母性の浪費
たまにエッセイのなかでもVtuberを見ているといった話や例えに出したりしている。
そのVtuber、特に女のVや女のファンを見て感じた語るのが今回の話。
つい最近、といってももう数ヶ月経つのだけど、ある大手事務所の男のVtuberが活動を停止する、という話がトレンドになった。
その理由が女と思われるファンからのいき過ぎた好意とその表現が活動停止の理由とされている。
自分はそのVの事はあまりしらないのだけどそのトレンドについてSNSで呟くコメントの中に「溜め込んだ母性の発散の道具として男のVtuberを使うなよ」といった風に呟いていた人がいたのを思いだした。
それを思いだしたのは別の事務所の女のVtuberの最近の配信。
実際に自分が見たのはリアルタイムではなく切り抜きなのだがその女のVは甘やかしたり世話焼きだったりと所謂「ママ味」というかその同じV仲間からもそんな立ち位置として慕われているVtuber、というのが自分の認識だった。
しかしその配信では今までのキャラ、世間一般的に言われている「ママ属性」とはうってかわって毒舌というか正論パンチで突き放す、そういうキャラとして配信していた。
そういう企画でもあったし、そもそも中身は人間だもの。別にそれが悪いというわけでもなんでもない。むしろそうした側面も魅力になるだろう。
しかし、なんとなくそのVtuberが売りの一つとして持っていたママ属性その配信のギャップと先述の「溜め込まれた母性の発散」が何処かダブってしまった。
ここまでが前置き。
何度か書いてきている話ではあるのだけど男が男らしくなるというのは女の性質を取り込むこと。
女が女らしくなるというのは男の性質を取り込むこと。
さて、ここでタイトルの母性、つまり母とは何かというと女の子が男の性質を取り込み「女らしい女」となり、そこから転じたのが「母親」 となる。
さてこれは人生を春夏秋冬に分けた場合
女の子は春
女らしい女とは夏
そして母とは秋に相当する。
そして人生における秋は自分の中では実を着ける時期。
教訓を形にする時期の事。
さて件のママ属性のVtuberの中の人については興味もないし年齢も知らん。
しかし母親という存在は女としての性を持ちながら男の性質を身に着け、そして女と男の性質のバランスを取ってきた。
さてマルチタスクのために必要、不必要の判断が得意とする女の性質に対し、母親像に求められる他者への甘やかしだったり世話焼きというのは他所の問題を解決したい、自分ではない他人や他の物に対しての拘りを持つ男の性質だ。
そうした男の性質を「ママ属性」として求められる。
V仲間に対してであったり、ペットを飼っているとも言われていたからペットに対しても「男の性質」を解放、発散させていたのかもしれない。
しかしそれであるならばバランスをとるために本来の性質である「女の性質」の発散が必要になる。
それが最近の配信で行われた「毒舌」や「正論パンチ」による必要、不必要の取捨選択。あるいは良いか悪いかのシンプルな判断による「女の性質」の発散だったのではないか、と思う。
世間一般に他人から求められる甘やかしたり世話焼きという「ママ属性」という男の性質。
これは他人と自分を曖昧にする側面もある。
確かにそれも母親として子供という弱者を守る上で一つの重要な側面だが一方で0と1のシンプルな判断を下す、世間一般の「ママ属性」には求められる事は少ないが、絶対に母親、「母性」には必要な女としての性質。
この母性という性質の中にはある2つの相反する性質をこのVtuberは普段の生活と配信企画、それぞれ対象を分ける事でバランスを取り発散できたわけだ。
最初に書いた男のVtuberを活動停止に追い込んだファンの行動は確かにツイッターに書かれたように「溜め込んだ母性の発散」、浪費だ。
これは母性の男としての性質、他人への拘りだ。
母性における女としての性質、0と1の判断。
これは本来ならファンという形で男の性質を発散し、女としての性質は仕事などで発散するのが正解、というか健全だった。
しかしそれが不可能だったという事は仕事でも女の性質ではなく男の性質を求められ、女の性質が宙ぶらりんだったのではないか。
何処かで全て自分の好きなように0と1に分けてしまいたい。
それが男のVを活動停止に追い込むまでして自己を投影して母性の満たされない女の性質の発散なのかな、とおもった。
芸術家とか自分の作品でも気に食わない作品を破り捨てたり、壊したり、…ってのは正直フィクションでしか見たことがないのだけど拘りに拘った物が納得いかなければ無価値、そんな描写と似たような事なのかも。