謝罪は誰が誰にするべきか。
立場が上の人間の曖昧な指示のおかげでどうすればいいか、その判断をしている内にどうしようもなくなって罰だけ受けて次第に面倒くさがりになる。
どうすればいいか、というのは立場が下の人間にはもうどうしようもない。
反省してもそれを言い訳と言われたんじゃ反省もしなくなるから曖昧なものは曖昧なままになる。
反省して学びに変えるのが本来の在り方なのに、反省が言い訳と評価されるぐらいなら学びにもならない以上、「そんな事もあったな」ぐらいに心の隅に忘れ去って学びへと変えずに次に行くしかない。
「意識を切り替える」と言えば格好はいいが実態は「忘れて」「次の仕事に取り掛かる」という事だ。
勿論、そんな言葉が肯定的に捉えられている世の中だから時間はかかるがいずれは能力が上がるかもしれない。
だからここで男女差が生まれる。
性の役割としてマルチタスクを要求されがちで必要、不必要で判断できる能力と物事をシンプルにしたいという本能が予め備わった女。
興味を持った様々な物に対しては拘りを持ち、クオリティを上げたいと熱中、あるいは執着する本能が備わった男。
どう考えたって意識を切り替える能力は女の方が得意になる。
そのために男は子供の頃から本能的な拘りを捨てる事、つまり「もうこの拘りは満足した」と納得して意識を切り替える事ができるようにしていく訓練が必要とされる。
だからこそ男の場合は曖昧ではない指示を出して、必要な事だけをこなしていき、その作業効率と成果のクオリティを充分だと納得出来るようになれば男の方から次の課題を欲する。
では立場が上の者が曖昧な指示を出してしまって立場が下の男が結果が出せずに悩みのループにハマり、次に行けないならどうしたらいいか。
答えは非常にシンプルで単純に曖昧な指示をだして済まない、と謝ればいい。
だがそれが出来ない。「強者が弱者に頭を下げる」行為が許せない。
何時ぞやの社会的弱者に対する結婚関連の「北風と太陽」でお気持ちエッセイ書いた時と同じ。
そもそも目上の相手にすら頭を下げるのを嫌がるのがこの国の多数派だ。
いや、世界的に見てもそうなのかもしれない。
ただ目上の人間が目下の人間相手に頭を下げて頼み込む「三顧の礼」なんてものがあるくらいだし。
頭を下げるのは屈辱的かもしれないが責任は誰にあるのか、というのが明確になる。
とすれば子供はアレコレ考えるまでもなく納得するだろう。
親が認めてしまえば自分が悩む事じゃないからだ。
逆に子供の気質にもよるが、今度は成功させると奮起するかもしれないし、予め準備をするようになるかもしれない。
「他人に謝ることや感謝ができない人間」という存在がいる。
かつては自分もそうだったが結局、コレも今思えば「親が責任を子供に擦り付けて親が謝るべき所を子供に謝らせ、子供に感謝する所を子供に感謝させる」といった責任の所在が曖昧な教育でそんな人間になった要因もあるような気もする。
加えて自分の昭和気質な親は「男たる者、簡単に人に頭を下げたり感謝したりするのを見せるものじゃない」って言った記憶がある。
アレは確か自分が小学1年とかになってオアシス運動のポスターか何かで挨拶の練習か何かをしていた時だった気がする。
その剣幕のおかけでトラウマになったのか「ありがとう」って言葉を言おうとすると喉の奥が乾くというか、呼吸がしづらくなるというか。(コレはどこかのエッセイで語ったことあったかな?)
自分の親だけじゃなくて田舎にいけばこの手の昭和の親父ってまだまだいるからね。なんだろう、高倉健とかその辺の「不器用ながらも愛される男像」みたいなのに憧れがあったのかな、昭和の男は。
そういう役を演じる機会は多かったかもしれないけど、本人は名俳優なんだから不器用なわけないのに。
随分と話はズレたけど、結局謝罪するのは責任がある方。
つまり親子の関係なら子供は指示を失敗した事を謝る。親は曖昧な指示を出した事を謝る。
それで他人に迷惑をかけたら親子揃って謝る。
考えるまでもなく本来ならシンプルな事。
でも「立場があるから難しい」と言い訳する人がいるけど本当に難しいのか?って話。
さて何話か前のタイトルだけど責任よりも立場を優先させる人が多いのであれば「親は本当に必要か?」にここも繋がってくるけど、どうなんですかね。残念な頭と経験則でしか考えてないですけど。
1話につき、1000文字前後で抑えたい、というのは何処へやら。
軽く1500、2000字超えるのはちょっと考えもの。