男女の性質を持つ者。その2
サイコパスは先天的だが後天的にその性質を持ったソシオパスという存在がいる。
根本的には全て男女の性質の「バランス」という点では高い能力である。
単純にそれが先天的であるのがサイコパス、そして後天的なのがソシオパス。
ソシオパスは主に甘やかされて育った環境で発生すると言う事なのだがこれは言うなれば男の性質を持たされたと言える。
何度か天秤、という言葉でこのバランスについて表現しているが子どもの場合、どちらかというと公園などに有るシーソーに近いかもしれない。
子供の段階で男の性質、拘りも女の性質、決断力も弱い中、親から「甘やかす」という男の性質をそのシーソーの端へ置く。
それが一時的であれば良い。
あるいはちゃんとそれを嗜める女の性質を反対の端に置いてバランスを取れば良い。
しかし、この女の性質無しに男の性質だけを置けばどうなるか。
シーソーは傾いた方向に子ども自身の人格となる男と女の両方の性質が下っていく。
何故か、言われれば怖いからだ。
大人、それも親の力に歯向かって「甘やかす」という錘の反対へ向かうというのはつまり親に背くという事。
シーソー、個人的には親と遊んだ事は無いが片方に重い物、もう片方に軽い物を乗せればどうなるか分かるだろう。
もしも重い物が急に外されればシーソーは跳ね上がるように一気に動く。その際、両端に置かれたの重さの差、中心からの距離が遠いほど衝撃は大きい。
遊具であったり、あるいは遊びであったり、変化したり不安定だったりすればするほど楽しい。
それは自由度が高いからだ。
シーソーも楽しい遊具だが使い方を間違えれば危険物になる。
だから自由であることを放棄せざるを得ない。
自身の安全のために。
そうやって子どもの時期のシーソーを降り、大人になるとバランスを取るのは天秤となる。
今度バランスを取るのは自分自身なのだがそこには錘は一つ。
普通の人間なら男と女、それぞれの性質の2つの錘がある。
しかし、ソシオパスは子どもの頃の経験で「男」と「女」が癒着してしまう。
「無駄を求める拘り」と「無駄を分ける決断力」、相反している物が合体した結果、「自己」という物が作られる。
確かにそれは必要な事だが本来なら男の拘りとは自分の外側に向かう。
子どもなら漫画やゲームなどの物理的な物、大人になれば仕事や趣味、あるいは社会的な立場といったもの。
自分磨き、なども結局は自分に足りないものを身に着けていく行為だ。
それらの拘りがサイコパスの場合、自分になる。
そして女の決断力とは生きていく上で無駄か無駄でないかを切り分ける。
では拘りが自分自身となるサイコパスにとって無駄とは何か。
それは自分以外の存在全てだ。
だがそう考えても現実的には自分が生きるためには他者、そして社会が必要だ。
だから一応、「無価値」とは思わないものの、必要最低限の意識しか向けないし愛着を持たない。
愛着は自分に向けられ、更に「自己」が肥大化する。
愛着、つまり拘りだが本来なら行き過ぎたそれを削り取る決断力が天秤のバランスを取るのだが、その決断力が向かう先は他者へ向かう。
自分の拘りを高めるために他者から奪えばいい。どうせ必要無いものだから。
そうした結果、「成功者」とされるだけの力を付けて行きやすいわけだが同時に反感も買いやすい。
そして分断のラインが「自己」と「それ以外」だから思い切りの良さ故に超えてはいけないラインも簡単に踏み抜く。