人生の1/3は睡眠なら1日に換算すれば16時間を基準にして生活を分割するべきでは?
今週のアプリの使用時間、とかいう通知の使い道がよくわからなかったので。
タイトルは睡眠時間を8時間として考えた場合の話ではあるけどもチラッと調べただけでも7時間の睡眠が良いだとか、そもそも年齢によって適切な睡眠時間があるとか色々出てくる話ではある。
そもそも睡眠は時間より質だ、みたいな話もあるが、まぁそれはおいておく。
最初から話がズレた。
睡眠時間が8時間でも7時間でも変わらないのだけど、それは肉体を休める時間として必要な事だ。
それを仮に1日のうちの1/3の8時間とするならソレで良い。
問題は残りの活動時間の話。
16時間でも17時間でも構わないのだけど人は「外」と「内」と「自分」の時間が必要なのだと思う。
会社や学校で赤の他人と向き合い仕事や勉強を行う「外の時間」
家庭や親しい友人との楽しさと癒やしの「内の時間」
そして外と内の時間の反省を行う「自分の時間」。
人によって仕事も違うし、それぞれの時間の比率も違うのだけどどれも必要。
よく疲れ切った社会人の比喩で「会社と家の往復」という表現をするけれど、この会社という「外」はいいとしよう。
けれどこの「家」というものが「内」あるいは「自分」というどちらか一つの属性としか認識していないから問題なんじゃないだろうか。
仮に定時で上がれるとしてその前後を1時間前後、合計2時間と昼休憩1時間を入れて11時間でそこから睡眠時間をとったら残り5時間、あるいは6時間。
そこで単純に等分でもいいから2時間半か3時間で意識を分けてみようか、と。
そしてそこからさらに考えれば通勤や昼休憩の時を所謂「自分磨き」みたいなのに上手く使えてる人はこの外と内、自分の意識をしっかり認識してるからじゃないかな。
通勤や休憩まで仕事の事を考えてる、と思ったら外の時間が増えてるだけで疲れるだけに思えるけど、それを「内」 の時間として他人とコミニュケーションを取るとか「自分」の時間として活用するだとか。
そうすればかなり極端ではあるけど11時間から8時間に外が減る。
勿論、実際の物理的な屋外、屋内と精神的な外と内、自分では違う。
とはいえ、今の時代家の中でもネットするのが当たり前でネットはそれを通じて外と繋がる。
内の時間、あるいは自分の時間が分からなくなるのはネットで外と繋がるからじゃないかな。
SNS疲れとかいう言葉も生まれて数年立つが結局その対処法ってネットを一時的にでもやめろとかそんな感じ?
よくわからんけど。にわかですまんね。
物理的な外、内、自分。精神的なその3つの分割に加えてネットの3つの分割。
全部がズレるのはこの多様な生活の上で正直しかたないかもしれない。
けどそれを区切らず曖昧にしてるから疲れるんじゃないかな。
別に昔のテレビゲームみたいに「ゲームは一日一時間」 みたいな事はしなくてもいいとは思う。
だけど例えばネットの使用時間の内訳を区切ってみる。
外の情報を集める時間。
知り合いとチャットなり通話などのやり取りをしたり、例えば今だとストリーマーの配信を追いかけるのは内の時間。
そして自分の反省や何かムラムラ、イライラを鎮めるための自分の時間とする。
ネットを使うとしても交流はしない。bgmとして動画を流しておくだとかそれこそオナニーでもなんでもいいさ。
とにかく自分だけの時間。
趣味としてネットを使うのだとしてもそういう区切りをするべきなんじゃないかな、と。
こんな事は今をときめく若い世代の人なら当たり前なのかもしれんけど、自分には考えてみないと難しいね。
これをわざわざ考えて言語化しないと駄目なくらいには自分はそういう区切りはつけられない人間だし、付けたところで何か意味があるのか?と聞かれれば…気持ちの問題?
とはいえ死にたくなるのも気持ちの問題。
生きてて楽しいと思うのも気持ちの問題。
そして思い悩むのも気持ちの問題。
思い悩むのを0か1で分断すれば生きるか死ぬかになってしまう。
「思い悩む」そういう揺れ動く気持ちや時間もあると区切っておけばいい。
可能なら活動時間の16時間を3等分出来たら良いんだけどねぇ。
仕事とかの外の時間は5から6時間、内の時間5時間、自分の時間は5時間。
小学校とか中学の頃とかの5時間、6時間の時間割ってそう考えると3分割として適正な時間だったのかもしれないなぁ。