何故男は下らないことを競うのか。
よく女が男に対して下らないことで競い合う事について理解できないと言ったりするが、これは0と1で考える女の性質だから「下らない」と判断できること。
では男にとってその競い合う行為とはなんなのか、というと女の性質を手に入れるための行為だ。
例えばかけっこ。
よく小学生は脚が早い男子の方がモテる、と言うが精通もしていないその年齢の男子ってそんなに女子にモテたいからとか考えてるか?と言う話になる。
もしかしたらこの年齢でも既に好きな女の子がいる男子もいるかもしれないがその年齢くらいの男がかけっこをやる理由なんてクラスのヒーローになりたい、アイツに勝ちたい、楽しい。
そんなところだろう(という事にしておいてくれ)
かけっこ、もっとちゃんと競技として考えるなら競走。
その競争で男が女の性質を手に入れるとはどういう事か。
コレは「競走で早くなる事」が自分にとって「必要か」「不必要か」を自分で判断して決めるためだ。
例えば9人で競走した場合。
上位3人に入れば「自分の可能性」を感じて体育の授業、あるいは陸上部などに熱心になるといっても不思議じゃない。
0か1の判断で必要だと判断し、「1」を答えにする。
一方、下位3人に入れば「自分には可能性はない」と感じて体育の授業には熱を入れないだろうし、運動系の部活も敬遠するかもしれない。
0か1の判断で不必要だと判断し、「0」を答えとして出す。
それを見る人が見れば「諦め」と解釈するかもしれないが「納得」と解釈する人もいる。
「競走は自分には向かない、だから別の物を考えよう」
それはそれで良い。
実際、過去の同級生を振り返ればそういう子もいた。
体格が小さい、運動神経が鈍い、病弱である。
だか、そんな子達は最初から体育の授業は単位を落とさない程度に受ける、その代わりに勉強を頑張る、部活や習い事を頑張る。
さて上位3人と下位3人は1か0で判断つけやすいが中間の3人はどうか。
上位の連中を見て「才能があるから」と思う気持ちもある反面、「一番には届かなくても3位なら自分でも頑張ればイケるんじゃないか」という思いもある。
そして下位の連中を見て「落ちこぼれ、努力不足」と見下す一方、「自分も開き直って別の道を目指した方が賢いのかもしれない」と思っても別におかしな話ではない。
そしてこの中間層に加えて上から3番目は
「1位と2位に努力して勝ったとしてもコスパを考えた場合、そこまでやる価値があるのか?」という気持ちが出てくる。
同じように下から3番目は
「見切りをつけてしまうより、もう少し頑張って一つ順位を上げれば自分が中間になれる。馬鹿にされずに済むのではないかという欲が出る。
コレが結局、3分割しても中間層が多い理由だと思う、…ってのは何処かで語ったかも。
ともかく、この中間層と上からと下からの3番目の層が中々0と1を決められない。
与えられる報酬に対して「0」,あるいは「1」を選んだ時の労力、メリット、デメリットで悩む。
コレについては競走という学校生活にあり得る例を上げたからもしかしたら「女だってコレくらい悩む」と反論を受けるかもしれない。
だがコレが男は本当にどうしようもない碌でもないことから高尚な事までやりたがる。
じゃなきゃ「巨根願望」なんて持たねえよ。
露出したら一発アウトなのに。
確かモノの平均サイズは13センチ、らしいが性行為を行い、相手を妊娠させるために必要なサイズは7センチとかその辺らしい、ってのを自分もそういう願望があった時期に調べた記憶ある。
こんな碌でもない事を調べる暇があったら勉強なり運動できるような人間なら良かったんだけどね。
そして男は小さい頃から下らないことを競い合うが大人になれば男の性質を手にして成長してきた女もスタイルだとか化粧といった容姿だとか、あるいはパートナーの収入とか立場といったもので優劣をつけるようになる。
それは本人にとって見れば重要かもしれないが外野から見れば「下らないこと」だ。
同じ価値観の人間としかそれらの高尚さを共有出来ない。
だがそれで良い。というよりその「下らないこと」が当たり前で必要な事。
自分に理解出来ない事を重視している人が居て、そして自分の大事な事も他人から見れば下らない。
そして悩んで納得しなければ0と1の判断が出来ない、という当り前の事がしっかり認知される社会にならなければいつまで経っても他人に必要以上に干渉する社会が続く。
他人に干渉、つまり「馬鹿にして煽る」とか「我慢を強いる」という行為が無くなれば当人が悩む期間が短くなりもっと早く納得できる。
「自らを由とせよ」
私の好きな言葉です。




