考察厨、という言葉があると知ったので。
なろうに漫画とかの考察とか投稿していいものか、2次創作の権利絡みに抵触しないかどうかと調べていく内に「考察厨」という言葉を知った。
主に漫画などで何でもかんでも考察してウザい連中、という事らしかった。
自分も当然それに当てはまるわけだが、そりゃあ好きな奴がいれば嫌いな奴といるよな、という答えにはなる。
さて、それで終わればわざわざエッセイにしない。
なんたって考察厨だからな。
さて考察厨と考察厨アンチだが典型的な男と女の性質である。
考察、というのは基本的に空想、妄想だ。
あーでもない、こーでもないと考えていく。
4元素で言えば実態のない変化する性質を持った火、そして風。つまりは男の性質。
考察、とは火を風で大きくして炎を生む焚き火の事。
まず考察するにはそのための材料が必要。
それは例えば漫画。それを焚き火の薪木に例える。
しかし漫画そのものはそれで完成している謂わば樹木だ。
さすがに大きな樹木にマッチ程度の火を近づけても火はつかない。
だからその木を細かく切って丁度いい大きさにする。
それは1話、であったりあるいは1ページ、1コマ。あるいは1つの台詞。
妄想の火の大きさによって切り分ける。
最初は1つの台詞に火をつけて同じように気になる台詞を焚べていき火を大きくする。
共通点、あるいは違和感などを感じる事が少しずつ燃やしていく。
そしてそれだけでは火は消えるし勢いも弱いまま。
薪となったものは火をつけるだけでは炭化してやがて炭、そして灰になるだけだ。
火を大きくし、その勢いを強くするには適度な風が必要だ。
適度な風、というのは考察に置き換える思考でありその行動とは実験だ。
「AがBということであれば、こうした状況になればCという答えが導かれる」
その答えであるCが導き出されたら最初はマッチ棒程度の小さな火が松明として使用できるくらいの大きな火となる。
台詞一つの考察から出来た大きな火を元に今度は1シーン、その考察が終わってさらに大きく燃え上がれば1ページ分の考察、1話分、と最終的にその漫画の考察をして焚き火は終了し、納得や解釈という名の炭になる。
その結果として何の意味があるか、と言えばそこで行った火の付け方、風の強弱、それらが炭となり、やがて灰となって考察した人間の思考の肥料となる。
ただしかし、「頭でっかち」という言葉があるように肥料だけあっても何も生み出さない事は明確だ。
その肥料を有効活用するには4元素の地と水が必要。
考察を焚き火、そして原作を樹木、と例えたように連載中はそこには地と水の力が通っている。
そして完結しても樹木が枯れ木になるまで水が通っている。
それは別の言葉で表せば余韻、という物。
余韻に浸っている間は考察できない。感情の整理をしているから。
そして余韻に「浸る」という通り、その余韻とは「物質」として存在しながら人間の感情に合わせて「変化」する物。
つまりは余韻とは液体、「水」の性質。
考察厨アンチは水の性質、つまり女の性質を持った人間。
火と水、そりゃあお互い理解出来ません。
地と水が有れば確かに木は育つ。
しかしその自然に任せただけでは変化はない、あるいは非常に緩やかな土壌の変化を通じて間接的に起きる変化。
そして動きのない水由来の変化となるとそれは「腐敗」であり死ぬだけだ。
考察を焚き火、としたならば腐敗とは何か。
それは忘却だ。
残るのは枯れ木。つまり「思い出」の品。
やがて邪魔になり処分されるだけとなる。
それこそ考察厨からすれば無駄なのだ。処分されるだけなら有効活用させなくては勿体ない。
有効活用されずに処分されるだけの道のスタートとなる腐敗を止めるには動き、という風の力の攪拌。
そして火の力の結晶となる炭、肥料を撒いて改善する。
強すぎる火は身を焦がす。同時に強すぎる水もまた酸欠に陥って腐らせる。
答えや結果は現実にしか存在しないが、アイディアやきっかけは空想、目に見えないところにある。
結果としてはいつもと変わらん男女の性質に帰結するのだけど、
考察厨から考察厨アンチに対して言いたいのはそのくらいかな。