面倒くさがり
この時期、いつも自分でタイヤ交換してるけど今年はそこまで億劫に感じなかったので考えてみた。
自分は面倒くさがりだ。
とはいえ多分、程度の差こそあれ皆そうじゃないかな。
生まれて持った性質として男女の違いがあるように脳の構造的な差もあるかもしれない。
努力ができるできないの違いは報酬の関連付けがどうたらこうたら、みたいな話もテレビか何かでやってた気がする。
自分としてもその情報を知ったとき、「自分は報酬への関連付けが上手く関連付けできない脳の構造なんだな」と面倒くさがりな自分の事をそんなふうに思った。
それに対して報酬への関連付けてやる気を出させるような訓練というか考え方みたいなのも紹介されていたがそれすらもやる気になれなかった。
そして現在はというと他人と比べると未だ面倒くさがりである事自体は変わらないと思うが、以前は面倒だった仕事や作業を殊更に面倒だと思わなくなった。
それは多分、昔よりは自己責任をシンプルに考えて3分割で頭の中で情報を整理出来るようになったからだ。
では何故昔は出来なかったのか、といえば情報が整理出来なかったからだし、自己責任も自分から見える全ての範囲を自己責任と考えていたから。
まさに手も足も出ない状態だった。
だから面倒臭いというか何をどうすればいいか処理しきれない。
前話で立場が上の存在が曖昧な指示ばかりしていたから、というのが答えだと思う。
メンタルがヘラってた時に書いたエッセイで親からまともに名前も呼んで貰えずに育った、と書いた事があったががそれを含めて曖昧な指示を受けて実際の作業をする前に自分が何をすればいいのか、何をしたら駄目なのか、何を使えばいいのか、そもそもこの指示は自分への指示なのか、という事を全部未熟な子供の頭で考えていた。
勿論、曖昧な指示を子供の頭で考えてそうそう上手くいく事なんてない。
けれど罰だけはしっかり与えられる。
小さい罰だ。怒られたり、罵られたり、小言を言われたり。
あるいはお小遣いを減らされたり、とかそういう罰。
だが罰は罰だ。
いっそ命の危険を感じるような暴力を振るわれて完全にこちらが見限るきっかけを与えてくれたほうが楽だったのかもしれない。
ソレはソレで恨みを抱えるのだろうけど。
そしてドンドン自分は自身を失っていくし、処理しきれていない不満だけが溜まっていく。
処理しきれない不満を抱えたまま、次から次へと曖昧な指示を問題を持ち込まれ、曖昧な部分を明確にしていくという作業をしている間に時間が経ち、ゲームオーバーで罰が下る。
ちゃんと教えて欲しい、と頼んでも「やってみなきゃ分からない」と逆に怒られる。
その処理をするために一人で部屋に籠もり、反省してみるが殆ど持ち込まれた問題の全容が分からないのだからただ自分を責めるだけ。
反省した所でそこで出た結論を親に言ったところで「言い訳するな」と切って捨てられる。
そのうち反省すらも無意味に感じて学びを得るよりも不満だけが溜まっていく。
これを大人になるまで繰り返し、面倒臭がりが完成し、そのまま社会に適応できずそのうち無気力になりそして…という感じ。
問題を処理しきれない、というのはつまり性癖を我慢捺せられるのと同じ。欲求不満が続き解消されないままの状態だ。
結局の所はシンプルに考えられるようになった事でいくらかマシになった以上は曖昧な指示と責任の所在が不明瞭であった事が自分が面倒くさがりになる要因の一つだったと思う。
この場合、誰がどうするべきだったか、というとやはり立場の強い人間である親が指示と責任の所在を明確にする事だったと思う。
未熟な子供の一番の問題は「何がわからないかがわからない」という状態だ。
たまに新社会人へのダメ出しだとか、あるいは低能、無能社員の共通点、みたいな話でそれらを聞くけど多分小さな頃からそうやって曖昧な指示を受けて反省も出来ずにいたからじゃないかな。
本来は少しずつ小さな事からこなして力を身に着けて行かなきゃならない。
新社会人、新入社員がそうであるように子供の期間とはそうそうものだ。
それを「早く大人に」と急かして必要な指示を省いて大人としてやらせようとするから無理を押し付ける。
それすらも「勉強」という人もいるだろうが結局その不明確な指示を出している事で全ての流れが滞る。
勉強と成果と経験、それを曖昧な指示一つでこなそうとする立場の強い人間の怠慢から格差が生まれる。
掘り下げればそうした人間もかつては同じような立場だったかもしれないが、時代が違う。
解像度が粗い時代に求められていた曖昧な成果で充分な時代のまま、それで苦労して成長した自分を正当化しようと自分も怠慢になる。
分からないでもないがそれで洗練されるのは「技術」ではなく、「人間」そのものだ。
極端な話、弱肉強食、選民思想とでも言ってもいい。
そして技術の洗練と同様に次第に先細り、やがて消える。
結論としては日本は小さい頃から面倒くさがりをわざわざ教育して作り出してきたようなもんだと思う。
面倒くさがりがやがて低能、無能になるのであればそうした教育はわざわざ無能を作り出す教育ともいえる。