から何故そんな苦しいことをしているの?と言われてもそれが楽しいからとしか答えようがない。
サイコパス達はその拘りの対象が自分自身であるだけだ。
しかし同じ刺激では飽きる。
だから刺激を増やす。
そして増やしていけば結果としてそれは自己を肥大化させる原因にもなる。
次第に単にNPCを増やしていくだけでは物足りなくなる。
最終的にはゲームシステムそのものを受け皿に乗せようとする。
それはつまり現実世界に戻せば法を触れる事態となる。
どんな拘りでもギリギリをやるのが気持ちいい。
そしてゲームと違い牢屋に入り、その刺激が無くなる。
だからサイコパス達は反省がない。
刺激、楽しみを奪われた被害者意識しかない。
さて、この後のサイコパスはどうなるかといえば基本的に2つ。
シャバに戻り、また同じような事をする。
自分を陥れた者に復讐する。
そう、至って普通。
サイコパスとは男女の性質のバランスが取れた存在。
さて、人生において春夏秋冬、そのバランスが取れている時期は何処になるか。
それは春と秋と冬。
未成熟な子どもの春。成熟を終えて実を結び、老化に至る秋。そして老衰の冬。
サイコパスは夏がない。
故に反応は「未成熟な春」の子どものように無謀を繰り返す。
あるいは「老化へ踏み出す秋」の中年のように自分が正しい筈だ、と傲慢になり、非を認めずに他者を呪う、
サイコパスがサイコパスを払拭するには冬にならなければならない。
サイコパスが常に他者へ向けていた決断力を唯一無二の拘りを持つ「自身」へ向ける。
そして常に自身に向けていた拘りを「周囲」に向ける。
男女の性質が癒着して生まれた「自己」ではなく、改めて普通の人間のように天秤を取る必要に迫られる。
シーソーゲームで常に下がった状態の膨張した自己を上がらせるために他者や社会を錘にするのではなく、その膨張した自分の拘りを決断力で切り離して他者や社会の天秤の錘として提供する。
重圧や辛さで崩れてしまいそうな人、怒りや悲しみで何も出来なくなる人。
そうした人は世界が内向きに向かい、他者と自分の天秤が徐々に自分の方に重さが偏っていく。
そうした人達の他者側の天秤の錘となってバランスをとってやる。
そうした者にサイコパスはなる事でサイコパスから脱却し、単なる成功者から偉人へと変化する。