諺
数話前で何故、無駄を嫌う性質の女が「失敗は成功の母」という言葉を許容するのか、そして何故それが許容される社会なのか、という意見を語った。
何故なのか、というのはパッケージ化して楽である事。
そしてこの諺に使われる物が女という性別ではなく母親という存在なのかも考えてみた。
さて自分の場合はこの「失敗は成功の母」という一般的な言葉さえ最近までこんなふうに考えていなかった。
この諺について以前までの自分の解釈を言語化するなら「成功するまでやれ」という風にしか捉えてなかったと思う。
諺一つとっても何行にも渡って解釈した自分の考え方ですら女の性質のもと、無駄を排除していけばたった10文字前後の解釈になってしまう。
どちらが諺の本質に近いかと言えば恐らく自分の考えた長々とした文章で表した事。
「失敗と成功の判断」は女の性質。
「物事を俯瞰視点で見つめ、導いたり、協力したり、あるいは問題を指摘する」というのは全体像を見渡せる強者の役目。
だから女の強者である母親というワードが使われている。
その後にくるのが未だ成功に至らない弱者がするべき事が「成功するまでやれ」となる。
だから「成功するまでやれ」というのも間違ってはいないがそれはあくまで「失敗は成功の母親」を構成する一つでしかない。
無駄を排除し過ぎて本来必要な部分すら取り除き、諺の意味を成していない。
そしてこの無駄を排除し過ぎた解釈の悪質なところは「諺」という過去の偉人か誰かの実績を盾にした権威主義的な側面だ。
おかげで単に「成功するまでやれ」というよりも「失敗は成功の母だ」と告げた方が判断や責任を丸投げ出来る。
実際、自分のように言葉の本質を理解しないままの人間は割といると思う。
その証拠が自分自身であり、自分の周りの人間。
だから周りの誰にその言葉の意味を聞いても「失敗は成功の元」とか多少言葉を変化させつつも結局オウム返し的に意味の分からないまま「とにかくやれ」という脳死的な言葉で解釈せざるを得ない。
そしてそうやって自分のような愚か者は育つ。
この「失敗は成功の母」の諺に限らず様々な諺、格言、そして文化、方言やあるいはネットだと語録やミームなどという話にも共通している。
この中でネットの語録やミームという存在はネットで生まれたために説明や実例など調べれば簡単に出てくるし、同時にそれ以上の意味もない。
逆にいえば自分で調べれば簡単に本質も全容も見えてくるのがデジタルな物やネットで使われる語録であり知りたいのであれば「自分で調べろ」という言葉を返すのはそれで完結するのが容易だからだ。
しかしネットなどが生まれる前からある者についてはネットには文章、あるいは静画、動画などでしか存在しない。
しかしそれ以上の価値や意味がある、と信じているから祭りであったり伝承していく事が必要、と考えている。
しかしデジタルな物よりもそうしたアナログな文化を重要視している田舎に限ってそれらの説明がない。
女の性質である田舎では無駄を省いて言った結果、自分が諺の本質を理解できていなかったように「とにかくやる」というだけの話になっている。
体感することは大切ではある。
しかし体感だけではその文化が出来た時代や環境、人間、全てが違う以上足りない。
言語化できる人もいるだろうが、それはごく一部であってただ伝承することだけが文化となってしまった。
結局、その意図や本質を蔑ろにしたまま、そしてそれをちゃんとそれに関わる人達に伝え、納得させる事をせず、一部の人間だけで完結している結果、廃れていく。
その辺はネット語録なども同じだ。
そしてネット語録を使う人間がバカにされるのと同じ理屈で田舎者、そして田舎そのものがバカにされる。
言葉だけでは足りない、だからといって体感だけでも足りない。
他人の言葉を使わずに自分の経験や考えた事を大事にしろ、と昨今良く聞く言葉だ。
物事の結果だけみれば過去の人間が既に通ってきた事と同じ場合が殆どだ。
いくら文化や制度、技術が発展しようとも同じ人間だから当たり前の話だ。
だから諺や格言、そうした物を使う事自体は問題ないし、効率的な意味ではそうしたパッケージ化された物は使うべきだ。
しかし、その言葉を使う以上はその本質をちゃんと理解して使うべきだ。
そうでなければ言葉を発した人間が背負うべき「判断」は「曖昧」になり、背負うべき「責任」は言葉を向けられた人間に「転嫁」される。
長々と語ったが「何故ですか?」「どういう意味ですか?」
と突っ込まれたら憤慨しないでちゃんと教えてやれよ、って事。
というと「自分で調べたり考えようとしないで」とお怒りになる奴がいるだろうが、自分で調べられるのは先述した通りに文章や静画や動画など止まり。
それで良いのなら親も教師も要らんのよ。
貴方に聞いている、という事はパッケージされた言葉の中にはある貴方の解釈を聞きたい。
それを説明してやれ、という事。