毒親
毒親、ここ数年良く聞く言葉、
だけど別に今に始まった事じゃなくて今ようやく可視化されたというだけの話。
毒親は賢者、勝者、敗者のうちの勝者の成れの果て。
だから日本の親は毒親だらけと言って良い。
事実、毒親のエピソードや動画などにコメントされたなかで「自分の親を毒親だと言うのは努力不足で無能で無気力な自分の責任から逃れるためのただの現実逃避的甘えだ」というコメントが多い。
何故そう言い切れるのか。
それはそうしたコメントの多くが毒親から勝ちあがったつもりの勝者だからだ。
実際、毒親エピソードについて否定する理由の多くが「どこの家庭にでもある話」としている。
裏を返せば程度の差こそあれどそれは「うちの親も毒親」という証明にしかなっておらず「毒親はいない」という証明ではない。
親の種類も3種類。
子供を思う良い親。
自分の事を優先する毒親。
そして育児放棄した法律上の保護者という体裁をとっているだけの親モドキ。
毒親は他人の毒親エピソードを見たり聞いたりしても「何処にでもある」と切って捨てるが一方で親モドキのエピソードを見ると「何てひどい毒親なんだ」と憤慨する。
毒親に育てられてるから基準がそもそもまともじゃないのよ。
毒親は勝者の成れの果て。自分を有能だと思っている。
仕事もそれなり、パートナーもいる、子供も出来た。
昔から言われる世間一般の「成功者の幸せ」を手にしているから自分は正しいのだ、と。
そうした内外から見た家族像で成功、失敗の判断。
立場についても親と子の強弱の関係、夫婦間の立場の強弱で考えるから常に成功、正解の強者側に立とうとして結果的に毒親になる。
毒親について甘えと語る人達は自分は「愛情を受けて育った」と語る。
2分割の成功、失敗の判断でまともな親と毒親かを語る勝者達のいう愛情とは何を持って親から受けたと判断しているのか。
シンプルに「自分が成功しているから」「子供の頃、特に大きな苦労がなかった」
それに尽きる。
だから失敗していれば毒親と言うのだろうし、子供の頃に大きな苦労や我慢をしていれば毒親と言うのだろう、この手の人間は。
2×2の4マスで考えた時。
両方の軸が自分が成功している、子供のころ苦労しなかった→親は良い親だった。だから親になった時それを真似よう。
自分が成功したか苦労した→親から苦労させられたが自分はそれに打ち勝った。あれは試練だった。自分のやってきた事は正しい。
自分は失敗したが苦労しなかった→親が自分を箱入り息子、箱入り娘に育てたお陰で自分は失敗した、毒親だ。
自分は失敗したし、苦労もした→蛙の子は蛙。もう終わらせよう。
この4マスで考えてしまうから毒親かどうかを判断出来ない。
成功したし苦労もしなかった、という人間だってそれを再現しようとしても無理な話だ。
自分の子供の頃と時代が違う、環境が違う、状況が違う。
運が全てとは言わないが再現出来ない事を追い求めたり、絶体視するのは破滅への道でしかない。
話がズレてきたから毒親の話は一旦止めて愛情とは何か。それを次話で3分割で考えよう。
愛情とは何か考えよう、とそれらしく書いたけどもう既に結論は自分の中で考えてるから考えるも何も後は書き出すだけなんだよな。